Ep7-10 悪夢
見覚えのある生垣。
見覚えのある玉砂利の庭。
視界は跳ねるゴムまりを追いかけ、息を切らせながら笑い声をあげる。
『お父様』
振り返ると縁側に腰を掛けて沓脱石に足を下ろす若い男の姿が見える。なぜか黒い霞がかかっていて顔が見えない。
『気を付けるのですよ』
縁側の障子の奥で赤子を胸に抱いてあやす女性の優しい声。彼女の顔も黒い靄がかかって見えない。
赤子は指を吸いながらすやすやと眠っている。この子は柚葉だ。どんなに幼くてもすぐに分かった。
これは……自分の記憶だろうか。
澄みきった青空なのにどこからか雷の音が聴こえる。
暗い室内にロウソクの光が踊っている。
天井をぼんやりとながめる視界の端で何かの影が踊る。が、視線を向けてもそこには何もおらず、目をそらすとやはり何かが蠢いている。近寄ろうとして足掻くがどうしても近寄り難い。そんなもどかしさが影から伝わってくるようだった。
風邪をひいているのかな?頭がぼおっとしている。
わたしは虚弱でよく体調を崩しては寝込んでいたそうだ。そんなときはいつもこの奥座敷の部屋でひとりで寝かされたと聞かされている。それ以上風邪をもらわないようにだろうか、それとも周囲にうつさないためだろうか、隔離された部屋は窓一つなくていつも濃厚な香がたかれていていた。それだけはわずかに覚えている。じりじりと燃えるロウソクの芯の音だけがわずかに時間の流れを感じさせる。
この部屋は嫌いだ。
ああ、早く良くならないかな。
どのくらい時が経っただろうか。ロウソクが短くなり、ジッという音を立てて燃え尽きるころ、襖が開く。
お母さんの冷たい手が額に押し当てられて、「もう平気よ、よく頑張ったわね」と優しくささやいてくれる。
ああ、お母さんの手、冷たくて気持ちいい。
「お母さん……」
布団の中から弱弱しく返す声に微笑みを返してくれるお母さんの顔は、やっぱり黒い靄に覆われていて見えなかった。
『……救うにはもうこれしか方法がない』
『やめなさい……犠牲にしてまで……道を外れる……』
『いまさら何を。私たちの一族はすべてを犠牲にして尽くしてきた。その報い……いうなら……を捧げることもいとわぬ』
『冷静になれ。今は時間を置いて……』
『私は冷静です。これ以上は……』
ああ、静かにしてほしい。
布団の中で寝返りをうちたかったけれど、手足が重くて動かない。
今は真夏だろうか。真冬だろうか。
顔が燃えるほど熱い。が、同時に体は震えが止まらぬほど寒く、まるで芯まで凍っているようだ。
熱いのはいい。いくら熱くても心地よい。
寒いのは嫌だ。辛い。すぐにでも何とかしたい。
体を温めて……。そうだ、温めよう。熱を、もっと……。
オレンジの炎が踊っている。
天井も、柱も、畳も、すべてがオレンジの光に染まっている。
指先を舐める炎が温かい。
着物を這い、肌を焼く熱が心地いい。
『桔花!おまえ……』
桔花。それが私の名前?
『お父様……』
障子戸を開け放った影に向かって指を伸ばす。
細い指が炭くれとなって崩れ落ちる。
『気持ちいい。生まれ変わるようだわ』
『化け物……おまえになど……我が一族……業を……なかった……』
目の前の男の怒りが、後悔が、諦念がどす黒い霧となって立ち上るのが見えるようだった。憎しみに歪んだ鉤爪のような指が自分の細い首を縊ろうとするように伸びてくる。
「嫌よ、来ないで」
伸ばされた手が蝋でできているように燃えだす。
「来ないでぇっ」
私の口から出た叫びなのか、目の前の男の口から洩れた絶叫なのか分からなくなる。
まるで私から逃げようとしているように尻もちをつき手を伸ばしたまま後ずさる男の上にばらばらと火のついた天井板が降り注ぐ。
崩れ落ちた梁の向こうに男の姿は消えた。
空?
蒼く抜けるような空が目の前に広がる。
つんと鼻を突く焼けぼっくいの匂い。
朦朧とした意識で、自分が一糸まとわぬ姿で焼け跡に横臥していることを認識する。
肌を刺す冷たい風に意識が戻る。
化け物
あの男は妾をそう呼んだ。
ならば妾は化け物なのだろう。
あの男は妾を桔花と呼んだ。
ゆえに妾は桔花と名乗ろう。
妾は生まれ、再生した。
炎のゆりかごに抱かれて何度も生まれ、何度も再生する。
妾は桔花。
炎とともにあり。
すべての炎は妾なり。
妾は炎となりてすべてを焼き尽くす。
善も、悪も。
愛も、憎悪も。
父母も子も。
妾は炎。
すべてを焼き尽くし、終わらせる。
始まりも、終わりも。
オレンジの炎はますます温度を上げ、黄色く太陽のように燃え盛る。やがて世界は白熱する光に覆いつくされ、すべての影が払われて、白一色に塗りこめられていった。
音もなく、風もない真っ白な世界で膝を抱えてうずくまる。
あたしは、このままずっとここに独りなのだろう。
世界を燃やしつくしてしまったあたしへの当然の報いだ。
目を開けても自分以外何も無いし何も見えないなら目を開ける意味はない。
あたしは抱えた膝に顔をうずめたまま、永遠の時間を耐えるように瞼を閉じた。
すうっと空気が動き、背中に触れる。
「ここにいたのか」
やわらかい音が響いて鼓膜を撫でる。音……、声?
ゆっくりと瞼を開き、顔を上げる。
そんなに大きくない手が視界を遮りゆっくりと近づいてきて、頭をぽんぽんと撫でる。
「子供じゃないんだから、なれなれしく撫でないでよね」
なぜか思っていることとは違う言葉が口から流れ出す。
「ごめんごめん。迷子の子供みたいに膝を抱えてたから、ついね」
「失礼しちゃうわ。迎えに来るのが遅いのよ」
あれれ、へんだ。そんなこと言うつもりはなかったのに。だけどなぜだか流れるように口をついて出る憎まれ口が心地いい。
「これでも急いできたんだぜ?」
「ふん、次からはもっと早く来なさいよね」
「へいへい」
仕方なさそうに苦笑する彼の顔があたしの心を明るく照らす。差し出された大きくない手をあたしはしっかりとつかんだ。




