第七話 後始末
日本の転移から約一ヶ月
日本国 首都東京
首相官邸の閣議室に、その朝ひとつだけ空いた椅子があった。
内閣総理大臣・国原建人は、その空席を正面から見ないようにしていた。
一ヶ月前まで、そこには外務大臣・斉藤仁が座っていた。国原とはまだ二人とも当選一回だった三十年前からの盟友だ。
志を同じくし、殴り合うように議論し、時にどちらかが折れてまた前へ進んできた。
異界に落ちたこの国の最初の外交をどうするか。あの深夜の激論の末に「一番危ない役目は俺が行く」と笑って手を挙げたのは斉藤のほうだった。
その斉藤が、シエスタル魔法公国の宮廷で殺害された。
「家畜に序列を教えてやった」と、宰相ゴットハルトは言い放ったという。
魔法の使えぬ国は家畜同然だと。臣従を拒んだ盟友を、見せしめに、公衆の面前で。
帰還した使節団員が震えながらその様子を語ったとき、国原は生まれて初めて、政治家としてではなく一人の人間として、誰かを殺したいと思った。
開戦の決断はその翌日だった。国民の怒りは津波のようだった。舐められた。仲間を殺された。対話の手を握り返すどころか焼き払われた。
世論は一夜にして報復へ傾き、国原はその波頭に立った。あれは弔い合戦だった。少なくとも建前は。
そして今朝、その戦のひとまずの決着が報告されている。
「──以上が、シエスタル公国首都の無血接収に至る経緯です」
防衛大臣・朝田健男が資料を閉じた。
「敵は最後に全兵力を城外へ展開させ、我が第七師団に突撃してまいりました。第7師団は第2師団の支援を受けつつこれを撃滅。サクローヌは開城、市民の死傷はほぼありません」
「敵がみずから外で死んだ、か」
国原は静かに問うた。
「それはなぜだ」
朝田は少し言い淀んだ。
「……都を火の海にしないためかと。市街戦になれば住民に甚大な被害が出る。それを避けるため、騎士団は勝てないと知りつつあえて城外で我々を食い止め、その間に大公が降伏した。そういう判断だったと分析しております」
閣議室が静まった。
敵はみずからの民を守るために、無駄と知って死んだ。
こちらはその屍の上を無傷で進んだ。国原は机の上で指を組んだ。
弔い合戦の相手が蛮族の悪鬼であってくれたなら、どれほど楽だっただろう。
ゴットハルトのような外道もいれば、民のために整然と死んでいく騎士団もいる。向こうもこちら側と同じ人間だった。それを認めるのはこの上なくこたえた。
「大公と宰相ゴットハルトの処遇は」
問いを継いだのは官房長官・文部史親だった。
「ここは国内向けにも極めて重要です。世論は今も『斉藤大臣の仇を』と煮えている。国民はゴットハルトの首を待っております」
後任の外務大臣・篠森清英が慎重に口を開いた。斉藤の空席に座ることになった生真面目な男だった。
「ゴットハルトについては、公国側がすでにみずから地下牢へ投獄しています。今回の事件は宰相の独断であり、大公はそれを知らなかった。これは捕虜となった宮廷関係者の証言とも一致します。大公はいわば、家臣の暴走の被害者でもある」
「被害者?」と、文部が眉を寄せた。
「では斉藤大臣を殺したのは、どこの国だ」
「ですからそこが難しいのです」
篠森は退かなかった。
「大公を戦犯として処断すれば、統治の受け皿がなくなる。今この広大な公国を我々だけで一から治めることは、人手の上でも言葉の上でも不可能です。大公を生かし、その権威のもとで統治させ、我々はその上に乗る。占領を安定させるにはそれしかない。逆にゴットハルトは──」
「ゴットハルトはこちらへ引き渡させる」
国原が言った。低い声だった。
「斉藤を焼いた張本人だ。公国の地下牢で朽ちさせるのではなく、我が国の法廷で裁く方が国民感情を抑えられる」
「国民の前で、ですか」
「そうだ……これは私の私情も含んでいるが、正当な要求でもあると私は思う」
誰も反対しなかった。文部が深く頷いた。
「世論も納得します。大公は傀儡として立て、ゴットハルトは引き渡させて裁く。筋が通ります」
国原は頷き返しながら、胸の奥で冷たいものを感じていた。ゴットハルトを裁いたところで斉藤は還らない。
あの男の首を刎ねても盟友の笑顔は戻らない。弔い合戦とはつまるところ、生き残った者が己を慰めるための儀式にすぎないのかもしれなかった。
だが閣議は感傷では動かない。次の議題が待っていた。そしてそちらのほうが、この国の命運をはるかに直接に握っていた。
「次に、食料の件から申し上げます」
文部が資料を配った。
「公国の穀倉地帯および首都の備蓄庫を接収したことで、当面の食料危機は大幅に緩和されます。試算では本国の備蓄と合わせ、来年の収穫期まで都市部の配給を維持できる見込みです。これは非常に大きな戦果でした」
閣議室にわずかに安堵の空気が流れた。
国土ごと異界へ転移し、貿易相手をすべて失ったこの国は、食料自給率が四割を切っていた。備蓄を食いつぶすだけの一ヶ月だった。
餓えが都市部から始まる。その悪夢がひとまず先送りされた。
「ただし」と篠森が釘を刺した。
「これは他国の蔵を奪って得た一時しのぎです。持続的に得るなら、いずれは収奪ではなく、この世界とのまっとうな交易へ移行せねばなりません。公国の民から取り上げ続ければ、来年は向こうが餓える。恨みも抵抗も際限なく広がります」
国原は静かに考えた後、ある疑問点を問いかけた。
「篠森。ひとつ訊く。我々は何をもって、その食料を買う」
篠森が口を開きかけて、止まった。
「外貨がない」
国原が続けた。
「いや、外貨という概念すら、この世界とのあいだには存在しない。向こうの通貨は我々の手にないし、向こうは円を受け取らん。我が国が輸出できる工業製品とて、燃料と原料が尽きかけている今、量産は難しい。違うか」
篠森は、しばらく黙っていた。それから、絞り出すように言った。
「……仰る通りです。等価の交易は、少なくとも今は成り立ちません」
「ならば答えは一つだ」
国原の声に、もう迷いはなかった。
「食料は調達する。占領者としての権限でだ。公国の農民が飢え死にせぬぎりぎりの線は、篠森、お前が引け。それ以上でも、それ以下でもなく」
「分かりました。しかし、反発は必至ですね……」
「残念ながらきれいごとを言う余裕は、この国にはない」
誰も、異を唱えなかった。
食料の調達。それは、かつて最も忌み嫌われる占領軍の所業だった。
その言葉を、日本の総理が、みずからの口で選んだ。国原は、その事実の重さを胃の底に沈めた。
「失礼。次に資源について自衛隊から報告が」
これまで発言を控えていた統合幕僚長・山田劉生が、初めて口を開いた。制服の、痩せた初老の男だった。
彼が語るのは、食料よりも乾いた、もっと差し迫った話だった。
「石油に関してですが、今朝、自衛隊から現在の状況を覆す報告が上がってまいりました」
国原が顔を上げた。
日本が困窮していた問題は食料だけではない。現代文明にとって欠かせない石油も、日本は自給できない。
転移時に保有していた石油備蓄は、国家・民間を合わせておよそ二百四十日分。しかも今回の自衛隊の作戦で、艦艇、航空機、機甲部隊が猛烈に燃料を消費していた。
備蓄は想定より速く減っている。石油が尽きれば、戦車も護衛艦も戦闘機も止まる。発電所の多くも止まる。トラックが走らねば、倉庫に食料があっても都市へ運べない。
だが山田は、そこで一拍おいて、言葉の調子を変えた。
「第七師団が公国内を進撃する途上、複数の地点で、地表に油が滲み出ている土地を確認しました。工兵と技術幹部が現地を確認した限り、天然の油徴です。この世界の民は魔法があるためこれを使う発想がなく、まったくの手つかずで放置されておりました。有望な候補地が、現時点で確認できただけで数か所。おそらく、探せばまだ出ます」
「使えるのか、それは」
朝田が身を乗り出した。
「すぐには使えません」
山田は正直だった。
「原油が滲んでいるというだけです。採掘し、精製し、輸送する設備を、一から建設する必要があります」
「どれくらいかかる?」
「試算では、最短で半年」
山田の率直な試算に、閣僚達はそれぞれ反応が分かれた。安堵する者と、油断ならないと気を引き締める者。
だが本人は少し取り繕った笑いを作りつつ、再び顔を上げた。
「しかしです。掘る場所がある、というだけで、話がまるで変わります。これまでは、油がこの世界のどこにあるのかすら、分かりませんでした。しかしこれで時限爆弾の信管が抜け、時間との勝負になっただけでもだいぶマシです」
国原は、深く息を吐いた。
張り詰めていたものが、わずかに緩んだ。餓えても、暗闇に沈んでも、もう終わりだと、そう覚悟しかけていた道の先に確かな光が見えたのだ。
この国は、生き延びられる。少なくとも、その芽はある。
だが、同時に、国原は理解していた。その光が、何を意味するのかを。
候補地は、公国の各地に散らばっている。そこに井戸を掘り、製油所を建てるということは、その土地を長く押さえ続けるということだ。
守るために自衛隊を置き、街道を敷き、逆らう者を退ける。徴発した食料でその兵を養い、掘り出した油でその戦車を動かす。
それは、一過性の弔い合戦ではない。
腰を据えた、恒久の占領だった。
日本は、生き延びるために、この世界の土地に、深く、根を下ろそうとしていた。抜けない根を。
「山田。朝田」
国原は、目を開けた。総理大臣の顔だった。
「油田候補地の探査と確保、製油設備の建設を、最優先の国家事業とする。防衛省と資源当局で合同計画を至急立案しろ。確保した候補地の防衛態勢も、あわせて詰めろ。備蓄が尽きるまでに、一か所でも、油を回せるようにする。それが、この国の、生命線だ」
続けて、新外相へ。
「篠森。大公政権を通じた統治と徴発の枠組みを固めろ。占領を、恨みではなく諦めで受け入れさせる線を探れ。反乱で油田を焼かれるのが、最悪だ」
最後に、官房長官へ。
「文部。国内向けの発表は、弔い合戦の勝利と、資源確保の見通しまでだ。徴発と恒久占領の実態は、当面、伏せろ。国民に、我々が何になろうとしているかを告げないように」
三人が、それぞれに頷いた。
会議が終わり、この部屋から閣僚達が退室していく。その中で、国原は部屋に残り、ふと首相官邸から外を見た。
閣議室の窓の外に、東京の街が広がっていた。
異世界の空の下、それでもいつも通り、朝の光を浴びて人々が働き、子供が学校へ向かっている。
守るべき暮らしだった。
それを守るために、他国の暮らしを喰らわねばならない、この国の現状。
国原建人は、その街をしばらく見つめてから、もう一度、斉藤の空席へ目をやった。
対話を、交易を、共存を、本気で信じていた男。
もしお前がまだそこに座っていたら、生きて帰ってきていたら。
奪うのではなく分かち合う道を、この国は選べただろうか。
わからなかった。だが、ひとつだけ確かなことがあった。あの瞬間に、あるいは国土ごとこの餓えた異世界へ落ちた瞬間に、この国はもう後戻りのできない道へ踏み込んでいた。
弔い合戦は、その道の入口にすぎなかった。餓えた国が、生き延びるために、この世界へ根を下ろし始めている。
土地を徴し、油を掘り、逆らう者を退けながら。かつて自分たちが最も忌み嫌った姿へ、静かに、着実に、変わりながら。
斉藤なら、この選択を、なんと言っただろう。
その声を、もう聞けないことだけが、国原には、たまらなかった。




