第六話 炎の中のサクローヌ2
地下牢へ宰相が消えたあとも、都を焼く現実は、何ひとつ変わらなかった。
むしろ、時は刻一刻と破滅へ向かっていた。西面の城壁は、また一つ崩れたと報告が入った。
敵の鋼鉄の獣が、その瓦礫を乗り越えれば、あとは市街まで遮るものはない。
アルブレヒトは、円卓を離れ、玉座の前に片膝をついた。
「大公陛下。ひとつ、お許しをいただきたい」
老騎士は、静かに、しかし迷いのない声で言った。
「このまま城壁を破られれば、敵は市街に雪崩れ込みます。石畳の一軒一軒で、戦うことになる。家の陰に潜んだ兵を狩るために、あの鉄の獣は、家ごと火を噴くでしょう。逃げ惑う市民の頭上で」
「……そうであるな」
「そうなれば都は火の海です。数十万の民が、老人も、女も、赤子も、焼かれる。魔法で照らされ、魔法で潤ってきた、五百年の都が、灰になる」
大公は、答えなかった。ただ、老騎士を、じっと見つめていた。その先を、察していた。
「ですから、我ら魔導騎士団は、城壁の外へ出ます。残る全兵力を率いて。壁の中ではなく、壁の外で、決着をつけます」
「……勝つのか?」
「勝てるとは、申しません。あの鉄の獣に我らの魔法は届かぬ。それは平原で嫌というほど思い知りました。ですが──」
アルブレヒトは、顔を上げた。その目には、静かな、揺るぎない光があった。
「我らが野で敵を食い止め、その足を半日でも、一刻でも止めているうちに、陛下は降伏の使者をご準備ください。都の門を開くのではなく、野で戦っている隙に白旗を掲げるのです。敵を、市街に一歩も入れぬまま」
それは、勝つための策ではなかった。
都を、民を、守って死ぬための策だった。
三千の騎士の命で、数十万の民の暮らしを購う、そういう取引のようなものだ。
大公の落ち窪んだ目に、光るものが滲んだ。老いた君主は、玉座から立ち上がり、震える手で、老いた騎士の煤けた肩に触れた。
「……アルブレヒト。余は、そなたのような臣を持ちながら、あの脂ぎった男に、国を託した。耳に痛い諫言より、心地よい追従を選んだ。愚かであった」
「…………」
「この老いぼれの愚かさのために、そなたと、そなたの騎士たちを、死地へ送る。すまぬ。許せとは、言わぬ」
「もったいなきお言葉です」
アルブレヒトは、深く頭を垂れた。声は、穏やかだった。
「五百年、この国の魔法は、民の暮らしのためにありました。畑を潤し、病を癒やし、冬の夜を照らし、朝ごとに鐘を鳴らすために。杖を執る我ら騎士とて、突き詰めれば、その暮らしを守るための垣根にすぎませぬ」
「……そうだな。そうであるな」
「ならば、最後の一度くらい、垣根らしく死なせていただく。民の暮らす石畳を、我らの屍で守らせていただく。騎士として、これに勝る誉れは他にございませぬ」
老騎士は、立ち上がり、一礼して、広間を出た。
彼は、振り返らなかった。
「……すまない、皆」
大公は二度と会えないその背中を見送り、奥歯を噛み締めるしかなかった。
そして、その夜の明け前。
城壁の門前に、残されたすべての魔導騎兵が整列していた。
その数、約三千騎。
松明の灯りに、磨き上げられた甲冑が鈍く光っている。誰もが、これが最後の朝だと知っていた。
アルブレヒトは、馬上から、その三千を見渡した。
若い顔が多かった。フェルデンで先達を失い、繰り上げで前線に立った、まだ二十歳そこそこの者たち。
その中に、彼の従騎士ニクラスの顔もあった。十七の、少年と言ってよい年頃だった。
三年前、アルブレヒトが田舎の村から見出し、手ずから剣を教えた子だ。ニクラスは、青ざめながらも、まっすぐ前を見ていた。
「団長」
と、ニクラスが馬を寄せて、小さく言った。
「俺たちは……勝つのですか?」
アルブレヒトは、少年の兜に、そっと手を置いた。嘘は、つきたくなかった。
「勝てぬだろう。だが、負けもせぬ」
「はっ……」
「我らが今日ここで死ぬのは、負けたからではない。守るために、死ぬのだ。壁の中には、お前の妹もいる。パン屋の娘も、鐘つき堂の老爺もいる。あの者たちが、明日の朝も、鐘の音で目を覚ませるように」
「……そうですね」
「そうだ。そしてそれは、負けとは言わぬ。我ら騎士の、生涯をかけた勝ちなのだ」
ニクラスは、少しだけ、笑おうとした。うまく、笑えなかった。だが、頷いた。
空が、白み始めた。
アルブレヒトは、杖を高く掲げた。
「シエスタルの騎士たちよ! 我らの魔法は、鉄には届かぬ! だが、我らの命は、都の壁より固い! 一人でも多く、あの獣を、この野に釘付けにせよ! それが、我らの、最後の魔法だ! 」
正門が、開いた。
「突撃!」
三千騎が、鬨の声とともに、城外へと駆け出した。
彼らは駆けながら、隊列全体を覆う、巨大な術式を編み上げていく。
突撃結界、と呼ばれる術式だ。
前方からの衝撃を弾き、束の間、鋼の礫すら逸らす、騎士団秘伝の集団防御術。
三千の魔力を束ねて張られたその淡い光の障壁を先頭に押し立て、騎士団は平原に展開した鉄の獣の群れへ、まっすぐ突進した。
必ず、届かせるのだ。
「戦車隊は後退しながら応射! 間隔を空けろ!」
第七師団師団長の山城は、指揮官同士の調整の最中に指揮車両に呼び戻されていた。
山城は各個に応戦する戦車隊へ、後退の指示を出す。
その向こうでは、青白い光の壁を押し立てた騎兵の群れが、地平を埋めて迫ってくる。
傍らの太田が、思わず息を呑んだ。
「師団長、あの光……一部の砲撃を弾いています! 」
山城は息を呑む。
十分前、ドローンの偵察によって三千人余りの騎兵が壁内で待機しているのを発見。
市街地への砲撃を避けるため、門を開け放つまで攻撃を控えていたが、その選択はまずかったらしい。
「航空隊のヘリはどうした?」
「補給を切り上げて急行中です!」
山城は歯軋りをした。
人が数人、束になって展開する程度の魔法には、戦車の砲弾を逸らす能力はなかった。
だが数千人規模で集まれば、それが可能になるらしい。自衛隊はこの数日間で魔法というものを甘く見てしまった。
目の前であり得ないことが起きている。
彼はそれでも、指揮官として冷静になるように努めた。そして、部隊に命じ続ける。
「戦車隊、射撃続行! 撃ち方を緩めるな!」
10式戦車の砲が、吠え続けた。
突撃結界は、直撃を、確かに逸らした。
だが、逸れた砲弾が地面を抉り、その爆風が、騎兵をなぎ倒す。
突撃結界とて無敵ではなかった。一騎、また一騎と、光の壁の外側で、騎士が馬から崩れ落ちていく。
落ちた者の分だけ、結界を支える魔力が、細っていく。
それでも、三千騎は止まらなかった。屍を乗り越え、なお前へ。仲間の亡骸を踏み越えて、光の壁を、必死に、前へ、前へと押し出していく。
射撃が、続いた。続きすぎた。
「師団長!」
指揮車両の通信士が、緊迫した声を上げた。
「第三戦車中隊より入電! 各車、弾薬が尽きます! 第一、第二中隊も同様に間もなく!」
これほどの数を、これほど間断なく撃ち続けたのだ。
鋼の獣とて、腹の中に収めた牙は無限ではなかった。一輌が積める砲弾には限りがあり、補給も貧弱なため万全ではなかった故だ。
次々と戦車が沈黙した。砲弾を撃ち尽くして、鋼の口を閉ざして後退していく。
その束の間の火力の空白を、突撃結界は見逃さなかった。
騎兵の光の壁が、じりじりと、間合いを詰めてくる。あと少し。あと少しで、公国の魔法が日本の隊列に届く。
太田の額に、汗が滲んだ。
「師団長、このままでは、魔法の射程に……! 」
山城は、双眼鏡を、ゆっくりと下ろした。
師団長としては後方陣地ごと後退する案も選択肢に入ったが、ここで後退すれば、その隙に敵は勢いづき、追撃を受けるかもしれない。
山城はそれを望んでいない。彼は後方を振り返り、低く命じた。
「後退しつつ特科の99式を前に出せ。直接照準だ」
その命令に、太田が耳を疑った。
「じ……自走榴弾砲を、直接射撃で、ですか?」
「火力が不足している」
「しかし、あれを前線に出すなど──」
「弾があるものが撃つ。それだけだ」
山城の声は、静かだった。
「部下の命が重い。急げ」
その命令を受け、戦車の後退と共に、後方に控えていた99式自走榴弾砲が地を揺らして代わりに前進した。
本来は、地平の彼方を面で焼き払うための大砲である。
しかし今は、その巨大な砲身を水平近くまでぐいっと倒し、迫りくる騎兵の群れへと、まっすぐに狙いをつけた。
一斉に発砲。
155ミリの砲弾が、至近で、炸裂した。
突撃結界は、その一撃には、耐えられなかった。
榴弾が、結界の光を、内側から食い破る。爆炎が、閃光が、内側の騎兵を、馬もろとも、まとめて、空へ吹き飛ばした。
一発で、十騎が。
また一発で、十騎が。
フェルデンの麦畑で、あの少女たちが浴びたのと寸分違わぬ地獄だった。
今度は、浴びる者が変わっただけだった。
それでも彼らは前へ出た。
三千が、二千になり、千五百になり、千になり。
血と炎の道を、屍で築きながら、光の壁は、細りながらも、確かに、日本の隊列へと、迫っていった。
アルブレヒトの傍らで、ニクラスが、まだ生きていた。
少年は、蒼白な顔で、それでも懸命に結界へ魔力を注ぎ続けていた。
「団長! 届く! あと少しで、俺たちの魔法が──!」
「そうだ、ニクラス! よく堪えた!」
あと、五十歩。あと、三十歩。先頭の騎士が、杖を振り上げ、攻性魔法の詠唱を、始めた。
三千の生き残りが、最後の力を振り絞る。届く。届いて、しまう。都のために、一矢が、報われる。その、はず、だった。
その、刹那だった。
突撃してきた騎士団の左の側面が、突如として光になった。
左に居たニクラスは肉片となり、姿が見えなくなっていた。
アルブレヒトは空を見る。
そこには上向きの風車を回して空を飛ぶ、奇怪な荷車のような兵器がいた。
陸自の攻撃ヘリコプター、AH-1である。
城壁を上空から一方的に撃ち下ろしてきていたあの兵器が、こちらの弱点を突く形で戻ってきていた。
彼らの有する火力が、瞬間を待っていたかのように攻撃を開始した。騎士団にとって無防備な空から一斉にロケットを叩き込み、離脱していく。
騎士団は、正面の第七師団に、すべてを賭けていた。
結界も、視線も、魔力も、ただ前へ集中させていた。誰も上を見ていなかった。見る余裕がなかったのだ。
光の壁が、その一斉射にあっけなく砕け散った。
剥き出しになった上面から、ロケットが、機関砲の火箭が、横殴りの雨のように降りそそぐ。
千の騎兵が、麦畑の露と消えた。悲鳴も、呪文も、都への祈りも。すべて届く前に、断ち切られて。
アルブレヒトの馬も倒れた。
地に投げ出された老騎士は、それでも身を起こし、杖を地面に付けて立ち上がった。
周囲には、もう立っている味方はいなかった。三千の騎士団と突撃結界の光は、跡形もなく消えていた。
あとには焦げた麦畑と、無数の動かぬ甲冑だけが、朝日の下に広がっていた。
老騎士は、最後に都を振り返った。
白亜の尖塔が、朝日を受けて、淡く輝いていた。
まだ、燃えていない。城壁の内側では、いつも通り、朝の鐘が鳴り、竈に火が入り、子供が目を覚ましているだろう。
あの都は、無事だ。民の暮らす石畳は、戦場に、ならずに済む。
「それで、よい……」
老騎士の唇が、確かにそう動いた。安らかな、満ち足りた声で。
次の瞬間、彼の視界は、白い光に呑まれた。
そして、静かに閉じた。
五百年の騎士団は、都の壁の外で、一騎残らず朝の露に還った。
彼らは、負けたのではなかった。守り抜いたのだった。
その日の正午、シエスタル魔法公国は、正式に、降伏した。
大公レオポルト自らが、老いた足で城門を出て、日本の軍使を迎えたのだ。
抵抗する兵士は、もう一人もいなかった。
兵は皆、壁の外で都を守って死んでいた。
自衛隊は、その騎士団の"贈り物"の意味を正しく受け取った。
彼らは、一人たりとも市街へ足を踏み入れることなく、静かにサクローヌを接収したのだった。




