第三十二話 拉致
越境から78時間後
王城マルグリース 王の私室
シュナイダーは窓辺に立って南の空を見ていた。夜だというのに空のあちこちが赤く滲んでいる。
港が燃え、城下の砦が燃えている。
ほんの数刻前までこの国を守っていたはずの対空の備えも、衛兵の詰所も、あの空を飛ぶ鋼の翼に次々と焼き払われていった。
魔法ではあの高さを飛ぶものに手が届かない。
「兄上」
背後でクロヴィスの声がした。
弟は地図を広げた卓に両手をついていた。だがその地図には、もう動かす駒がなかった。
「陸の軍は壊滅。海軍も外洋で全滅しました。生き残りの話では、誰一人、敵の艦を見ていないと。空から火が飛んできて沈んだと。そして今、その敵の航空機がこの王都の上に……」
「わかっている」
シュナイダーは静かに言った。
「逃げましょう。今ならまだ。川を下れば、あるいは北の山へ。再起を──」
「どこへ逃げる、クロヴィス」
シュナイダーは振り返った。その顔に恐怖はなかった。
あるのは深い疲れと、奇妙なほどの静けさだった。
「あの連中は空を飛び、海を越え、退路を断つ。川を下っても山へ逃げても同じことだ。逃げ場などこの国にもうない。それに王が真っ先に逃げてどうする」
「ですが!」
「私がこの戦を始めた」
シュナイダーは遮った。
「仔狼のうちに討つと、私は玉座でそう叫んだ。討たれたのはこちらだったがな。始めた者が真っ先に逃げるわけにはいかん。それだけは王としての最後の筋だ」
クロヴィスは言葉を失った。兄の言うことは正しかった。逃げ場はない。そして兄は逃げる気がない。
シュナイダーはもう一度、窓の外を見た。燃える王都。彼が守ると誓った、民の暮らす街。その空に新たな音が近づいていた。
ローターの重い羽音。地を這うのではなく、空からまっすぐこの王城へ。
「……来たな」
シュナイダーは呟いた。
「クロヴィス。杖を抜くな。抵抗すれば殺される。生きていれば、まだこの国の民のためにできることがあるかもしれん。王として最後まで生きていろ」
クロヴィスは震える手を腰の剣から離した。
羽音がすぐ近くまで来ていた。そして城のどこかで、乾いた破裂音がいくつも響き始めた。
同時刻
特殊作戦群
特殊作戦群の隊長、鷹森は、暗い城の回廊を音もなく進んでいた。
UH-60から城の中庭へ降り立って、わずか数分。彼らはもう王城の奥深くまで食い込んでいた。目標は二つ。
この国の王シュナイダーと、軍を握る王弟クロヴィス。
生きたまま確保せよという命令だった。二人を押さえればこの国は頭を失う。頭を失った国は抵抗を続けられない。それがこの作戦の狙いだった。
城の中は闇だった。夜襲を受け、灯りの多くが消えていた。
だが鷹森たちにとって闇は味方だった。暗視装置の緑の視界の中で、彼らは昼のように動ける。逆に城の守り手たちは、闇の中で何も見えていなかった。
「止まれ! 何者だ!」
回廊の角から、松明を掲げた衛兵が数人現れた。
彼らには鷹森たちの姿がほとんど見えていない。松明の灯りはその周りしか照らさず、かえって闇を濃くしていた。
鷹森は迷わなかった。抑えた発砲音が連続して響く。衛兵たちはこちらを視認することも剣を構えることもできぬまま崩れ落ちた。
彼らが最後に見たのは、闇の中で緑色に光る獣のような目だけだったかもしれない。
人ではない何か。悪魔のような何かだった。
魔導師もいた。詠唱を始めようとした宮廷魔導師が、廊下の奥から火の玉を練り上げようとする。
だが詠唱には時間がかかる。その時間を鷹森たちは与えなかった。魔法が完成する前に術者は倒れていた。
閃光弾が、暗闇に慣れた守り手の目を一瞬で潰す。その隙に部屋を一つずつ制圧していく。
速さがすべてだった。相手が何が起きているのかを理解する前に。
態勢を整える前に。この闇の中の敵を目で捉える前に。
鷹森たちはただ流れるように城の奥へと進んでいった。
この城の守りは決して弱くはなかった。歴戦の衛兵がいて、腕利きの魔導師がいて、分厚い扉と複雑な回廊があった。数百年この王家を守ってきた堅固な城だった。
だがそのすべてが、夜と暗視装置と消音された銃と閃光弾の前では意味をなさなかった。
そして鷹森は、王の私室の前までたどり着いた。
「目標、確認。この奥だ」
彼は扉の脇に部下を配置した。無線に短く告げる。
「これより確保に入る。繰り返す。目標は生かして確保する」
扉が蹴り破られた。
閃光弾は使わなかった。使う必要もなかったからだ。
かわりに暗視装置を持つ影が複数、なだれ込んでくる。
シュナイダーとクロヴィスは部屋の中央に立っていた。
二人は抵抗しなかった。シュナイダーは剣を床に置いていた。
両手をわずかに開いて見せる。抗う意思のないことを示すように。クロヴィスも兄に倣った。震えながら、それでも杖の柄から手を離していた。
なだれ込んできた影を、シュナイダーは静かに見た。全身を黒い装具で固め、頭には奇妙な四つ目の機械。
手には闇でもこちらを正確に狙う黒い銃。人の形をしていた。だがこの国の誰とも違っていた。
かつてシエスタルの少女が納屋で見たという、あの悪魔と同じような異形だった。
その異形がこちらへ銃口を向けたまま、短く何かを命じた。
言葉は通じた。この世界と日本の言葉は、なぜか通じる。
「動くな。両手を頭の後ろに。ゆっくりだ」
シュナイダーは従った。ゆっくりと両手を頭の後ろへ回す。
「私がハルゲニア国王、シュナイダー・エル・ブランコだ」
彼は静かに告げた。
「そちらが探している者だろう。抵抗はしない。弟のクロヴィスもだ。手荒なことはしないでくれ」
鷹森はその言葉を聞いた。翻訳を待つまでもなく意味はわかった。
目の前の若い男がこの国の王であることも、抵抗の意思がないことも。彼は部下に頷いた。
操作は手早かった。シュナイダーの両手が後ろで冷たい金属の輪に拘束される。
手錠。次いで目の前に黒い布が下ろされた。目隠し。視界が闇に閉ざされる。クロヴィスにも同じことがなされた。
「兄上……!」
「クロヴィス。静かにしろ」
目隠しの下でシュナイダーは言った。
二人は両脇を抱えられ、部屋の外へ連れ出された。
燃える王城の回廊を抜けていく。倒れた衛兵の、魔導師の傍らを。シュナイダーには目隠しの下でそれが見えなかった。
だが焦げた匂いと血の匂いで、何が起きたかはわかった。彼の城が、彼の守り手たちが、彼の目には映らぬまま消えていったのだ。
ハウゲンの艦隊が敵を見ぬまま沈んだのと同じように。
今、王である自分すら、自分を攫う者の顔をまともに見ることを許されていなかった。
中庭にUH-60が待っていた。ローターの風が二人の外套を激しくはためかせる。手錠と目隠しのまま、二人はその鋼の腹の中へ押し込まれた。
機体が浮き上がる。
目隠しの下で、シュナイダーは重力が体を沈めるのを感じた。城が、地上が遠ざかっていく。
彼が生まれ、育ち、王となったこの王城が。燃える王都が。守ると誓った民が。すべて彼の見えぬ足元で小さくなっていく。
彼はもうそのどれも見ることができなかった。王でありながら、自らの国が焼ける最後の姿すら見せてもらえなかった。
UH-60は燃える王都の上を越え、暗い海へと機首を向けた。
外洋の、燃える艦隊の残骸をはるか下に見ながら。二人の王族を乗せて、沖に待つ航空護衛艦〈いずも〉へとまっすぐ飛んでいった。
こうしてハルゲニアは、王と、軍を握る王弟を、同じ夜に失った。




