第三十一話 海戦
自衛隊の越境から72時間
王都マルグリース
王城マルグリースの作戦室には、悪い報せだけが降り続いていた。
クロヴィスはその真ん中に立っていた。地図の上の駒を、彼はもう動かす気にもなれない。動かしたところで、その先で何が起きるかは、この数日で嫌というほど思い知らされていたからだ。
かつて彼は、この盤上の采配を誰よりも得意とした男だった。だが今は、その盤そのものが足元から崩れ落ちようとしていた。
「ヴァルター将軍の軍は」
彼は掠れた声で問うた。
「……包囲されました」
伝令が青ざめて答えた。
「ヴァルター将軍は囲みの中で抵抗を続けておりますが、もはや時間の問題かと」
クロヴィスは目を閉じた。
ヴァルターはこの国で最も日本を研究した男だった。震える手で渾身の策を絞り出した男だった。
その男の最良の一手すら、日本は叩き潰してしまった。研究も努力も誇りも、ことごとく飛び越えて殺しにきた。
「北の戦線は」
「後退中です」
「東の砦は」
「連絡が途絶えました」
「西の街道は」
「奴らの機動部隊が退路を次々と断っております。逃げた兵が、逃げた先で待ち伏せられ……」
「都市は」
「三つ四つと空から焼かれ続けております。もはや数える意味もありません」
一つまた一つと、地図の上の味方の駒が消えていく。
伝令が言葉を継ぐたびに盤面の色が塗り替わっていく。クロヴィスがどれほど頭を絞っても、彼の描く線のことごとくが意味を失っていった。
相手は彼の知る戦をしていない。空を飛び、地を穿ち、退路を断ち、会戦すら拒む。この数日、彼はただ崩れていく国を見ていることしかできなかった。
将としてではなく、ただの傍観者として。
そこへ新たな伝令が駆け込んできた。今度の顔は、これまでのどれよりも白かった。
「殿下。次は海です。日本の艦隊が海から、この王都マルグリースへまっすぐ北上しております」
クロヴィスの背に冷たいものが走った。
マルグリースは港町だった。海に面し、川を遡れば王城の足元まで船は届く。
陸の戦線がいかに崩れようと、この王都だけはまだ遠い。城壁があり、川があり、そして海があった。
そう思っていた。
だが日本は海からも来る。陸と空の優位を奪ったあの手が、今度は海から、この国の心臓へ伸びて来ていた。
クロヴィスの脳裏に、幼い頃の記憶がよぎった。
父に連れられて見た観艦式の光景。水平線を埋める魔導装甲艦の威容。舷側にずらりと並んだ魔導砲。
あれこそがハルゲニアの力だと、幼い彼は胸を張った。二百年不敗の艦隊。大陸の海の覇者。あの誇りがまだこの国には残っている。
彼はしばらく黙っていた。それから一つの望みにすがった。最後の望みに。
「……我らには海軍がいる」
クロヴィスはすがるように呟いた。
「奴らが海の上でどのようにして戦うかはまだ分かってない。ならば、まだ勝てるはずだ」
それは理屈というより願いだった。
海だけは、まだこの世界の常識が通じる場所であってくれ、という儚い願い。彼は震える声を抑えて命じた。
「ハウゲン提督に伝えよ。全艦隊をもって外洋へ出撃せよ。日本の艦隊をこの王都に一歩も近づけるな。海で食い止めるのだ。海で、あの化け物どもを沈めてくれ。……頼む。海だけは守ってくれ」
それは命令というより祈りに近かった。
陸と空の優位を失った男が、海にだけ託した最後の祈りだった。
だがその祈りがどれほど届かぬものであったかを、クロヴィスはまだ知らなかった。
海の上でも、この世界の常識がもはや一片も通じないことを。
同時刻
ハウゲン提督指揮下 第一魔導艦隊
提督ハウゲンは旗艦の甲板に立ち、誇らしげに自らの艦隊を見渡していた。
魔導装甲艦。魔法で鍛えた鋼を纏い、風と魔力で走り、舷側に無数の魔導砲を備えた、ハルゲニア海軍の誇りだった。
その大小の艦が水平線を埋めるほど居並んでいる。数百隻の堂々たる大艦隊だった。日本の艦隊は斥候の報告ではわずか十隻あまりだという。
「案ずることはない」
ハウゲンは副官に笑ってみせた。
「陸の連中は油断したのだ。海は我らの庭だ。数で我らが勝っている。敵がどれほど未知の技を持とうと、船である以上艦隊戦の作法からは逃れられん。我らがこの国の最後の楯となる」
「日本艦隊は南の水平線の向こうと思われます。まだ視界には入りません」
「かまわん。全艦、南へ前進。見つけ次第、包み込んで叩くぞ」
艦隊が進み始めた。
魔導装甲艦の巨体が波を割り、南の海原へと向かっていく。
ハウゲンの胸には久しぶりの勝利の予感すらあった。海の上でならまだこの国は戦える。彼は望遠鏡を南へ向け、敵艦の帆を、船体を探した。ひと目でも敵の姿を捉えれば、そこから先は慣れた海戦だ。
ハウゲンは四十年この海に生きてきた。海賊を狩り、隣国の艦隊を退け、幾度も凱旋してきた男だ。
陸がどれほど無様に崩れようと海の男は違う。海の上でこそこの国の真価が示される。彼はそう信じて疑わなかった。
水兵たちも同じだった。陸で聞こえてくる敗報に、彼らは苛立ちさえ覚えていた。
臆病者どもが、空を飛ぶ機械に怯えおって。
海に出てみろ、本物の戦を見せてやる。
そういう気概が、どの艦の甲板にも満ちていた。彼らは魔導砲を磨き、装甲に手を当て、敵の姿が現れるのを待ちわびた。
だが、いくら進んでも南の水平線には何も現れなかった。
「見張り、敵艦は」
「……見えません。水平線の向こうに、何も」
ハウゲンは眉をひそめた。斥候は確かにこの先に日本艦隊がいると報告した。
なのに進めど進めど、敵の姿がない。帆一つ、船体一つ見えてこない。まるで海の果てに溶けてしまったかのようだった。
「妙だな。逃げたか。それとも──」
その言葉の途中だった。
南の、何もないはずの水平線の彼方で。海面がいくつも白く噴き上がった。
「……なんだ、あれは」
白い煙の尾が幾筋も幾十筋も空へ立ち上る。
まだ敵艦の姿さえ見えぬ、その遠い彼方から。
そしてそれらが束になってこちらへ飛んでくる。低く速く。魔獣や矢よりはるかに速く、海面すれすれを真っ直ぐに。
「見張り! 敵はどこだ! 敵艦はどこにいる!」
ハウゲンは叫んだ。
「見えません! どこにも敵の姿はありません! ですが、あれが、こちらへ……!」
誰もそれが何かを知らなかった。
ハウゲンも、副官も、見張りも。この世界の誰一人。空を裂いて飛来するその鋼の槍が、何であるのかを知らない。
撃った相手の姿は水平線の向こうにあって、ついに一度も彼らの目には映らなかった。
白い尾が旗艦の隣の艦に突き刺さった。
艦が内側から爆ぜた。火柱が上がり、艦橋ごと宙に舞う。
続いてまた一隻。喫水線の際を抉られ、真っ二つに裂ける。
また一隻。艦上の魔導砲が火薬に誘爆し、艦全体が炎に包まれた。
ハウゲンの艦隊は次々と屠られていった。
だが彼らには何が起きているのか、まるで分からなかった。
目の前に敵はいない。舷側を並べる鋼の艦もない。魔導砲の閃光も、矢の雨も、突撃してくる船影も、何一つない。
ただ南の空っぽの水平線の彼方から、見えざる死だけが際限なく飛んでくる。
水兵たちは恐慌に陥った。
二百年不敗の誇りも、歴戦の腕も、この状況の前では何の役にも立たなかった。
ある者は甲板を逃げ惑い、ある者は魔導砲にすがりつき、ある者はただ空を見上げて祈った。
祈りは届かなかった。
空から降ってくるのは、神ではなく鋼だった。
「敵はどこだ! 何が我らを撃っている! 撃ち返せ! ……何に向かって撃てというのだ!」
ハウゲンの絶叫に答える者はいなかった。撃ち返す相手が見えないのだ。
魔導砲をどこへ向ければいいのか、誰にも分からない。
近づいて舷側を並べ、砲を撃ち合う。彼の知る唯一の海の戦。日本はその作法を始めることすら許さなかった。
敵はその間合いのはるか外にいた。姿を見せぬまま、こちらだけを一方的に焼いていく。
一隻沈むごとに、生き残った艦の恐怖は膨れ上がった。
次はどの艦か。次は自分か。だが逃げようにも、どこへ逃げればいいのかも分からない。敵がどこにいるのかが分からないのだから。
彼らはただ、見えない手に一つずつ摘み取られるのを待つしかなかった。
やがてハウゲンの旗艦にもそれは来た。
彼が魔導砲の一発すら放たぬうちに。敵の帆をただの一枚も見ぬうちに。
旗艦の腹に白い尾が突き立ち、艦が大きく傾いだ。
傾いていく甲板の上で、ハウゲンはなお南の水平線を睨んでいた。そこに憎むべき敵の姿を探して。だが水平線はどこまでも空っぽだった。
「……何故だ」
ハウゲンは呻いた。
「海だけは、戦える筈だったのに……」
彼は最後まで理解できなかった。何に殺されたのかを。どこから殺されたのかを。
そしてこの日本という国が、水平線の彼方から姿も見せずに殺す術を持つことを、彼は知らずに沈んだ。
外洋のハルゲニア艦隊は一時間と経たぬうちに壊滅した。日本の艦隊はその姿を敵に見せることも、一隻を失うことも、ついになかった。
同時刻
海上自衛隊
海上自衛隊の護衛艦隊を率いる海将補、黒瀬は、燃える水平線をモニターの中に見ていた。
肉眼ではない。彼の艦隊はハルゲニア艦隊のはるか手前、水平線のこちら側に留まっていた。
敵の姿を黒瀬もまた直接には見ていない。上空を舞う無人偵察機が敵艦隊の位置を捉え、その座標を艦へと送ってくる。
護衛艦〈むつ〉はその座標に向けて、ただ蓋を開けただけだった。
むつ型護衛艦。
甲板が無数の四角い格子で埋め尽くされた艦。垂直発射装置。艦そのものが巨大なミサイルの弾倉だった。
海に浮かぶ火薬庫。アーセナルシップと呼ばれるその艦は、たった一隻で一個艦隊分の対艦ミサイルを抱えている。
その火力投射量が、水平線の向こうの数十隻のハルゲニア艦隊のすべてに同時に降りそそいだ。
数十隻が束になっても、むつ一隻の投射量には及ばない。数の利は、届かぬ火力の前ではただの数字だった。
「敵艦隊、戦闘能力を喪失。掃討完了です」
参謀の報告に、黒瀬は短く頷いた。感慨はなかった。
撃ったのは〈むつ〉の弾倉だった。人が狙って引き金を引いたというより、座標を入力して蓋を開けただけだった。
あとは機械が飛んでいって勝手に当たる。そしてその相手を、黒瀬自身もついぞ肉眼では見なかった。
彼にとって敵は、モニターの上で一つずつ消えていく輝点にすぎなかった。
「全艦、針路そのまま。マルグリース沖へ」
黒瀬は命じた。
「海は開いた。次だ。いずもに伝えろ。航空機発艦準備」
艦隊の中央で、ひときわ大きな平らな甲板を持つ艦が風上へ艦首を向けた。
護衛艦いずも。
かつてはヘリコプターを積むための艦だったが、今では航空護衛艦へと改修されていた。
その甲板に短距離離陸の機体が並んでいる。F-35。そしてその脇では、兵員を満載したUH-60がローターを回し始めていた。
F-35が次々と短い滑走で甲板を蹴り、空へ舞い上がっていく。マルグリースの空を制圧するために。
そのあとを、特殊作戦群の隊員を乗せたUH-60が追った。
黒瀬は飛び立っていくその機影を見送った。
「……よし。あとは、あいつらの仕事だ」
外洋の燃えるハルゲニア艦隊の残骸を越えて、F-35とUH-60の群れが王都マルグリースへとまっすぐ飛んでいった。
ハルゲニアの海軍はその姿をついに見ることなく沈んだ。
そして王都は今、自らを守るはずだった海の楯を失ったことにすら、まだ気づいていない。
その頃、王城マルグリースの作戦室で。
クロヴィスは、一枚の報告を、震える手で受け取っていた。
「艦隊は……ハウゲン提督の艦隊は、どうなった」
伝令は、しばらく言葉を選んでいた。やがて、絞り出すように告げた。
「分かりません。ですが見えない距離からの攻撃により、壊滅したと思われます」
クロヴィスは、報告書を持つ手を、下ろした。
海だけは、と彼は思っていた。海だけは、まだこの世界の常識が通じると。
二百年不敗のあの誇り高き艦隊なら。だがその艦隊は、敵の姿を一度も見ることなく海の底に沈んだ。
陸で、空で、退路で起きたことが、そのまま海でも起きた。
この国にはもう、日本の届かぬ場所などどこにもなかった。
「閣下! 敵の、方舟が」
別の伝令が、駆け込んできた。
「海から、こちらへやって来ます! 王都の空へ、まっすぐ……!」
クロヴィスは、窓の外を見た。まだ青い、マルグリースの空。
その南の彼方からじきにその姿が見えてくる。海を越え、空を越えて、この王城の喉元まで。
彼はもう、命じる言葉を持たなかった。すがるべき望みをすべて使い果たした男の顔で、ただ敵が迫りくる空を見つめていた。
王都の喉元に突きつけられた刃を遮るものは、もう何もなかった。




