第三十話 アルト平原の戦い
数時間後
第二師団 第25連隊戦闘団
アルト難民保護区はもぬけの殻になっていた。
かつて六万のシエスタル難民が身を寄せ合って暮らした街。粗末な木材と布と粘土で組まれた小屋が、地平まで果てしなく並んでいる。
だがそこに人の姿はなかった。両軍がこの地へ迫ると聞いて、難民たちはまた逃げたのである。
家財道具を捨てて、二度目の逃避行へ。
遠野稜は、突っ切る戦車連隊戦闘団に随伴する歩兵として、そのキャンプ跡にいた。降車して戦車の脇を進みながら、遠野はその廃墟を見ている。
捨てられた鍋。片方だけの靴。壁に貼られたままの子供の落書き。慌てて逃げた跡がそこかしこにあった。
食べかけのパンが机に残っている小屋すらあった。洗濯物が干されたまま風に揺れている小屋も。
ここで人が暮らしていた。ほんの数日前まで。故郷を追われ、それでも必死に暮らしを営んでいた人々が。
「突っ切れ。止まるな。速度を落とすな」
無線が飛んだ。10式戦車がその宣言のとおりに、粗末な天幕を次々と履帯で踏み砕いていく。
木材が砕け、布が裂ける。難民たちが雨風をしのいだ屋根が。子供が眠った寝床が。落書きの貼られた壁が。
鋼の重みの下でひしゃげ、平らになっていく。乾いた破砕音が途切れなく続いた。それは暮らしが潰れていく音だった。
遠野はその光景から目を逸らさなかった。逸らしてはいけない気がした。
この街を作ったのは俺たちだ、と彼は思った。俺たちが彼らの故郷を奪ったから、彼らはここへ来た。
そして今、俺たちがその二つ目の住処まで踏み潰している。一度目は故郷を、二度目はこの逃げ込んだ小屋を。
この突っ切りが成功すれば三度目がある。次に彼らが逃げ込むどこかも、いつか俺たちの鋼が追いかけて踏み潰すのだ。
「三曹」
若い隊員が青ざめて言った。
「なんか……ひどいですね。俺たち人の場所を土足で踏み荒らして、これって」
「ひどいさ」
遠野は短く答えた。
「けどこれが一番早いのさ」
だがそれが嘘であることを、遠野は知っていた。この戦が終わっても次の戦が来る。次の難民が生まれ、次のキャンプが踏み潰される。挽き臼は止まらない。
終われば終わるというのは、自分に進む力を与えるための嘘だった。あの機長も、あの砲手も、みんなそういう嘘を一つずつ抱えて進んでいた。
遠野の嘘はこれだった。速く終わらせるためだという嘘。それにすがって、彼は目の前の廃墟を踏み越えて進むしかなかった。
戦車の列がキャンプの奥へ奥へと突き進んでいく。誰も暮らしていない街を。捨てられた暮らしの痕跡を鋼で挽き潰しながら、ひたすら速く、敵の意表を突くために。
踏み潰す小屋の数だけ、敵の心臓に近づいていく。
やがてキャンプの反対側の際が見えてきた。その向こうに、ハルゲニア軍の後方が――大魔法陣を組むそのど真ん中があった。
同時刻
難民キャンプの壁を突き破って、戦車が次々と飛び出してきた。ハルゲニア軍の後方、大魔法陣を組む魔導師たちのすぐ目の前へ。
丘の上でそれを見たヴァルターは、一瞬、我が目を疑った。
「馬鹿な。キャンプを突っ切ってきただと。あんな瓦礫だらけの廃墟を⁉︎」
彼の策は正面の会戦を前提にしていた。散らした前線で日本を拘束し、後方へ魔法陣で魔力を集める。そのための時間を稼ぐはずだった。
だが日本は正面に並ばなかった。会戦をしてやらなかった。誰も通れないと踏んでいた難民キャンプを強引に突っ切り、いちばん柔らかい未完成の魔法陣のど真ん中へ飛び込んできた。
「魔法陣を守れ! ゴーレムを前へ! 戦車を止めろ!」
ヴァルターの絶叫で、前線から集束させるはずだったゴーレムの一部が、慌てて後方へ振り向けられた。
石の巨人が、飛び出してきた10式戦車の群れへ殺到する。
乱戦になった。
難民キャンプの際の、狭い崩れかけた小屋のあいだで、10式戦車とゴーレムが入り乱れた。
本来なら戦車は開けた平原で間合いを取り、遠くからゴーレムを撃破できる。だがキャンプを突っ切った直後のこの狭い場所では、間合いが詰まりすぎていた。
しかし、10式戦車はそれを相互支援と後方からの特科射撃で補っていた。
「前方! 大型ゴーレム、撃てっ!」
10式戦車が発砲。ゴーレムが砕かれ、砂のように崩れ落ちていった。
「よし一体……! だが次が来るぞ!」
次のゴーレムが小屋の陰から現れる。それを別の車両が交互に撃ち減らしていく。
予想以上の連戦に機甲科の隊員の額に汗が噴き出した。
「第二師団の普通科はついてきてるか?」
「はい! 我々の両脇を固めてます!」
遠野たち普通科隊員らは、その乱戦のなかを駆けていた。
戦車の装甲はゴーレムの拳を弾く。だがもし砲塔を掴まれ、動きを止められでもしたら危ない。
そこが歩兵の出番だった。遠野は崩れた小屋の陰に身を隠し、戦車に組みつこうとするゴーレムの脚部の関節を狙い、パンツァーファウストⅢを撃ち込んだ。
ゴーレムの片脚が砕け、体勢が崩れる。その隙に戦車が主砲で胴を砕いた。
戦車と歩兵が互いを庇い合いながら、石の巨人を一体また一体と片づけていく。遠野は走り、撃ち、また走った。
かつて難民が暮らした小屋のあいだで、今度はその小屋を遮蔽物に使いながら。人が暮らした場所が、そのまま殺し合いの地形に変わっていた。
乱戦は激しかった。だが全体として日本が崩れることはなかった。
ゴーレムは数が限られていたからだ。しかも本来は前線から集束させるはずの切り札を、慌てて後方の防御に割いたものだった。
前線の集束は中途半端になり、後方の防御も足りない。ヴァルターの精密な計画は、日本が会戦を拒みキャンプを突っ切ったその一手で歯車がすべて狂っていた。
ゴーレムを後方へ回せば前線の押し潰す力が消える。前線に残せば後方の大魔法陣が守れない。どちらを選んでも崩れる。彼は詰んでいた。
そして致命的だったのは、大魔法陣が砕かれたことだった。
乱戦を味方の歩兵に任せ、戦車はまっすぐ大魔法陣の中枢へ突進。
地面に描かれた巨大な術式。その術式は、すでに特科の砲撃によって完膚なきまでに台無しにされていた。
戦車はその輪のなかへまっすぐ突っ込んだ。RWSの機関銃が容赦なく、魔法陣を直そうとする魔導師たちを掃射する。
詠唱が途切れ、術者が倒れる。組み上がりかけていた巨大な魔力が行き場を失って暴走し、四散した。
制御を失った魔力が閃光となって周囲を焼く。皮肉にも、彼ら自身の切り札の暴発が、彼ら自身の後方を焼いた。
ハルゲニアの渾身の一撃は、一度も敵に放たれることなく、味方の頭上で砕けたのだ。
「陣が……大魔法陣が……!」
ヴァルターは丘の上で崩れ落ちそうになった。彼はそこで初めて自分の敗因を理解した。
彼は日本を研究し、適応した。散兵で空を防ぎ、大魔法陣で遠さに応え、集束で押し潰す。この世界の戦の常識に照らせば完璧なはずだった。
だが日本はその常識に乗ってこなかった。会戦の正面に並ばず、難民の街を平然と踏み潰し、想定外の方角から心臓を突いた。
彼の策のすべては「日本がまともに会戦してくれる」というたった一つの前提の上に積まれていた。その前提を、日本は鼻で笑って蹴り飛ばした。
「最初から勝負にすらなっていなかったのか」
ヴァルターは呻いた。
「私がどれほど頭を絞っても、あいつらはそもそも私と同じ盤で勝負する気がなかった……!」
もう彼の策には何も残っていなかった。そして背後では、いつの間にか第十二師団が退路を閉じきっている。
五倍の大軍は、会戦を待ったまま、会戦をしてもらえぬまま、巨大な袋のなかで孤立していた。




