第二十九話 戦術
自衛隊の越境から五十二時間後
ハルゲニア王国南部 アルト平原
ハルゲニアの将軍ヴァルターは、この数日の敗北を誰よりも冷静に見つめていた。
アイゼンブルクが落ち、都市が焼かれ、退路という退路が死の道に変えられたその悪夢のような数日のあいだ、多くの将は絶望に沈むだけであった。
だが彼は違った。彼は半年前のときからこの戦争を危ぶんでいた数少ない一人で、フェルデンの惨状も生き残りの口から聞いていた。だからこそ彼は震えなかった。震えるかわりに研究した。
日本の戦い方を彼は幾晩もかけて分析し、見えてきたのは一つの法則だった。
日本の強みはアウトレンジである。こちらの魔法が届かない距離から、あるいは空から地平の彼方から、顔も見せずに殺してくる。
密集した標的を狙い、城塞のような動かぬ的を狙い、退路のような逃げ道を断つ。
彼らは常にこちらの届かぬ距離から、こちらの密集陣形を狙い撃ちにして来る。
ならば逆をやればいい、とヴァルターは考えた。要は密集しなければいいのだ。
「兵を散らす」
彼は集めた大軍を前に、幕僚たちへ告げた。
「兵力を平原に広く薄く配置する。散らばっていれば奴らの攻撃も一度に仕留められる数が限られる。その時間さえ稼げば勝機は生まれる」
「しかし将軍。散らばれば我らの打撃力も薄まります」
「そのためにこれを用意する」
ヴァルターは地図の後方へ大きな円を描いた。
「大魔法陣だ。後方に魔導師を集め、巨大な術式を組む。単独の魔導師ではあの装甲は抜けん。だが数百が力を束ねれば話は別だ。完成すれば敵の砲撃に匹敵する火力を、遠く離れた敵陣へ叩き込める。アウトレンジが奴らだけの特権ではないと思い知らせてやる」
幕僚たちが息を呑んだ。この数日うなだれていた彼らの目に、久しぶりに光が戻ったような気がした。
「散らした前線で敵を拘束し引きつける。そのあいだに後方で大魔法陣を完成させ、敵陣を砕く。砕けたところへ、散らばっていた騎士団とゴーレムを一気に集束させて押し潰す。これが我らの答えだ」
それはこの世界の常識のなかで絞り出せる最良の策だった。
日本の距離感を分析し、日本の集中を避ける分散配置を選ぶ。ヴァルターは確かに敵を研究し、そして適応していた。
「決戦の地はここだ」
彼は地図の一点を指す。彼らが現在いるアルト平原そのものだった。
「旧シエスタルとの国境に近い。開けた平原と、我が軍が拠るべき丘がある。散兵にも大魔法陣の展開にも適した地形だ。そしてあの難民どものキャンプがある。日本が生み出し我が国へ押し付けたあの難民の街がな」
彼の目に暗い光が宿った。
「日本とて、あのごみごみした天幕の密集を嫌って大きく迂回する選択を取るだろう。どちらにせよ動きは読める」
「ここで決戦ですね」
「そうだ。軍団の全軍をアルトへ。ここで我々は日本と会戦する」
会戦。両軍が平原に相対し雌雄を決する。
それはこの世界の戦の王道であり、誇りある作法だった。
ヴァルターはその作法に日本を引きずり込み、そして勝つつもりだった。研究し適応し絞り出した渾身の一手で。
だが彼はまだ知らなかった。
日本がその会戦という考えそのものを鼻で笑うことを。彼がいかに敵を研究しても、その研究の前提に置いた会戦という枠組みごと、日本は蹴り飛ばすのだということを。
同時刻
第七師団司令部。
第七師団の司令部にて、山城陸将はドローンと諜報がもたらした敵の布陣を見ていた。
「ほう」
彼は珍しく感心したように呟いた。
「見事に散らばっている。密集を避け、全滅しないようにしている。そして後方にこの大きな魔力の集積。何かの大魔法を組みつつあるな。おそらく砲撃の代わりか?」
「敵は、我々をアルト平原で会戦に引き込むつもりかと」
幕僚が言った。
「我々を前線で拘束し、後方の大魔法で砕き、集束した騎士団で押し潰すつもりです。率直に申し上げて、彼らにしてはよく考えられた策です。これまでの敵とは違います。学んでいる」
「ああ、そうだな」
山城は頷いた。
「この世界の常識のなかで絞り出せる最良の答えだろう。ただ一つ、大きな思い違いをしている」
「思い違い、ですか」
「この策はすべて、我々が正面に並んで会戦してやるという前提の上に成り立っている」
幕僚がはっとした。
「我々がその正面に並ぶのを待っている。並べば拘束され、大魔法を浴びる。だが誰が並んでやると言った。会戦とは双方が合意して初めて成り立つ儀式だ。片方が拒めば成立しない」
彼は続けた。
「そもそも我々は、この大軍を正面から相手にする必要すらない。見ろ。敵は五倍の兵を広く散らした。だがろくな相互支援もなしに散兵戦術を行えば、それぞれの群れは細く脆くなる。そして何より──」
山城は地図の後方、敵のさらに背後を指した。
「第十二師団がすでに動いて後方を抑えている。敵はいまアルトの平原で堂々と会戦の支度をしているつもりだ。だがその支度をしているあいだに、彼らは気づかぬうちに巨大な袋のなかへ入りつつある。大軍がまるごと孤立集団になっているだけだ」
幕僚が納得した。
敵は前を向いて会戦を待っている。誇りを胸に、適応した渾身の策を構えているが、その後ろで扉が静かに閉じられていた。
「哀れだ」
山城はぽつりと言った。
「悪いが会戦はしてやらん。敵が後方で大魔法陣を組んでいるなら、それが完成する前に潰す。正面からではなく、敵の想定していない方角からまっすぐ心臓へ突き込むぞ」
山城の指が地図の上を滑った。
敵の散らばった前線と、後方の大魔法陣。そのあいだに横たわる一つの地形があった。
アルト難民保護区。
かつて六万のシエスタル難民が暮らした、あの巨大なキャンプの跡だった。
「ここを突っ切る。敵はこの難民キャンプを、まともな部隊が通れる地形とは見ていない。ごみごみした小屋の密集地で、戦車が入り込めば身動きが取れなくなると踏んでいるのかもしれん」
「あるいは、我々が自分たちが生んだ難民の街を踏み荒らすのをためらうと?」
「その可能性もあるな。どのみち甘い」
山城の声に皮肉が混じった。
「言っておくが我々はためらわん。この手薄なキャンプを戦車連隊戦闘団で強引に突っ切り、後方の大魔法陣を組む騎士団のど真ん中へ飛び出す。敵がまさかそこから来るとは思っていない」
「あの廃墟を突っ切るのですか」
「どのみち難民はもういない。あそこはただの空き家の集まりだ。踏み潰して進む。速さこそがこの戦の要だ。大魔法陣が完成する前に、第十二師団が扉を閉じきる前に、敵の心臓を止めるぞ」
幕僚はしばらくその作戦を頭のなかでなぞり、一つの事実に気づいて背筋が寒くなった。
「師団長。この作戦、仮に突破に失敗しても……」
「そうだ。失敗しても我々は負けんだろう。技術格差が大きすぎる故、こちらの選択肢のほうがはるかに多い」
「ではなぜここを? ほかの手段があるならその方でも」
「甘いな」
山城は迷う幕僚にハッキリといった。
「これは日本の意思だ。我々は容赦も迷いもしない。今までの国とは違う。我々は舐められたら相手を地獄の底まで駆り立て追い落とすという、国家の意思を背負っているのだよ」
山城は覚悟が決まっていた。彼はそう言い切ると、即座に部下に命じた。
「第二師団にも状況を伝えろ。そして各戦車連隊戦闘団には以下の指示を。”難民キャンプを踏みつぶせ”とな」




