第三十三話 終わりに
王都襲撃から数ヶ月後
王都マルグリースが機能を損失してから、数か月が過ぎていた。
城は焼け、王と王弟は攫われ、貴族評議会はほとんど機能を失っていた。次期国王候補の多くは戦の中で死ぬか、責を負って表舞台から消えた。
誇り高きハルゲニア王国は、頭を失い手足をもがれ、ただ茫然と横たわっていた。
焼けた都では家を失った民が瓦礫の間で暮らし、地方では略奪と飢えが広がりつつあった。この国は放っておけば、内側からも崩れていく。
その廃墟のような国を、誰かがまとめねばならなかった。
誰かが勝者と向き合い、この戦の始末をつけねばならなかった。
代理の座に就く前に、セシリアは一度だけ、焼けた王都を歩いた。かつて賑わった市場は瓦礫の山になり、グリース川には焼けた船の残骸が浮いていた。
あの華やかだった迎賓館も、半ば崩れ落ちている。道端では、家を失った家族が焚き火を囲んで震えていた。
彼女に気づいた者もいたが、罵る声もすがる声も上がらなかった。人々はもう、怒る力すら失っていた。
ただ疲れ果てた目で、彼女を見た。その目が、シエスタルの難民キャンプで見たあの目と、同じだった。国の内と外で、同じ絶望が広がっていた。
これをなんとかせねばならない。
政争でも誇りでもなく、ただこの目をした人々を、これ以上増やさぬために。彼女はそう思った。
残った貴族たちが最後にすがったのは、かつて自分たちが切り捨てた女だった。
セシリア・コルネット。難民問題の責を負わされ、次期国王候補から除外され、屋敷に蟄居していた、あの女だった。
屋敷を訪れた老貴族たちは、床に膝をつかんばかりだった。
「コルネット卿。いえ、殿下。どうかこの国をお救いください。あなたしかいないのです。日本と話ができるのは。そしてこの惨状を収められるのは」
セシリアはしばらく答えなかった。
救ってほしいと彼らは言う。だがこの惨状を招いたのは彼ら自身だった。
彼女の対話を蹴り、シュナイダーの戦を選んだ、彼ら自身が。
今さら、と言いたかった。
あの討論会で売国奴と罵られたときの屈辱が、胸の奥で疼いた。声の限りに彼女を非難したあの顔ぶれが、今は青ざめて許しを乞うている。
だが彼女はそれを呑み込んだ。
恨みを晴らすために王冠を拒めば、困るのは彼女を罵った貴族たちではない。
難民キャンプで震えていた、あの少女のような名もなき民だった。国が滅べば、真っ先に踏みにじられるのはいつも彼らだ。
彼女が難民区で見た六万の顔。二度三度と家を追われ、東へ逃げていったあの人々。
彼らをこれ以上死なせるわけにはいかなかった。
「……わかりました」
セシリアは言った。
「ただし王としてではありません。代理として、この国の始末をつける者として、その役目を引き受けます。そして一つだけ約束していただく」
「なんなりと」
「私が結ぶ講和に、誰も口を出さないこと。弱腰だ売国だと、二度とあの言葉を使わないこと。あなた方が戦を選んだ結果を、私が拾うのです。ならば拾い方に文句をつけさせはしません」
貴族たちは深く頭を垂れた。
その日の夕刻、簡素な式が執り行われた。荘厳な戴冠式ではなかった。焼け残った広間で、生き残った数少ない高位貴族が見守る中、セシリアは代理の冠を頭に載せた。
歴代の王が戴いた黄金の冠は、戦火で失われていた。かわりに用意されたのは、急ごしらえの、飾り気のない銀の輪だった。
冷たく、軽く、そして重かった。金の重みではなく、民の運命の重みが、そこにあった。
数日後
日本との講和会談は、王都の外れの、辛うじて焼け残った館で行われた。
対面に座ったのは在ハルゲニア大使ナカムラだった。かつて難民問題で、責任をのらりくらりとかわし続けた男。
あの頃と立場は完全に逆転していた。今、条件を突きつけるのは日本のほうだった。
その条件は、講和というより降伏に近かった。
一つ。ハルゲニアの完全な非軍事化。魔導騎士団はほとんどが解体され、海軍は保有してはならない。二度と日本に牙を剥けぬように。
二つ。旧シエスタルに対する、日本の実効支配の正式かつ永久の承認。あの地はもはやハルゲニアの隣国ではなく、日本の領土だと認めること。
三つ。多額の賠償。食料、鉱物、そして掘り出された石油の継続的な供出。ハルゲニアの富を、長きにわたって日本へ流し続けること。
四つ。此度の侵攻に対する、公式な謝罪。
セシリアは書類を一枚ずつ読んでいった。どの条項も、この国の誇りを深く抉るものだった。
非軍事化された国は、もはや独立を守る力を持たない。賠償はこの国を長く貧しくするだろう。だが彼女は感情を殺して読み進めた。
感情で抗議する段階は、もう過ぎていた。
そして彼女は、最も恐れていた条項を探した。
領土の割譲。ハルゲニア本土そのものの、併合。
それが、なかった。
「確認させていただきたい」
セシリアは静かに問うた。
「これらの条件に、ハルゲニア本土の割譲は含まれていない。相違ありませんか」
「ありません」
ナカムラは頷いた。
「我が国は、ハルゲニアの領土を併合するつもりはありません。貴国は貴国として存続します」
セシリアは内心、深く息をついた。
国土は守られる。それが彼女の何よりも死守したかった一線だった。
非軍事化されようと、賠償を課されようと、謝罪させられようと。土地さえ残れば、民の暮らす場所さえ残れば、国はいつか立ち直れる。
土地を失えば、民はシエスタルの難民と同じ運命をたどる。故郷を追われ、行き場をなくし、どこかの野で擂り潰される。それだけは避けねばならなかった。
だが彼女は油断しなかった。なぜ日本は併合しないのか。慈悲であるはずがない。
「一つ伺いたい」
セシリアは言った。
「勝者は通常、敗者の土地を奪うもの。なぜ貴国はそれをしないのですか」
ナカムラは少し間を置いて答えた。この点では、正直な男だった。
「率直に申し上げます。我が国には、これ以上の土地を治める人手がないのです。旧シエスタルの統治だけで、我が国の力は限界に近い。貴国まで直接統治すれば、必ず反乱が起きる。ならば貴国を自ら統治させたほうがいい。非軍事化し、賠償を課し、我々に従順な緩衝の国として存続させる。そのほうが、我が国にとってはるかに都合がいいのです」
セシリアはその言葉の冷たさを噛みしめた。慈悲ではなかった。温情でもなかった。
ただ日本にとって、そのほうが効率がいい。それだけの理由で、この国は存続を許された。
生かして飼われる家畜のように。土地を残されたことすら、恵みではなく、勝者の計算の結果にすぎなかった。
それでも彼女は、できる限りの抵抗を試みた。賠償の年限に上限を設けさせ、供出量には民が飢えぬための下限の免除を書き込ませる。
非軍事化の中にも、盗賊や魔獣から民を守るための最小限の治安部隊の保持を、辛うじて認めさせた。
一条ずつ、爪の先で削るような交渉だった。日本はその多くを鼻で笑うように受け流し、しかしいくつかは認めた。認めても日本の損にはならない程度のものだけを。
勝者は寛大にすら見えた。だがその寛大さは、敗者を扱いやすく飼うための、計算された寛大さだった。
セシリアはそれをわかっていて、なおその計算にすがるしかなかった。
爪の先で削り取ったわずかな免除の一つひとつが、この冬、幾人かの民を、飢えから救うかもしれない。
それだけが、この屈辱の席で、彼女に許された唯一の戦果だった。
「では」
彼女はペンを取った。
「署名します」
「よろしいのですか。国内には、この条件に不満を持つ者も」
「いません」
セシリアはきっぱりと言った。
「不満を言う資格のある者は、もうこの国にいません。戦を選んだ者たちは、その結果を見たはずです」
彼女は署名した。ハルゲニア王国の名において、この降伏に等しい講和に。
ペンを置いたとき、彼女は奇妙な感覚に襲われた。
彼女はずっと、日本との対話を望んでいた。武力ではなく言葉で。
奪い合いではなく共存を。それが彼女の政治家としての信念だった。
そして今、彼女は確かに日本と対話し、講和を結んだ。望んでいたものを、形の上では手に入れた。
だがそれは対等の対話ではなかった。敗者が勝者の前に頭を垂れ、突きつけられた条件を呑むだけの儀式だった。
彼女の夢見た共存とは、似ても似つかない。対話は、力の差があまりに開けば、ただの屈服の別名になる。
日本の大臣が、かつてこの世界に対話を求めて焼かれたように。今度は彼女が、対話の席で屈服を呑まされていた。
立場が違うだけで、対話が力に屈する構図は、何一つ変わっていなかった。
「コルネット卿」
ナカムラが席を立ちながら言った。
「以前、申し上げましたね。あなたは我が国が接した中で、最も話の通じる相手だと」
「ええ」
「今もそう思っています。そして、そういう方がこの役目を負うことになった。それがこの世界にとって幸運なのか、不運なのか。私にはわかりません」
セシリアは答えなかった。
焼け残った窓の外を、ただ見ていた。国土は守った。民の暮らす場所は残した。それだけで、よしとしなければならなかった。
少なくともあの難民の少女に、帰る場所だけは残せたのだ。そう自分に言い聞かせながら。
半年後
日本国首都東京
講和が結ばれても、一つ、残された問題があった。
攫われた王シュナイダーと、王弟クロヴィスの処遇だった。
二人は日本へ連れ去られたまま、戻ってこなかった。返還を、とセシリアは幾度も求めた。
だが日本の答えは決まっていた。二人は捕虜ではなく被告である、と。此度の宣戦布告なき侵攻の責を負うべき犯罪者である、と。裁きは日本の法廷で行う、と。
異国の王を自国の法廷で裁くことに、どんな法の根拠があるのか。問うても、答えは返ってこなかった。
勝者の法廷に、敗者の理屈は届かない。
王弟クロヴィスもまた、同じ法廷で裁かれると聞いた。軍を握り、作戦を立て、実際に兵を動かした責任者として。
兄が国家の意思なら、弟はその意思を刃に変えた手だった。二人とも、生きて故郷へ帰ることはもうないのだろう。
セシリアはそう覚悟していた。かつて日本を最もよく研究したというその弟が、いま研究し尽くした相手の法廷に立たされている。その皮肉を思うと、胸が塞いだ。
その裁判の、判決の日。
セシリアは、日本の大使館から提供された映像記録を通して、それを見ることになった。マリアと二人きりの執務室で。
画面の中に日本の裁判所が映っていた。整然とした無機質な部屋。本来なら映像で映されることはないが、今回のは特別な記録であるため公開されていた。
傍聴席は人で埋まり、その多くが、この異界の王を一目見ようとする、日本の民のようだった。中には遺族なのか、写真を胸に抱いた者もいた。
彼らの目には、被告への、静かな憎しみがあった。
その視線の中央に、シュナイダーが立っていた。数か月ぶりに見る、かつての若き王の姿だった。痩せてやつれ、だがその背筋はまっすぐに伸びていた。
手枷をはめられても、なお彼は王だった。異国の敵意に満ちた法廷で、彼は一度もうつむかなかった。
「あの方は……」
マリアが息を呑んだ。
セシリアは黙って画面を見つめた。
日本の法廷が、シュナイダーの罪状を読み上げていく。宣戦布告なき軍事侵攻。それによって命を落とした日本の兵と民間人。
避難する車列への襲撃。国家の最高責任者として、それらすべての責を負う者である、と。翻訳されたその言葉が、淡々と法廷に響いた。
シュナイダーは、最後に発言を許された。
彼は静かにこう述べた。翻訳の声が、それを伝えた。
「私は、我が国と我が民を守るために戦った。日本という、あまりに強大な脅威から。その判断が正しかったとは、もう言わない。私は敗れ、国を灰にしたのだから」
彼は続ける。
「だが一つだけ言わせてほしい。私が剣を取ったのは、貴国が我らの隣で、あまりにも際限なく大きくなり続けたからだ。シエスタルを呑み、難民を生み、そのすべてを力で押し流した。私は、次のシエスタルになることを恐れた。その恐れが間違いだったと、誰が言い切れる」
法廷は静まりかえっていた。
「私の命はくれてやる。だがこれだけは覚えておくがいい。恐れられる国は、いつか必ず、恐れた者の剣を招く。私は、その最初の一人にすぎない。日本がこの世界で大きくなり続ける限り、第二、第三の私が、必ず現れる」
それが彼の最後の言葉だった。
法廷の空気がわずかに揺れた。傍聴席の一部から、怒りの声が上がった。今さら何を、という声。詭弁だ、という声。
だが、その騒めきの底に、かすかな、居心地の悪い沈黙もあった。被告の言葉を、まるきり切り捨てられぬ何かが、その場にいた幾人かの胸を、確かにかすめたのだ。
恐れられる国は、恐れた者の剣を招く。それは、この日本という国が、まさに斉藤大臣を焼かれたあの日から、たどってきた道そのものでもあった。
焼かれたから、報復した。報復したから、恐れられた。恐れられたから、こうして王の一人を、絞首台へ送っている。
その連なりを、シュナイダーは敗者の側から言い当てていた。
やがて裁判長が判決を言い渡した。最も重い判決だった。
シュナイダーは、それを身じろぎもせずに聞いた。ただ静かに頷いた。
すべてを予期し、すべてを受け入れた者の顔だった。それが、かつての王が立てた最後の音だった。
セシリアは目を閉じた。
同日
日本国 首都東京
同じ判決は、その夜、日本のすべての茶の間にも流れていた。
テレビのニュース番組。落ち着いた声のアナウンサーが、原稿を読み上げる。
「続いてのニュースです。昨年、我が国に対して宣戦布告なき軍事侵攻を行い、多数の犠牲者を出した、ハルゲニア王国。その最高責任者であった前国王シュナイダー・エル・ブランコ被告に対し、東京の特別法廷は本日、死刑判決を言い渡しました」
画面には、法廷を出る護送車の映像が映し出された。
「判決理由の中で裁判長は、被告が国家の最高責任者として侵略戦争を主導し、我が国の民間人を含む多数の命を奪った責任は極めて重大であると指摘しました。弁護側は控訴する方針を示していますが、量刑が覆る可能性は低いとみられています」
アナウンサーは原稿から目を上げ、次のニュースへと移った。
「なお、同じく身柄を拘束されていた前国王の弟、クロヴィス・エル・ブランコ被告についても、侵攻作戦を指揮した責任を問われ、無期の刑が言い渡されています。また、ハルゲニア王国との間では先月、講和条約が正式に締結されており、両国間の戦闘状態は終結しています。政府は旧シエスタル地域における資源開発を引き続き進める方針で、来年度からは国内への石油供給が、さらに安定する見通しです」
番組は、街頭の声を、短く伝えた。マイクを向けられた通行人が思い思いに答える。
当然の判決だと思う、と中年の男が言った。斉藤大臣も浮かばれるでしょう、と女が言った。もう終わったことだから早く忘れたい、と若者が言った。
どの声にも、かつての燃えるような怒りはもうなかった。あるのは済んだ話への淡い相槌だけ。
その淡々とした空気は、かつてこの国が対話を求めて大臣を殺されたあの日の怒りとはもう無縁だった。
憎しみは判決という形で決着し、人々の関心はすでに次の話題へと移ろい始めていた。
大臣の仇は討たれた。異世界の王は裁かれた。石油は安定する。それで多くの日本人にとって、この件は終わったのだった。
異国の若き王がなぜ剣を取ったのか。彼が法廷で最後に何を遺したのか。それを気に留める者は、この平和な茶の間にはほとんどいなかった。
恐れられる国は、いつか恐れた者の剣を招く。
そう告げた声は、この国のどの茶の間にも、届かなかった。
届いたところで、明日の献立ほどにも、心を騒がせなかっただろう。
ニュースは続いていた。やがて画面は天気予報に切り替わり、明日の晴れを告げた。
日本の空は明日も晴れるらしい。
異界のどこかで、また新たな恨みの種が静かに蒔かれていることなど、露ほども知らぬまま。
本作はこれにて一旦完結とします。
長く書いたが故に後半は雑に書いてしまって申し訳ない……
やはりF自を面白くカッコよく書くのは私には無理でした。なのでこのような形で完結することを許してください。
それでは。




