第三話 少女の最後
どれだけ走ったか分からない。気づけば、日が傾いていた。
畑の外れに、朽ちかけた納屋があった。リーゼはその中に転がり込み、藁の山の陰で膝を抱えた。歯の根が合わなかった。
外套は泥と、友のものかもしれない血で汚れていた。
ハンナ。
クラーラ。
ゾフィー先生。
名前を心の中で呼ぶたびに、返ってくるのは砲声の残響ばかりだった。
三人で、順番に集まる約束だった。
村に、川に、クラーラの店に。
一人でも欠けたら、約束は嘘になる。ハンナはそう言った。
なのに、欠けたのは、二人だ。残ったのは、いちばん弱い、いちばん役立たずの、自分だけ。
なぜ、あたしが。
治癒だって満足に使えないのに。足も速くもないのに。生きて、誰かを助けて、とハンナは言った。
でも、誰を?
もう、助ける相手もいない。
膝を抱えたまま、リーゼは声を殺して泣いた。故郷の弟の顔が、浮かんだ。木彫りの杖を握って眠る、あの子。
姉ちゃんは、帰れないかもしれない。
そして、どれくらいそうしていただろう。
外で、聞いたことのない足音がした。
規則正しく、重く、金属が擦れるような音。人の声もした。
だが、その言葉は、公国のどの地方の訛りとも違っていた。
低く、平坦で、感情の読めない響き。呪文でないことだけは分かった。あんなに短い言葉で、魔法が編めるはずがない。
足音が、納屋に近づいてくる。リーゼは息を止め、藁の奥へと身を縮めた。心臓の音が、相手に聞こえてしまいそうだった。逃げ場はなかった。
納屋の扉が、蹴り開けられた。
夕日を背に、それは立っていた。
人の形をしていた。だが、リーゼの知る人ではなかった。頭には丸い鉄の兜。
顔には泥色の布と、光を映さない目。全身を斑の布と硬い殻で覆い、手には黒く長い棒──杖にしては無骨すぎる、鉄の棒を構えていた。
それが、リーゼが生まれて初めて目にした、ニホン人だった。
異形だ、と本能が叫んだ。
これが、あの鉄の獣を操る者たち。魔法も持たず、優しさも持たず、ただ人を駆除する者たち。
友を、先生を、金色の麦畑ごと吹き飛ばした、悪魔。
クラーラを縫った鋼も、ハンナを呑んだ光も、ゾフィー先生を空へ散らした爆発も、みんな、こいつらが。
その斑の異形が、鉄の棒の先を、こちらへ下ろした。そして、口を開いた。
「両手を上げろ」
少し、掠れていた。
短い言葉だった。低くて、平らで、けれど──思っていたより、ずっと若い声だった。
それが「出てこい」という意味なのか「動くな」なのか、あるいは「傷はないか」なのか、リーゼには分からなかった。
分かるはずもなかった。
彼女に届いたのは、意味ではなく、ただ、友を殺した者の声、という事実だけだった。
あんな者たちに、生きたまま触れられたくない。
リーゼは、震える手を胸に当てた。
そこには、緊急時の自決術式が刻まれた護符があった。
捕らわれれば、公国の魔導師は生きたまま何をされるか分からない
出征前に、教官がそう言って持たせたものだ。使い方は一度だけ教わった。魔力を一気に暴走させ、自らを内側から焼く。捕虜になるくらいなら、と。
ごめんね、と、リーゼは心の中で誰かに謝った。
村のみんなに、母さんに、弟に。
先生になる約束、守れなかったことを詫びた。
ハンナ、クラーラ、そっちに行くね。
順番に集まる約束は、こんな形になっちゃったけど。
その一心で、リーゼは護符に魔力を注いだ。
「やめろ!」
鉄兜の下で、相手が叫んだ。
今度はさっきより高い、切迫した声だった。
制止だった。手にした棒を、慌てたように動かすのが見えた。
だが、その言葉はリーゼには届かなかった。
彼女の魔力が、術式の中で膨れ上がり、暴走を始める。胸が、内側から熱くなっていく。
その時──
──パパンッ!
乾いた音が、二発。
リーゼロッテ・アルンハイムの世界は、あっけなく、暗転した。
痛みは、なかった。ただ、熱が急に引いて、まわりの音が、遠ざかっていった。
斑の異形も、割れた納屋の壁も、傾いた夕日も、すうっと薄れていく。
最後に思ったのは、朝の鐘のことだった。
寮の窓という窓に灯りをともす、あの音。ハンナに枕を投げられて起きた、あの朝。
クラーラが唇だけで「おはよう」と言った、あの朝。ゾフィー先生に治癒を褒められた、あの日。全部、遠い昔のことみたいだ。
灯りをともすための、あの優しい魔法の音を。
もう一度、聞きたかった。
陸上自衛隊第2師団、第25普通科連隊に所属する三等陸曹・遠野稜は、しばらく引き金から指を離せなかった。
薄暗い納屋の中、藁の上に、小さな体が崩れ落ちている。
少女だった。せいぜい高校生ほどの。
泥と血にまみれた外套の胸元から、まだ薄い光が漏れ、じきに消えた。
彼女が握りしめていた護符──後に対人自爆用の魔導触媒だと情報小隊が判定した代物──が、床に転がっている。
撃つ直前、彼女は何か言おうとしていた。
いや、言葉ではない。目だ。あの目は、命乞いではなかった。憎しみでもなかった。
ただ、どうしようもない恐怖と、覚悟だけがあった。
悪魔を前にした人間の目。この場合、遠野が悪魔だった。
「遠野、下がれ。触るな」
分隊長の声が、遠くから聞こえた。
遠野は言われるまま、二歩下がった。手が震えていた。
彼は今年で二十四歳。自衛官になる訓練の最中で、標的を撃つ演習は数え切れないほどやった。
だが、生身の人間を撃ったのは、これが初めてだった。しかも、それは──
「……子供じゃないですか」
声が掠れた。
分隊長は答えなかった。代わりに、遠野の肩を一度、強く掴んだ。
「自爆する気だった。あのまま抱きとめてたら、お前も俺も、部隊ごと吹き飛んでたかもしれない。お前は正しい判断をした」
正しい判断。遠野はその言葉を、胃の底で受け止めた。頭では分かっていた。
あの護符が起動していたのを、89式小銃の照準器越しでも確認していた。
撃たなければ、この納屋にいた四人が死んでいた。
だが、頭で分かることと、腹が受け入れることは、別だった。
彼女が自爆しようとしたのは、こちらを殺すためではなかった。
触れられたくなかったのだ。自分たちのような者に。それが分かるから、なお、こたえた。
納屋を出ると、平原は静まりかえっていた。
夕日が、麦畑の焦げ跡を赤く染めている。掃討はほぼ終わっていた。あちこちで、鹵獲した敵の装備──杖だの、宝石を嵌めた護符だの、中世の見世物のような武具──が回収されていく。
倒れているのは、鎧の騎士に混じって、あの少女と同じ外套を着た者ばかりだった。
若い。どれも、若すぎた。
学徒動員だ、と誰かが吐き捨てるように言った。魔法師ってのは、この国じゃ学校で育てるらしい。つまり、俺たちが撃ってるのは、ほとんど学生だ、と。
近くには威力偵察として集落に接近した10式戦車が数輌、砲塔をこちらに向けたまま、静かにエンジンを唸らせていた。
その一輌の車体に、鮮やかな焦げ跡が斜めに走っている。
敵の魔法が、確かにそこに当たった痕だった。
塗装を焦がしただけの、無意味な跡。
「向こうさん、火の玉やら氷やら、けっこう派手に撃ってきたぜ」
戦車から降りてきた第2戦車連隊所属の陸曹が、煙草をくわえて笑った。
「映画かってくらいの派手な魔法だった。当たりゃ人ひとりは黒焦げだろうな。けど10式の複合装甲には、蚊が止まったほどもこたえんが」
遠野は、言葉が出なかった。
自分たちが、たった半日で、いくつの村を、いくつの隊を、更地にしたのか。
魔法という、この世界の人々が命を賭けて磨いてきたものが、鋼板一枚に完敗する。
それを目の当たりにして、勝った、という感慨は湧かなかった。
ただ、途方もなく一方的な何かに、自分が加担している感覚だけがあった。




