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日の丸は異世界の敵  作者: 篠乃丸@綾香
序章 プロローグ
3/19

第三話 少女の最後

 どれだけ走ったか分からない。気づけば、日が傾いていた。

 畑の外れに、朽ちかけた納屋があった。リーゼはその中に転がり込み、藁の山の陰で膝を抱えた。歯の根が合わなかった。

 外套は泥と、友のものかもしれない血で汚れていた。


 ハンナ。


 クラーラ。


 ゾフィー先生。


 名前を心の中で呼ぶたびに、返ってくるのは砲声の残響ばかりだった。


 三人で、順番に集まる約束だった。

 村に、川に、クラーラの店に。

 一人でも欠けたら、約束は嘘になる。ハンナはそう言った。


 なのに、欠けたのは、二人だ。残ったのは、いちばん弱い、いちばん役立たずの、自分だけ。

 なぜ、あたしが。

 治癒だって満足に使えないのに。足も速くもないのに。生きて、誰かを助けて、とハンナは言った。


 でも、誰を?

 もう、助ける相手もいない。

 膝を抱えたまま、リーゼは声を殺して泣いた。故郷の弟の顔が、浮かんだ。木彫りの杖を握って眠る、あの子。

 姉ちゃんは、帰れないかもしれない。


 そして、どれくらいそうしていただろう。


 外で、聞いたことのない足音がした。


 規則正しく、重く、金属が擦れるような音。人の声もした。

 だが、その言葉は、公国のどの地方の訛りとも違っていた。

 低く、平坦で、感情の読めない響き。呪文でないことだけは分かった。あんなに短い言葉で、魔法が編めるはずがない。

 足音が、納屋に近づいてくる。リーゼは息を止め、藁の奥へと身を縮めた。心臓の音が、相手に聞こえてしまいそうだった。逃げ場はなかった。


 納屋の扉が、蹴り開けられた。


 夕日を背に、それは立っていた。


 人の形をしていた。だが、リーゼの知る人ではなかった。頭には丸い鉄の兜。

 顔には泥色の布と、光を映さない目。全身を斑の布と硬い殻で覆い、手には黒く長い棒──杖にしては無骨すぎる、鉄の棒を構えていた。

 それが、リーゼが生まれて初めて目にした、ニホン人だった。


 異形だ、と本能が叫んだ。

 これが、あの鉄の獣を操る者たち。魔法も持たず、優しさも持たず、ただ人を駆除する者たち。

 友を、先生を、金色の麦畑ごと吹き飛ばした、悪魔。

 クラーラを縫った鋼も、ハンナを呑んだ光も、ゾフィー先生を空へ散らした爆発も、みんな、こいつらが。

 その斑の異形が、鉄の棒の先を、こちらへ下ろした。そして、口を開いた。


「両手を上げろ」


 少し、掠れていた。


 短い言葉だった。低くて、平らで、けれど──思っていたより、ずっと若い声だった。

 それが「出てこい」という意味なのか「動くな」なのか、あるいは「傷はないか」なのか、リーゼには分からなかった。


 分かるはずもなかった。


 彼女に届いたのは、意味ではなく、ただ、友を殺した者の声、という事実だけだった。

 あんな者たちに、生きたまま触れられたくない。

 リーゼは、震える手を胸に当てた。


 そこには、緊急時の自決術式が刻まれた護符があった。

 捕らわれれば、公国の魔導師は生きたまま何をされるか分からない

 出征前に、教官がそう言って持たせたものだ。使い方は一度だけ教わった。魔力を一気に暴走させ、自らを内側から焼く。捕虜になるくらいなら、と。


 ごめんね、と、リーゼは心の中で誰かに謝った。

 村のみんなに、母さんに、弟に。

 先生になる約束、守れなかったことを詫びた。


 ハンナ、クラーラ、そっちに行くね。

 順番に集まる約束は、こんな形になっちゃったけど。


 その一心で、リーゼは護符に魔力を注いだ。


「やめろ!」


 鉄兜の下で、相手が叫んだ。

 今度はさっきより高い、切迫した声だった。

 制止だった。手にした棒を、慌てたように動かすのが見えた。


 だが、その言葉はリーゼには届かなかった。


 彼女の魔力が、術式の中で膨れ上がり、暴走を始める。胸が、内側から熱くなっていく。

 その時──


──パパンッ!


 乾いた音が、二発。

 リーゼロッテ・アルンハイムの世界は、あっけなく、暗転した。

 痛みは、なかった。ただ、熱が急に引いて、まわりの音が、遠ざかっていった。

 斑の異形も、割れた納屋の壁も、傾いた夕日も、すうっと薄れていく。


 最後に思ったのは、朝の鐘のことだった。

 寮の窓という窓に灯りをともす、あの音。ハンナに枕を投げられて起きた、あの朝。

 クラーラが唇だけで「おはよう」と言った、あの朝。ゾフィー先生に治癒を褒められた、あの日。全部、遠い昔のことみたいだ。


 灯りをともすための、あの優しい魔法の音を。


 もう一度、聞きたかった。










 陸上自衛隊第2師団、第25普通科連隊に所属する三等陸曹・遠野稜(とおの・りょう)は、しばらく引き金から指を離せなかった。

 薄暗い納屋の中、藁の上に、小さな体が崩れ落ちている。

 少女だった。せいぜい高校生ほどの。


 泥と血にまみれた外套の胸元から、まだ薄い光が漏れ、じきに消えた。

 彼女が握りしめていた護符──後に対人自爆用の魔導触媒だと情報小隊が判定した代物──が、床に転がっている。


 撃つ直前、彼女は何か言おうとしていた。

 いや、言葉ではない。目だ。あの目は、命乞いではなかった。憎しみでもなかった。

 ただ、どうしようもない恐怖と、覚悟だけがあった。

 悪魔を前にした人間の目。この場合、遠野が悪魔だった。


「遠野、下がれ。触るな」


 分隊長の声が、遠くから聞こえた。

 遠野は言われるまま、二歩下がった。手が震えていた。

 彼は今年で二十四歳。自衛官になる訓練の最中で、標的を撃つ演習は数え切れないほどやった。

 だが、生身の人間を撃ったのは、これが初めてだった。しかも、それは──


「……子供じゃないですか」


 声が掠れた。

 分隊長は答えなかった。代わりに、遠野の肩を一度、強く掴んだ。


「自爆する気だった。あのまま抱きとめてたら、お前も俺も、部隊ごと吹き飛んでたかもしれない。お前は正しい判断をした」


 正しい判断。遠野はその言葉を、胃の底で受け止めた。頭では分かっていた。

 あの護符が起動していたのを、89式小銃の照準器越しでも確認していた。

 撃たなければ、この納屋にいた四人が死んでいた。


 だが、頭で分かることと、腹が受け入れることは、別だった。

 彼女が自爆しようとしたのは、こちらを殺すためではなかった。

 触れられたくなかったのだ。自分たちのような者に。それが分かるから、なお、こたえた。


 納屋を出ると、平原は静まりかえっていた。


 夕日が、麦畑の焦げ跡を赤く染めている。掃討はほぼ終わっていた。あちこちで、鹵獲した敵の装備──杖だの、宝石を嵌めた護符だの、中世の見世物のような武具──が回収されていく。

 倒れているのは、鎧の騎士に混じって、あの少女と同じ外套を着た者ばかりだった。


 若い。どれも、若すぎた。

 学徒動員だ、と誰かが吐き捨てるように言った。魔法師ってのは、この国じゃ学校で育てるらしい。つまり、俺たちが撃ってるのは、ほとんど学生だ、と。

 近くには威力偵察として集落に接近した10式戦車が数輌、砲塔をこちらに向けたまま、静かにエンジンを唸らせていた。

 その一輌の車体に、鮮やかな焦げ跡が斜めに走っている。

 敵の魔法が、確かにそこに当たった痕だった。

 塗装を焦がしただけの、無意味な跡。


「向こうさん、火の玉やら氷やら、けっこう派手に撃ってきたぜ」


 戦車から降りてきた第2戦車連隊所属の陸曹が、煙草をくわえて笑った。


「映画かってくらいの派手な魔法だった。当たりゃ人ひとりは黒焦げだろうな。けど10式の複合装甲には、蚊が止まったほどもこたえんが」


 遠野は、言葉が出なかった。

 自分たちが、たった半日で、いくつの村を、いくつの隊を、更地にしたのか。

 魔法という、この世界の人々が命を賭けて磨いてきたものが、鋼板一枚に完敗する。

 それを目の当たりにして、勝った、という感慨は湧かなかった。


 ただ、途方もなく一方的な何かに、自分が加担している感覚だけがあった。


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