第二話 鋼鉄の獣
約束の三日後、召集がかかった。
朝の鐘がいつもより長く鳴った。それが凶事の合図だと、あとで知った。
講堂に集められた生徒たちの前で、学院長が震える声で読み上げた。突如現れたニホンという国との交渉が決裂し、公国は開戦を決したらしい。
そして魔法を学ぶ者はすべからく、国防の任に就くこと。
この学院の生徒も、例外ではなかった。
「魔導師は、公国の宝です」
学院長の声は、慰めのつもりだったのかもしれない。
「あなたがたの一人ひとりが、千の兵に匹敵する。誇りを持ちなさい。国が、あなたがたを必要としている」
講堂はしんと静まりかえった。誰かがすすり泣く声が、床の石を伝って広がっていく。
まだ治癒の初歩を習っている子供が、まだ結界の二層目を歪ませる子供が、千の兵に匹敵する宝として、戦場へ送られる。
その言葉の、優しい響きと残酷な中身の落差に、少女たちはただ立ち尽くしていた。
リーゼの隣で、ハンナが青ざめた顔のまま、それでも精一杯に笑おうとしていた。
「……大丈夫よ」とハンナは言った。
誰に言うでもなく。
「あたしたち、三層結界くらいは張れるもの。ちゃんと戻ってくる。戻ってきて、また先生に叱られるの。約束したでしょ。三人で、順番に集まるって」
クラーラは何も言わなかった。ただ、本を胸にきつく抱きしめていた。
その本が、いつか三人で覗き込んだ、あの伝説の魔法の書だと、リーゼは気づいた。
時を遡る詠唱。魂の記録術。失われた、大きな魔法。
──戦争は、大きな魔法を持つ国さえ滅ぼす。
クラーラがそう言ったのを、リーゼは思い出していた。
最前列では、ゾフィー先生が唇を噛んでいた。生徒を戦場へ送る側になった若い教師の横顔を、リーゼは見た。
優しくないと意味がない、と教えてくれたその人が、いま、教え子を戦へ引率しようとしている。
その矛盾に、先生自身が誰よりも苦しんでいるのが、リーゼには分かった。
あとで知ったことだが、ゾフィー先生は、生徒の引率役を志願したのだという。せめて自分が、一人でも多くを生きて連れ帰る、と。
その夜、リーゼは故郷へ手紙を書こうとして、書けなかった。
弟に、姉は戦争に行く、とは書けなかった。村じゅうが送り出してくれた自分が、教師にもなれずに戦場へ行くのだとは。
木彫りの杖を握って眠るあの子に、なんと書けばいいのか、言葉が見つからなかった。
結局リーゼは、白い紙をそのまま鞄にしまった。帰ってきたら、書こう。無事に帰って、直接、話そう。そう思うことにした。
支給された制式の外套は、真新しい魔糸で織られていて、まだ樟脳のにおいがした。
袖を通すと、少し大きかった。裾を折りながら、リーゼは思った。
ニホンとは、どんな国なのだろう。どんな魔法師が、向こうにはいるのだろう。
そのとき彼女が思い描いた「敵」は、自分たちとよく似た、杖を持つ誰かの姿だった。
同じように詠唱し、同じように結界を張り、同じように誰かの故郷を想う、誰か。
魔法と魔法がぶつかり合う、物語の中の戦。勝つ者もいれば負ける者もいる、けれど筋の通った戦いだ。
その時は、それしか想像できなかった。
東へ向かう街道を、少女たちの隊列が進んでいく。
馬車を乗り継ぎ、最後は徒歩だった。
学院を出て五日。真新しかった制式の外套は、もう泥と汗で薄汚れていた。リーゼの足には豆がつぶれ、一歩ごとに痛んだ。
それでも、隣を歩くハンナが軽口を叩くから、なんとか足が前に出た。
「見なさいよ、あの騎士様。あたしに気があるわね、絶対」
「どこ見て言ってるの。あの人、さっきから馬しか見てないよ」
「乙女の勘って言うのがあるの。リーゼには一生わからないでしょうけど」
クラーラは列の後ろで、相変わらず本を読みながら歩いていた。
歩き読みの達人で、石につまずいてもページから目を離さない。
ただ、その本がいつもの魔導書ではなく、故郷の店の帳簿だと、リーゼは気づいていた。
父に持たされたのだろう。もし帰れたら、店を継ぐ。その未来に、指先で触れているみたいだった。
夜は、街道沿いの野営地で毛布にくるまった。焚き火の魔法──ハンナが得意な、煙の出ない小さな炎──を囲んで、三人は身を寄せた。
周りでは、他の生徒たちがすすり泣いたり、祈ったりしている。まだ十四、五の子もいた。
「ねえ」
リーゼは、火を見つめて言った。
「怖い?」
「怖いに決まってるでしょ」
とハンナは即答した。いつもの強がりが、その夜は少しだけ薄かった。
「でもさ。あたしたち、後方支援だって。結界を張るだけ。前に出るのは騎士たちよ。……そんなに、危なくないはず」
「そうだね」
リーゼは頷く。彼女自身もそう信じたかった。
そんな湿った空気感の中、クラーラが、ぽつりと言った。
「……ニホン人って、どんな魔法を使うのかな」
誰も答えられなかった。焚き火の向こうの闇を、三人でしばらく見つめた。
その闇の奥に、彼女たちの知らない鉄が、静かに近づいてきていることを、まだ誰も知らなかった。
眠る前、ハンナがリーゼの手を握った。
「約束、覚えてる?」
「三人で、順番に集まるって?」
「そう。あんたの村、あたしの川、クラーラの店。だから──絶対、三人とも帰るのよ。一人でも欠けたら、約束は嘘になるから」
リーゼは頷いた。
闇の中で、三つの手が、また少しの間、絡み合った。
戦場は、拍子抜けするほど静かに始まった。
東部辺境、フェルデン平原。刈り入れの終わった麦畑が、地平まで金色に続いている。
その一角に、公国軍は陣を敷いていた。旗が翻り、魔導騎士たちが馬をならし、後方には老練の魔導師たちが防護結界を幾重にも張り巡らせている。
リーゼたち学生魔導師は、その最後尾──老魔法師の詠唱を補助する、いわば予備の魔力炉として配置されていた。
「怖がることはないわ」
ゾフィー先生が、震える生徒たちの間を歩きながら言った。その声もまた、少し震えていた。
「私たちは後方支援。前に出るのは騎士たちよ。あなたたちは結界を保つことだけ考えなさい。それだけで、たくさんの命が救えるの。みんな、必ず、生きて帰るのよ」
その言葉が、生徒を一人でも多く連れ帰るために引率を志願した人の精一杯の誓いだとリーゼは知っていた。
だから頷いた。ハンナも、クラーラも、青い顔で頷いた。
地平の向こうに、砂煙が上がった。
最初、リーゼはそれを軍勢だと思った。無数の馬か、あるいは巨大な魔獣の群れか。
だが近づくにつれて、それが何か根本的に違うものだと分かってきた。
土埃の中に、鈍色の塊がいくつも蠢いている。
馬でも人でもない。低く、平たく、鉄でできた獣。
速かった。馬の全力疾走よりなお速く、しかも地面の起伏をものともせず、まっすぐこちらへ滑ってくる。
土煙の底から、地鳴りのような唸りが伝わってきた。何十という唸りが。
誰も、その名を知らなかった。ずっと後になって、それが「戦車」と呼ばれているだなんて知る者はいなかった。
ただ、彼女たちの目にそれは、伏せた鋼の亀のように映った。その亀は長い一本の角を、まっすぐこちらへ向けた。
「──放て!」
前方で、指揮官の号令が響いた。
老魔導師たちの詠唱が重なり、大気が唸った。炎の槍が、氷の礫が、風の刃が、地平を埋める鉄の獣へと殺到する。
リーゼも歯を食いしばって魔力を注いだ。
ハンナが、クラーラが、隣で必死に詠唱を続けている。数十発の攻性魔法が、光の尾を引いて敵陣に着弾した。
閃光。轟音。土煙。
やった、と誰かが叫んだ。
だが、煙が晴れたとき。鉄の獣は、一輌も止まっていなかった。
黒い焦げ跡を鎧の表面につけただけで、それらは何事もなかったかのように前進を続けていた。
公国が誇る老魔導師たちの、生涯を賭して磨いた術が、鋼の板一枚を割ることすらできなかった。
リーゼは、目の前で起きていることの意味を、頭が拒んでいた。
魔法が。優しくも、恐ろしくもある私たちの魔法が、通じていなかった。
そして、鉄の獣の角が、火を噴いた。
音より先に、世界が消えた。
最前列にいた騎士の一隊が、馬もろとも、赤い霧になった。
リーゼには何が起きたのか分からなかった。魔法の光も、詠唱もなかった。
ただ、獣が咳をするように角を鳴らすたび、地面が抉れ、人が消える。
一度の砲声で、十人が。また一度で、十人が。距離は、まだ遠かった。
矢も魔法も届かない、はるか彼方から、それは正確に、公国軍を削り取っていった。
戦いではなかった。
まるで的当てのようだった。
「結界! 結界を張り直しなさい!」
ゾフィー先生が叫んだ。
だが、老魔導師が幾重にも重ねた防護結界は、鉄の獣が吐く光の前に、紙のように裂けていた。
物理でも魔力でもない、ただ途方もない速さで飛来する鋼の塊が、結界の術式ごと、それを支える魔法師の体を貫いていく。
そのときだった。クラーラが、震える声で詠唱を始めた。
聞き覚えのない、古い言葉だった。いつか三人で覗き込んだ禁書に載っていた、失われた大魔法──対軍規模の、伝説の結界術式。
物静かなクラーラが、恐怖に顔を歪めながら、それでも必死に、みんなを守ろうとしていた。
本の中でしか知らなかった呪文を、ぶっつけで。彼女の周りに、淡い光の膜が広がりかけた。ほんの一瞬、それは確かに、美しく輝いた。
だが、術は完成しなかった。
鉄の獣の吐く鋼の礫が──機関銃と呼ばれる細かな連射が──半円の光をあっけなく貫いて、クラーラの体を縫った。
彼女は詠唱の途中で、言葉を切った。眼鏡が、地面に落ちて割れた。
手にした本が、ぱらぱらとページを開いたまま、赤く濡れていく。店を継ぐはずだった手が、それを掴もうとして、動かなくなった。
「クラーラ!」
リーゼは駆け寄ろうとした。その腕を、ハンナが強く掴んで引き倒した。
「行っちゃ駄目!」
二人の頭上を、光が薙いだ。伏せていなければ、リーゼも同じになっていた。
ハンナの顔は、涙と土でぐしゃぐしゃだった。それでも彼女は、リーゼを背中に庇うようにして、立ち上がった。
「あんたは治癒が使えるでしょ。生きて。生きて、誰かを助けて。あたしが、時間を稼ぐ」
「ハンナ、待って、一緒に!」
「……約束は、守れなかったけど」
ハンナは、泣きながら笑った。いつもの、強がりの笑顔で。
「あんたが村で先生になる話、あたし、好きだったのよ」
そう言って、ハンナは炎を放った。得意の、煙の出ない小さな炎ではない。
ありったけの魔力を込めた、大きな火柱を。鉄の獣の視界を、一瞬でも塞ぐために。
それは確かに、一輌の視界を炎で覆った。けれど、隣の一輌が、静かに角を向けた。
リーゼが見ていた前で、ハンナの立っていた場所が、光に呑まれた。
声も、上げさせてもらえなかった。
金色の三つ編みも、強がりの笑顔も、直したかった故郷の川も、何もかも一瞬で。あとには、焦げた地面だけが残った。
リーゼは走っていた。悲鳴すら出せず、這うよう転がるように。魔法を使う暇などなかった。
呪文を唱えかけた者から、順に倒れていく。近くで、乾いた連続音が鳴った。
そのときのリーゼには、鉄の獣が鳴らす鳴き声にしか聞こえない。
その吠え声のたびに、逃げる背中が、次々と地に伏していった。
振り返った先で、麦畑の中に、ゾフィー先生が立っていた。倒れた生徒を庇うように、腕を広げて。
何か大きな結界を、ひとりで張ろうとしているように見えた。
教え子を一人でも多く生かそうと、若い教師が、最後の魔力を絞り出そうとしていた。必ず生きて帰す、と誓った人が、その誓いを果たそうと。
優しくないと。
彼女の唇が、確かにそう動いた気がした。
次の瞬間、ゾフィー先生の立っていた場所が、光になった。
人の体を、周囲の地面ごと、細かな破片に変えて撒き散らす「榴弾」の実。
リーゼの憧れた人は、悲鳴を上げる間もなく、麦の穂と一緒に空へ舞い、そして、もう地上のどこにもいなくなった。
リーゼは、悲鳴すら出せなかった。
ただ走った。這うように、転がるように、金色の畑を抜けて。
背後で世界が焼ける音を聞きながら、彼女は理解していた。
これは戦争ではない。魔導師と魔導師が杖を交える、あの物語の戦ではない。
これは、駆除だ。




