第一話 鐘の鳴る朝
朝の鐘が鳴ると、寮の窓という窓に灯りがともった。それを合図に、シエスタル魔法公国立・聖レーヴェンティア女学院は朝を迎える。
丘の上に白い尖塔を積み上げたこの学び舎で、リーゼロッテ・アルンハイムは十六度目の秋を迎え、茶色のロングを揺らして眠っていた。
目覚めの合図は魔導鐘の音だ。塔の頂きで永く回り続ける小さな魔法陣が、朝ごとに澄んだ音を街まで届ける。
魔法とは、この国では空気のようなものだった。あって当たり前で、失えば息もできないようなもの。
「リーゼまた寝坊。灯の魔法くらい自分で点けなさいよ」
同室のハンナが枕を投げてくる。
金髪の三つ編みを揺らして笑う彼女は、リーゼの三年来の親友だ。
器用で口が悪い。けれど誰より情に厚い。
実技の成績はいつも学年の上位で、その気になれば宮廷魔導師にだって推薦されるだろうと、教師たちは口を揃える。
だが本人は「宮仕えなんてまっぴら」と言って、卒業したら故郷で治水の魔法師になるのだと決めていた。
彼女の生まれた村は毎年のように川が氾濫するのだ、だから自分が立派な魔法師になって直さなければならない。
いつかそう、寝物語のように聞かせてくれたことがある。
反対側の寝台では、いつも通りクラーラが本に顔をうずめて起き上がりもしない。
眼鏡の奥の目だけがこちらを見て、おはよう、と唇の形で言った。
クラーラは南部の大きな魔導書店の娘で、幼い頃から活字に埋もれて育った。
喋るより読むほうが得意で、実技はからきしだが、古代呪文の知識にかけては教師すら舌を巻く。
三人の中でいちばん物静かで、いちばん怖がりで、そのくせいちばん世界の仕組みを知りたがっていた。
三人は連れ立って講堂へ向かう。回廊の柱の間を、指先ほどの光球がいくつも漂っている。
誰かが練習で放ったまま消し忘れた照明の魔法だ。放っておけば夕方には勝手にほどけて消える。
リーゼはそのひとつを指で弾いた。光球は鈴を転がすような音を立てて、少し先へ飛んでいった。
「今日は実技があるでしょ。ゾフィー先生、また《結界の三層構築》やらせる気かな」
「あんたが下手だからよ」
「ハンナだって二層目がいつも歪むくせに」
くだらない言い合いをしながら、三人は霜の降りた中庭を横切る。
聖レーヴェンティア女学院は、シエスタル魔法公国の首都サクローヌにある、同国でも指折りの名門だ。
五百年前、初代大公妃が「女にも魔法の学びを」と創立した。
今では、この国の魔法師の四人に一人はここの出だと言われる。
石造りの校舎は蔦に覆われ、渡り廊下には歴代の名だたる卒業生の肖像が並んでいる。
校庭の噴水は、二百年前の魔法師が刻んだ循環術式で今も澄んだ水を吹き上げ続けているし、大講堂の天井には、動く星座が描かれて夜ごとに巡る。
魔法は、この学院では歴史であり、装飾であり、そして呼吸だった。
この国の少女にとって、魔法は武器とは限らない。畑に水を撒くのも、パンを膨らませるのも、冬に凍えぬのも、すべて魔法だ。
魔法師とは、村の水路を直したり、疫病の家に浄化を施したりする。暮らしのそばにいる者。少なくとも、リーゼはそう教わってきた。
実技の教室で、ゾフィー・ヴァイス先生が黒板に光の文字を走らせていた。
まだ二十代半ばの若い教師で、生徒たちの姉のような存在だった。
厳しいけれど理不尽ではなく、放課後にこっそり菓子を分けてくれる。数年前まではこの学院の生徒で、卒業してそのまま教師として戻ってきたのだという。
だから彼女は、寮の抜け道も、教師に隠れて夜更かしする作法も、失恋の慰め方も、ぜんぶ知っていた。
リーゼは彼女に憧れていた。いつか自分も、こんなふうに誰かの隣に立てる人になりたいと思っていた。
「今日は治癒の初歩をやります。傷を塞ぐ前に、まず相手の熱を診ること。焦って魔力を注げば、かえって傷を煮てしまう。いい? 魔法は、優しくないと意味がないの」
優しくないと意味がない。
その言葉を、リーゼは後になって、何度も思い出すことになる。
治癒の実技でリーゼは手こずっていた。彼女の魔力量は人並みで、詠唱も遅い。同じ班のハンナが軽々と切り傷を塞いでいくのを、羨ましく横目で見た。
それでも、傷ついた模擬体の「熱」を読むことだけは、リーゼは誰より丁寧だった。
急いては駄目、と自分に言い聞かせながら、そっと魔力を寄せていく。ゾフィー先生が背後で足を止めた。
「リーゼ。あなたは速くはないけど、優しいわ。治癒師にいちばん要るのは、それよ」
その一言を、リーゼは宝物のように胸にしまった。
昼の休みには、三人でいつもの中庭の隅に集まった。噴水の縁に腰かけて、寮の厨房からくすねてきた黒パンをかじる。
クラーラが持ち出した古い魔導書を、三人で覗き込む。
禁書棚から借り出してきたらしいそれには、「魂の記録術」だの「死者を蘇らせる」だの、実現不可能とされる伝説の魔法が載っていた。
「こんなの、本当にできたら世界が変わるのにね」
ハンナが笑ってそう言った。
「昔の魔法師は、できたのかもしれない」
と、クラーラは真面目に言った。
「今より、ずっと大きな魔法があったって説もあるの。ただ、失われただけで」
「失われるって、どうして?」とリーゼが訊く。
クラーラは少し考えて、答えた。
「戦争、かな。科学文明との戦争で、大きな魔法を持ってた国がみんな滅んだの。魔法は、使う人がいなくなったら消えてしまうから」
その言葉に、なぜか三人とも、しばらく黙り込んだ。噴水の水音だけが、澄んだ午後に響いていた。
その日の夜、リーゼは故郷への手紙を書いた。
彼女の生まれは、公国の北の外れの、羊飼いばかりの小さな村だった。
魔法の才があると村の司祭に見出され、十二の年にこの学院へ来た。学費は村じゅうが少しずつ出し合ってくれた。
だからリーゼには、卒業したら村へ帰り、子供たちに読み書きと初歩の魔法を教える、という夢があった。
村には学校がない。彼女が最初の教師になるのだ。そう約束して、村を出てきた。
手紙には、治癒の実技を褒められたこと、ハンナとクラーラが元気なこと、そして、弟のことを書いた。
八つ下の弟は、姉に憧れて「僕も魔法師になる」と言っているらしい。
母の手紙には、弟が毎晩、姉のくれた木彫りの杖を握って眠るのだと書いてあった。リーゼは、その一節を読むたびに、胸が温かくなった。
早く卒業して帰ろう、と思う。あの子に、本物の魔法を見せてやりたい。
窓の外を、渡りの鳥が横切っていく。東の空に、いつもと変わらない星が瞬いている。
リーゼは、まだ何も知らない。この手紙が、弟に届く最後の一通になることを。
木彫りの杖を握って眠る弟に、二度と会えなくなることを。
最初におかしいと気づいたのは、食堂のざわめきからだった。
その週、昼の食堂は、いつになく騒がしかった。
西の話だ、とみなが声をひそめて言い合っている。この一月ばかり、大人たちの様子がおかしかった。
西の海の向こうに、見たこともない国が現れたのだという。空から降ってきた、地の底から湧いた、いや神罰だと──噂は尾ひれをつけて広がっていた。
名を、ニホンといった。
「馬鹿げてるわ」
ハンナは肩をすくめた。
「地面ごと国が現れるなんて。どうせ辺境の蛮族が徒党を組んだのを、宮廷が大袈裟に言ってるのよ」
クラーラだけが、開いた本から顔を上げずに呟いた。
「……でも、先月から穀物の値が二倍になった。父さまの手紙にそう書いてあった。宮廷が南部の備蓄を全部買い上げてるって」
備蓄。買い上げ。
その言葉の重さを、十六の少女たちはまだ量りかねていた。それが戦争の準備だと気づく者は、まだ誰もいなかった。
噂は、日ごとに濃くなった。
海岸の砦が焼かれたらしい。使者が帰らないらしい。宮廷の魔導団が動員されたらしい。
教師たちは廊下で声をひそめて話し、生徒が近づくと口をつぐんだ。ある朝、いつも星座を巡らせている大講堂の天井の魔法が、術者が招集されたとかで、止まっていた。
動かない星空の下で、リーゼは初めて、胸の奥に冷たいものを感じた。
その夜、三人は寝台を寄せて、遅くまで話した。
「戦争になんて、ならないよね」
とリーゼが言った。
「ならないわよ」
ハンナが即座に返す。
「なったって、宮廷魔導団がいるもの。あたしたちには関係ない。卒業したら、あんたは村で先生。クラーラは店を継いで。あたしは川を直す。そう決めたじゃない」
クラーラは、暗がりの中で小さく笑った。
「……三人で、たまに集まりましょうね。あなたの村と、私の店と、ハンナの川と。順番に」
「約束よ」とリーゼは言った。
三人は、暗闇の中で指を絡めた。子供じみた仕草だと分かっていたけれど、そうせずにはいられなかった。




