第二十六話 初日
自衛隊の越境から約二時間
ハルゲニア国境地帯 アイゼンブルク要塞
ハルゲニア軍の将軍ガーレンは、朝焼けに染まる東の空を、要塞の司令室から睨んでいた。
ここはアイゼンブルク要塞。
ハルゲニアが、シエスタルとの国境線を強化するために築いた巨大な城だった。
魔法の射程を優位に発揮できる高所からの星形陣地。中に分散配置された陸軍の部隊。そして前線に点在する駐屯地を街道でつなぐハブでもある。
分厚い石の天井。魔導師が幾重にも張り巡らせた防護結界。その堅固な陣地に、前線を支えるための補給物資と、予備の兵力の大半が隠されていた。
「日本がついに仕掛けてきたと聞いたが」
ガーレンは副官に言った。
「前線からの情報は混乱しており、現在把握している最中です。しかし兵士たちの中にはすでに王都が占拠されたという根も葉もない噂もあります」
「情報工作だな。どれが真実かを見分けさせないためのブラフだ」
ガーレンは吐き捨てるように言う。
「無駄なことよ。このアイゼンブルクがある限り心配はいらん。この無敵城砦がある限り、前線は維持される」
「ですが将軍。あの鋼の獣にはどうするおつもりで?」
「心配は要らん」
ガーレンは自信たっぷりに城壁を叩いた。
「鉄の獣とて、この厚さの石を抜くには目の前まで来ねばならん。こちらには結界もあり、地下陣地もある。籠城戦ならこちらが有利だよ」
彼の理屈は正しかった。この世界の常識では、であるが。
日本はこの世界の常識の外から来ている。そのことを彼はこの日、命を持ってして味わう事になる。
最初に聞こえたのは、空を裂くような甲高い音だった。
「な……なんだ、あの音?」
要塞の兵たちが空を見上げた。
だがそこには何も見えない。ただ雲を貫いて、甲高い金属の悲鳴のような音だけが近づいてくる。
誰もその正体を知らなかった。魔獣でも飛竜でもない。はるか高空を音速で駆ける、鋼の翼だった。
そして、次の瞬間。
要塞の一角が、内側から噴き上がった。
同時刻
航空自衛隊
一等空尉・真壁のF-2は、彼らのはるか上空を飛んでいた。
彼らの今日の任務はCASではない。要塞への精密爆撃。標的はアイゼンブルク要塞、ハルゲニア軍の補給と予備兵力の集積地だった。
「目標、ロックオン」
真壁は平坦に告げた。
「投下」
彼の機体から誘導爆弾のJDAMが切り離された。
レーザー光線に導かれそれは、寸分の狂いもなく要塞の弱点へと吸い込まれていく。
星形の城壁がいかに分厚くとも、上から落ちてくる2000ポンド爆弾という槍に対しては無力だ。
爆弾は城壁を貫き、その内側に隠された弾薬庫と物資集積所の中で炸裂した。
地上が連鎖して爆発した。
隠していた補給物資が消えた。
予備の兵力が消えた。
その堅固な城壁の内側で、彼らは逃げ場もなく炎に呑まれた。城壁が頑丈であればあるほど閉じ込められた。
爆風と炎は内側で暴れ回り、逃げられぬ兵たちを焼いた。守りの要はそのまま巨大な火葬の場になったのである。
真壁は機体を旋回させ、その光景を見下ろし、次の一発を投下した。
僚機たちも次々と陣地へ爆弾を投下している。
黒い煙。
崩れる城壁。
逃げ惑う豆粒のような影。
真壁にはその一人ひとりの顔は見えなかった。悲鳴も聞こえない。
ただ標的が計画通りに無力化されていく、その様子だけが見えた。
「……効果確認」
真壁は報告した。声に感情はなかった。
「残弾なし。RTB」
同時刻
アイゼンブルク要塞
城壁の上で守将ガーレンは、崩れゆく自らの要塞を呆然と見ていた。
彼はすでに対応の指示を出していたが、彼らの努力は無意味であった。
「そんな……馬鹿な。空中艦でもないのにあんな遠くから……!」
彼の常識ではあり得なかった。
城はそこに存在することが正義であり、無視はできない圧倒的な存在感があるはずだった。
しかし今の彼らは、ただ上から殺されているだけだ。ガーレンが生涯をかけて信じてきた籠城という作法が、目の前で灰になって消えていく。
「将軍! お逃げを!」
副官の叫びも遅かった。
二撃目の爆発が、城壁のその一角を根こそぎ崩した。ガーレンの姿は、崩れ落ちる石の下に消えた。難攻不落を信じたまま。
アイゼンブルク要塞は、ものの数十分で機能を失った。
補給は燃え、予備兵力は焼け、前線を、支えるハブは消えた。攻城戦はついに一度も起きなかった。
同時刻
中規模都市リンダウ
前線から少し離れたところに、中規模な都市のリンダウという街があった。
その日も朝市はいつも通り賑わっていた。
パン屋の女房が、焼きたてのパンを並べていた。子供たちがその匂いにつられて駆けてくる。
荷馬車が行き交い、商人が声を張り上げる。戦争が始まったという噂はあった。だがそれは遠い国境での話であり、この数時間でそれが伝わるのが遅れていた。
その空に。
白い線が幾筋も引かれた。
「なんだ、あれ……」
誰かが指さした。
市場の群衆が空を見上げた。
地平の彼方から、低く白い煙の尾を引いて、何かがこちらへ飛んでくる。
速い。鳥ではない。魔法の矢でもない。それはまっすぐ、この街を目指して──
最初の着弾は、街の外れの駐屯地にあった。
巨大な爆発が兵舎をまとめて吹き飛ばした。
応戦しようと駆け出した兵たちは、二発目、三発目の着弾で駐屯地ごと消えた。
街を守るはずの軍が、武器を構える間もなく、次々と削られていった。
これは日本の巡航ミサイルだった。
はるか水平線の向こうの戦闘機から、あるいは地上の発射機から放たれた大量のミサイル。
地形に沿って低く飛び、正確にこの街の軍事施設を撃ち抜いていく。
撃った者の姿はどこにも見えなかった。空には敵機すらいない。ただ白い尾を引いた死の集団が、地平の向こうから際限なく降りそそいでくる。
「逃げろ! 逃げろぉ!」
市場は一瞬でパニックになった。
パン屋の女房は子供の手を掴んで走った。
どこへ逃げればいいのか?
そんなのは誰にもわからなかった。
ただ爆発から遠くへ、荷馬車が横転し、馬が暴れ、人々が折り重なって倒れた。
悲鳴と土煙。次の着弾が市場のすぐ近くの貴族の建物を壊した。
降ってくる瓦礫。舞い上がる粉塵。焼きたてのパンが、崩れた露店の下敷きになった。
この街の誰も、こんなものを見たことがなかった。
魔法の戦いなら彼らでも知っていた。魔導師が火を放ち、結界がそれを防ぐような正しい戦い。目に見える力と力のぶつかり合い。
だがこれは違った。敵は見えない。防ぎようがない。
ただ空の彼方から死だけが届く。祈る間も、逃げる方向すらわからぬまま。
「お母さん! 痛い、痛いよぉ!」
瓦礫の下から子供の声がした。
パン屋の女房は狂ったように石をどけた。だがどけてもどけても、街のあちこちで同じ声が上がっていた。
助けて。痛い。誰か。
その無数の声の上に、また新たな白い尾が幾筋も引かれていく。
その頃、国境線を越えた日本の地上部隊は、前線の街へと差し掛かっていた。
その中には、かつてセシリアが足を踏み入れたアルト難民区も含まれていた。
難民キャンプの後ろに広がる街は、すでに瓦礫の山になりつつあった。歩兵が来る前に、ただ遠い空から放たれた無数の槍と爆弾だけで。
前線を支える要塞は消え、後方の都市は燃え、ハルゲニア軍はまともな抵抗を組む前に少しずつ削られていった。
これが特殊な事案の作戦の初日だった。




