第二十五話 特殊事案作戦
日本が転移してから約二年
ハルゲニア王都マルグリース 日本大使館
拘束を解かれ大使に復帰した中村は、この半年間ずっと同じ椅子に座り続けているように感じた。
向かいにいるのは、失脚したセシリア・コルネットに代わって外交を預かることになった宮廷貴族のラング伯爵だった。
恰幅のいい笑みの絶えない男。その笑みが、中村にはこの半年心底腹立たしかった。
「伯爵。もう一度申し上げる」
中村は卓上の書類を指で叩いた。
「先の貴国による宣戦布告なき軍事侵攻。あれによって我が国は多くの犠牲者が出た。この責任を貴国は認め謝罪し、賠償する義務がある。この交渉はそのためのものです」
「え、ええ大使。お気持ちは、痛いほど」
ラング伯は両手を広げた。
「ですが何度も申し上げている通り、あの侵攻は亡き……いえ、失脚した、コルネット卿の時代の政策の行き詰まりが招いた、民衆の自然な蜂起です。故郷を追われた難民たちが、やむにやまれず……」
「では民衆の蜂起が正規軍騎士団を動かしますか?」
「あれは、その……義憤に駆られた一部の貴族が独断で……」
「また同じ言い訳を」
中村の声が低くなった。
「独断だ、宰相の独断だ。シエスタルもそう言った。その独断を止められぬ国が隣にある。それ自体が我が国にとっての脅威なのですよ、伯爵」
「脅威とはまた、大袈裟な」
「大袈裟?」
中村は卓を拳で叩いた。
鈍い音が、迎賓の間に響いた。
「非武装の民間人が殺されたのだ。それを大袈裟と? ……貴国はこの半年、ただの一度もその死者に頭を下げなかった。賠償の話になれば財政がと逃げ、責任の話になれば独断だ、蜂起だ、と誤魔化してばかり。誠意がない」
「せ、誠意はございます。ただ……我が国にも我が国の事情が」
「その事情とやらのために、我が国の民は死んだのか?」
ラング伯の笑みが、初めてわずかに引きつった。
だが彼は頭を下げなかった。下げれば賠償が確定する。国庫が傾く。そして国王の後ろ盾たちが黙っていない。
この貴族にとっては日本人の死者よりも、自国の派閥の顔色のほうがはるかに重かった。
「……本日は、この辺で」
ラング伯は立ち上がった。
「また後日、改めて」
また後日。
この半年、何度聞いたかわからない言葉だった。
この半年、中村はこの同じ迎賓の間で、同じ堂々巡りを飽きるほど繰り返してきた。そして時間だけが砂のようにこぼれ落ちていった。
中村はそれに苛立ちながら、同時に奇妙な既視感を覚えてもいた。
責任をはぐらかし、時間を稼ぐ。それは、かつて、この同じ大使館で自分がセシリア・コルネットに対してやってのけた手口とそっくりだった。
難民の責任を問われ、我が国の関与できる問題ではないと、涼しい顔ではぐらかした。
そして今度は、自分がはぐらかされる側に回っていた。因果は律儀に巡るものだ、と中村は思った。
だが違いもあった。
あの時の自分には、後ろに自衛隊の軍事力がいた。今のラング伯にはそれがない。
逃れられるのは力ある者でなければならない。力なき者が責任を逃れるのは、ただ相手に『最後の手段』の口実を与えるだけだ。
それをこの脂ぎった貴族はわかっていなかった。あるいは、わかろうとしなかった。
その夜。
中村は大使館の執務室で、部下と共に書類を暖炉にくべていた。
撤収の準備だった。
だが持ち帰る書類と焼く書類を、彼は慎重に選り分けていた。
焼かれていくのは、この半年の交渉の真の記録。日本側がはなから妥結を望んでいなかったこと。本国から幾度も「交渉は、決裂させて、構わない」という、暗黙の指示が届いていたこと。
この半年が賠償を勝ち取るためではなく、「我々は粘り強く交渉した。だが裏切られた」という大義名分を、積み上げるための時間であった。
中村はそれらの証拠を、一枚ずつ火にくべた。
炎の中で、書類が黒く縮れていく。
ふと、中村の脳裏に一人の顔が浮かんだ。
セシリア・コルネット。あの真っ直ぐな目をした王位候補の一人。
この世界で日本と最も真面目に向き合おうとした女性。そしてそのために追い詰められ、切り捨てられた人物。
あなたは、正しかったのかもしれない、と中村は思った。
対話を望んでいたのはあなただけだった。しかし本当は、あなたの国も私の国も、対話など始めから求めていなかった。求めていたのは戦争の口実だけだ。
最後の一枚が灰になった。
中村は暖炉の火をしばらく見つめた。
それから静かに立ち上がり、撤収の指示を出しに行った。
もうこの国に大使館は要らない。要るのはこれからこの国へなだれ込む自衛隊だけだ。
同じ頃
日本国首都東京
曇り空の東京。
国会議事堂の前は、人で埋まっていた。
「ハルゲニアに報復を!」
「殺された民間人の報いを!」
「異世界人を許すな!」
日の丸を掲げた群衆が、こぶしを突き上げていた。
この半年、日本の世論はすっかり様変わりしていた。
かつてはシエスタルの汚職貴族への怒りだけだった。それがいつしか難民への憎しみになり、そして今はハルゲニアという国そのものへの憎悪にすり替わっていた。
焼かれた車列。手足を失った自衛官。連日、繰り返し報じられるその映像が、人々の心を単純な熱い一色に染め上げていた。
しかしその熱狂の渦に包まれる群衆の片隅に、また別の小さな集まりがあった。
「戦争反対!」
「難民も被害者だ!」
「報復はまた報復を生むだけだ!」
プラカードを掲げた数十人の若者たち。
カウンターデモだった。彼らの中には、この一年の戦争の本当の姿を憂いている者がいた。
だから彼らは叫んでいた。これは正義の戦いではない、と。
だが、その声は小さすぎた。
「なんだアイツら」
主戦派の群衆の一部が気づいた。
「こいつら非国民か」
「同胞が殺されたんだぞ! お前らそれでも日本人か!」
小競り合いはあっという間に暴力に変わった。
カウンターデモの若者たちは揉みくちゃにされ、プラカードを奪われ、破られた。一人の若者が地面に引き倒され、蹴られた。
「戦争を広げるなって言ってるだけだろ!」
若者は血を流しながら叫んだ。
「黙れ! 売国奴め!」
警官たちは遠巻きに見ているだけで、止めに入らなかった。
あるいは入れなかった。
世論という巨大な熱の前では、たった数十人の正論は暴力でねじ伏せられ、路上の染みになっていた
テレビでは、朝から晩までハルゲニアの非道を報じ続けていた。
焼かれた車列、手足を失った若い自衛官。コメンテーターは口を揃えてこう言った。
「あの国を放置すれば、また同じことが起きます」
「決然たる対応こそが、真の平和をもたらすのです」
それはいつか聞いた理屈だった。
シュナイダーが戴冠式で叫んだあの理屈。憎しみは国境を越え、まったく同じ形をして伝わっていた。
地方のある家では、初老の夫婦がその報道を見ていた。
「……稜たち、また行くのかしら」
母親が呟いた。
「もう戦争は終わったって、言ってたのに」
父親は答えなかった。
ただテレビの中で、こぶしを突き上げる群衆を複雑な目で見ていた。
あの群衆は報復を望んでいる。だがその報復を実際にその手で行うのは、自分の息子のような若者だった。
国民の大多数は、路上のあの染みを見て見ぬふりをした。
あるいは胸のすく思いで眺めていた。
憎しみは楽だったからだ。
遠野があの車列の前で気づいた、あの楽な感情。今や一億の胸の内を覆っていた。
その夜 午後八時
日本国首都東京 首相官邸
すべてのテレビ局が通常の番組を中断し、政府の緊急速報を流していた。
画面に内閣総理大臣・国原建人の姿が映し出された。背後には日の丸の旗が半旗で掲げられている。表情は硬く、そして揺るぎなかった。
「国民の皆さん」
国原の声が全国の茶の間に流れた。
これから伝えられる彼の演説は、日本の諜報機関によって他の国のラジオや魔導伝聞などに対して電波ジャックで強制的に流される事になる。
「二年前。我が国は国土ごと、この見知らぬ世界へ投げ出されました。我々はただ生き延びることを、そしてこの世界の隣人たちと共に在ることを望みました。だからこそ我々は、真っ先に対話の努力をしたのです。武力ではなく言葉を選んだ。その手がどう報われたか。皆さんはご存じのはずだ」
彼は一拍置いた。
「我々の使節は蛮族と嘲られ、臣従を強いられた。我々はこれを当然の如く拒んだ。その結果、斉藤外務大臣は衆人の面前で生きたまま火炙りにされた。対話を望んだ者が、対話ゆえに殺された。それがこの世界の、我々への最初の答えでした」
国民は国原の言葉を改めて噛み締め、忘れかけていたあの出来事を思い出す。斉藤の遺影が脳裏をよぎった者もいただろう。
「あの日からこの二年。皆さんは耐えてこられた。食料の配給を、物資の不足を、見知らぬ空の下での絶えざる不安を。私は総理大臣として、そのすべてをこの胸に刻んでおります。皆さんがどれほどの忍耐をもってして、この未曾有の国難を支えてこられたか。だからこそ私は、皆さんに二度と無用の犠牲を強いたくはない。皆さんの忍耐に報いる唯一の道は……我々を脅かす者を、我々の隣から永久に取り除くこと。それ以外にないのです」
国原は続ける。
「我々は今までかろうじて、報復に溺れはしなかった。しかし半年前、隣国ハルゲニアは宣戦布告もなく我が国境を越え、日本人を殺した。我々の忍耐は無意味だった」
画面の中の国原は、まっすぐカメラを見た。
「そのうえで我々は、ハルゲニアに先の卑劣な軍事侵攻への責任を問いました。正規軍が越境したその責任を。我々は粘り強く誠実に、半年にわたり交渉を続けた。……にもかかわらず、我が国は裏切られた。ハルゲニアは責任を認めず、謝罪を拒み、はぐらかし続けた。……誠に遺憾である」
遺憾。その一言に万感が込められているかのように、国原は目を伏せた。
「国民の皆さん。私は皆さんに問いたい。あの国がいつでも軍を起こし、我が国境へ投げつけられる。その状態が続く限り、我々の子供たちは安心して眠れるでしょうか。次の侵攻に怯えずに暮らせるでしょうか。否、それはあり得ない。我々が我々の平和と未来をこの手で守るためには、この脅威の根本を絶たねばならない」
彼は声を強めた。
「よって我が国は、ハルゲニアに対し次の三つを要求する。
一つ。ハルゲニアの完全なる非軍事化。二度と我が国へ軍を向けられぬようにする。
二つ。我が国による旧シエスタルの実効支配の正式な承認。あの地はもはや我々の生命線である。
三つ。殺された我が同胞への謝罪と賠償の完全な履行。文明国として当然である。
──以上」
画面の向こうで国民は、彼の告げたハルゲニアへの要求を息を呑んで聞いていた。
「これらの要求を過大だと言う者がいるかもしれない。だが考えていただきたい。我々はこの世界に同盟国を持たない。頼れる隣人を持たない。国ごと、たった独りでこの見知らぬ地に落とされた。誰も我々を守ってはくれない。国際社会も条約も、後ろ盾は何一つない。ならば我々は、我々自身の手で、我々を守る力を持つよりほかにない。武装を解くべきは、二度も我々に牙を剥いたこの世界であって、断じて我が国ではない。丸腰の優しさが、この世界でどう報われるか。我々は斉藤大臣の死をもってすでに学んだのです」
国原の声は静かだった。
だがその静けさが、かえって凄みを帯びていた。
「私はこの二年、幾度も自らに問うてきた。我々は平和を愛する国であった。二度と軍国の国には戻るまいと誓った国であった。その誓いを、私はいま破ろうとしている。その重さから、私は目を逸らしません。だが誓いを守るだけでは、餓え、凍え、蹂躙され、滅ぶことになります。それがはたして先人への誠実さでありましょうか。国が滅べば、誓いを守る者もいなくなる。まず生き延びること。生き延びてなお人であろうと努めること。それがいま、私にできる精一杯の誠実さです」
国原の声が静かに、しかし決定的に響いた。
「我々はすでに、これらの正当な要求を、現在のハルゲニア政府が約束する意思も、能力も、持たないと判断した。ならば言葉はもはや無力である。よって我が国の要求を守らせるべく、私は本日、自衛隊に対し『特殊な事案の作戦』を開始するよう通達した」
特殊事案作戦。
それが侵攻の婉曲な名であることを、日本人の多くはまだ気づかなかった。
戦争とは、国原は一度も口にしなかった。侵略とも進攻とも言わない。ただ『事案』、すなわち処理すべき案件であるかのように言った。
「誤解のなきよう。我々はハルゲニアの土地を、その民を征服することを望んではいない」
それは、この夜の最大の嘘だった。
「我々の敵は、ハルゲニアの民ではない。我々を裏切ったその政権である。我々はただ、我が国の安全と、死者への正義を求めているにすぎない」
そして国原は、放送されているであろうこの世界のすべての国に向けてこう告げた。
「最後に。この作戦に干渉し、あるいは裏切り者に加担しようとするいかなる国に対し、私は警告する。国ごとこの異界に独り落とされた我が国が、いかなる覚悟といかなる力を持つに至ったか。諸君はすでにシエスタルで見たはずだ。試さぬが賢明である」
それは脅しだった。
この世界のどの国も、まだ味わったことのないタイプの脅しだった。
「これまで犠牲になったすべての日本人に、私は誓う。諸君の犠牲を、決して無駄にはしない。この国は生き延びる。生き延びるためにいかなる手段も行使する。我々は必要なら厄災にだってなる」
国原は深く頭を下げた。
「我々に選択の余地はなかった、ただそれだけです。……以上。国民の皆さん、おやすみなさい」
画面が暗転した。
同時刻
旧シエスタル 東部国境
その演説が流れていた、まさにその時。
この半年、ずっと待機し続けた自衛隊の各師団は、戦闘準備を整えていた。
増強されたのも含め、投入されるのは八個師団、約十万人。この半年で増強に増強を重ねた、日本が侵攻に使える総力だった。
これらの人員は、本土で始まった一部徴用自衛官制度により確保された。満20歳以上の次男を対象に義務付けられた、実質的な徴兵制度である。
そして今、自衛隊創設以来の大規模な侵攻作戦が始まろうとしていた。
機甲師団の戦車が地平を埋め、空中機動師団のヘリが夜空へ飛び上がる。
増強された無数の連隊戦闘団が、街道という街道を埋め尽くしている。
特科の砲列も、後方から身を乗り出していた。
地鳴りが大地を揺らしていた。
かつてシエスタルへ雪崩れ込んだ、あの日の比ではない。本当の鋼鉄の暴力である。
作戦はすでに始まっていた。
演説は通告ではなく、事後の飾りにすぎない。要求を突きつけ、返事を待つそぶりすらなかった。突きつけたその瞬間に、自衛隊は動き出す手筈だった。
遠野稜も、その越境する装甲車の中にいた。
半年前、彼はこの線の手前に立っていた。そして今、今度は日本はがみずからこの線を踏み越え、踏み出した。
防衛から侵略へ。
追い出す側から、攻め込む側へ。
装甲車の銃眼から、遠野は越えていく国境線を見た。
標識も柵も何もなかった。ただのなだらかな稜線。
だがその一線を越えた瞬間、日本はシエスタルを滅ぼしたあの災厄を繰り返す事になっていた。
「三曹」
若い隊員が硬い声で言った。
「これ……侵攻、ですよね。俺たちがしてるのって、結局──」
「……特殊な事案の作戦、だとよ」
遠野は乾いた声で答えた。
「そう呼ぶことになってる。発言には気を付けろ」
「事案って……」
「言葉なんてそんなもんだ」
遠野は暗いハルゲニアの地平を見た。
「これから人を殺すのだって事案だ。そう考えれば楽になるだろ」
若い隊員はそれきり黙ってしまった。
遠野はそれを尻目に、超えていく国境線の様子をまた見ていた。
同時刻
ハルゲニア王国 王都マルグリース
屋敷に蟄居していたセシリア・コルネットは、その夜に魔導ラジオを通じて伝わってきた報せを窓辺で聞いていた。
日本がハルゲニアに最後通牒を突きつけ、回答する間もなく国境を越えた、と。
「……始まってしまいました」
傍らでマリアが青ざめて呟いた。
セシリアは答えなかった。ただ西の闇を真っ直ぐ見つめていた。
彼女があれほど恐れ、そして止められなかったその未来が、この国へ近づいてくる。
「もしも私が、あの時王になっていれば」
セシリアは呟いた。
「何か、違ったのかしら」
「セシリア様のせいではありません」
マリアが首を振った。
「あなた様はできることをすべてなさった。追い詰められ切り捨てられても、なお」
「そうね。でも──」
セシリアは力なく笑った。
「避けようと思えば避けられたと、私は思うわ」
セシリアは静かに続けた。
「マリア。……私、あの難民の子に言ったの。覚えてる? 帰れるようにする、って。……できる限りそうする、って」
「……はい」
「約束は、守れなかった」
セシリアの声が震えた。
「あの子も、この国も、何も。……あの子は今、どこにいるのかしら。故郷に帰れたのかしら。それとも、あの麦畑ごと……」
その先を、彼女は言わなかった。言えなかった。
西の空が、遠く、赤く、染まり始めていた。それが朝焼けにやるものではなく、日本の特殊な事案の作戦によるものだと理解していた。
この世界が、日本という災厄の本当の姿を知る。
その長い夜が、ようやく幕を開けたのだった。




