第二十話 鉄橋
奇襲から一時間後
日本国首都東京 首相官邸
首相官邸の危機管理センターに国原建人が駆け込んだのは、まだ夜も明けきらぬ時刻だった。
自宅から叩き起こされた閣僚たちが次々と集まってくる。誰の顔にも、まだ眠気が残っていた。
だが正面の大型スクリーンに映し出された地図を見て、その眠気は一瞬で吹き飛んだ。旧シエスタルの南東部の国境地帯。そこが一面、赤く染まっていた。
「状況を」
国原は席に着くなり言った。
「はい。まず一時間前、ハルゲニア王国が突如、宣戦布告なしに旧シエスタル領へ軍事侵攻を開始しました」
統合幕僚長の山田は、抑えた声で報告した。
「ハルゲニアで新王シュナイダーが即位してからわずか二時間後の行動です。在ハルゲニア駐在員の中村大使以下、大使館職員らは一時拘束された模様。現在も連絡が取れません」
「拘束……」
その言葉に、文部科学省の大臣が絶句した。
「先週まで通商条約の交渉をしていた相手だぞ」
「その交渉は罠だったのかもしれん」
篠森外相が、苦い顔で言った。
「あるいは、我々が難民問題であの国の穏健派を追い詰めすぎたか。……対話を説いていたコルネット卿は失脚している。その後選出されたのがこの強硬派の新国王です」
国原は目を閉じ、低く唸った。
対話を説く相手を追い詰め、消してしまったことを悔やんだ。その結果がこの戦争だとすれば、シエスタル戦役と立場が逆になっていた。
「軍事的な状況は」
国原は目を開けた。感傷は後にして、今は総理大臣としての職務を優先した。
「敵は推定二十万の大軍です」
防衛大臣の朝田が引き継いだ。
「魔法兵器である魔獣とゴーレムを主力に、軍に難民を随伴させ、国境全域から浸透してきています。狙いは……おそらくですが、我が方の分散した拠点に対する浸透攻撃です」
「難民が、随伴?」
国原の眉が寄った。
「盾にしているのか?」
「随伴しているだけです。彼らはおそらく、こちらの常識で言う義勇兵のようなものでしょう。しかしハルゲニアにとっては都合がいい駒です。撃てば撃つほど大義名分はあちらに発生する」
朝田は頷いた。
「ですが撃たねば、盾の後ろの魔獣とゴーレムに前線を食い荒らされます。自衛隊の指揮官は極めて苦しい判断を強いられています」
その言葉に、危機管理センターは重く沈んだ。
確かに難民はもはや撃つしかない。しかしそうすればするほど、ハルゲニアを含めたこの世界の住民は日本を悪魔と認識する。
日本はふざけた選択を強いられていた。
「統幕長」
国原は山田に問うた。
「どう反撃する?」
「即座に部隊を動かします」
山田は、即答した。
「まず負けません。前方の各連隊戦闘団が要所で敵の浸透を食い止めているうちに、北から第七師団と第十二師団、それから先日配備された第五師団、第八師団を投入します」
「四個師団による反撃か」
「はい。四個師団の投入により、敵軍を国境線まで押し返すことは可能です」
「何日で達成できる?」
「五日、いえ……三日で終わらせます。敵には対応する暇すら与えません」
その語気の強い言葉に、国原はしばらく黙って考えた。
山田統幕長は内心、このふざけた攻撃に怒りを抱いているようだった。どのみち反撃は必須である。
国原はしばらく考え、静かに決断を口にした。
「……四個師団の投入を承認する。孤立した前線部隊の救出を最優先とせよ。空自、海自にも支援を」
朝田は頷いた。
「ただし統幕長、それから朝田も。いいか、よく聞け。進撃は国境線までにしろ。下手に戦線を広げれば薄い戦線はさらに悪化する」
「……分かりました」
それは自衛隊員だけでなく、日本に対しても後の脅威を残す選択だった。
国原はそれをわかっていたが、わかった上でそう命じた。なぜなら今の日本にハルゲニアに逆侵攻する用意はないからだ。
下手にそうすれば、いくら自衛隊といえども補給が続かない。今は自衛に止めるべきだった。
その当時の東京の空は、鉛色の雲に覆われていた。
雨がしとしとと、その黒い雲から降り注いでいた。
越境から三時間後
旧シエスタル西部 航空自衛隊前進飛行場
一等空尉、真壁が跨るF-2支援戦闘機は、朝の光を弾いて滑走路を蹴った。
機体には爆弾とロケット弾ポッドが吊り下げられている。任務は近接航空支援。国境近くで孤立した地上部隊への火力の提供だった。
真壁はこの異界に来てから幾度も地面の標的を撃ってきた。だがそれに慣れることはなかった。
管制からの誘導に従い、真壁の編隊は目標空域へ突入した。
眼下に、それはあった。
鉄道集積地であるアリブルクへ続く鉄橋。
その向こう岸に、地を埋め尽くす敵の大軍が押し寄せていた。
石の巨人が大地を踏み鳴らして進み、牙を剥いた獣の群れが砂塵を上げて駆けている。
その光景は、真壁が子供の頃に読んだ絵本の中の魔王軍のようだった。
しかしその絵本の軍勢を食い止めていたのは、同じ自衛官だった。
「目標、確認」
真壁は無線に告げた。
なるべく声を平坦に保つ。
「橋の対岸の敵戦闘部隊へスモーク確認。攻撃する!」
F-2戦闘機の編隊は、彼らの上空をフライパスした。
無誘導爆弾の雨霰が、束になって敵の突撃部隊へ殺到する。
閃光と爆炎が、明け方の空からでも確認できた。
石の巨人が内側から砕け、砂の柱になって崩れ落ちる。
魔獣の群れが爆風によってまとめて薙ぎ倒される。空からの一方的な蹂躙だった。彼らは、空を見上げることしかできない。
杖を空へ向けて魔法を放つ者もいたが、時速数百キロで駆け抜ける鋼の翼に、その光はかすりもしなかった。
真壁は武装を補給するため、Uターンした。
その時、橋の袂の味方の陣地が、確かに息を吹き返していくのを見た。
それを見て真壁は、わずかに安堵した。
攻撃を終えて機首を返しながら、真壁はふと川の上流に目をやった。
そこに奇妙な光が見えた気がした。
川の水面が白く光っていた。何かの魔法かに思えたが、真壁は任務を優先し、確認することを後回しにして帰投した。
同時刻
第25連隊戦闘団
「空自の航空支援だ!」
誰かが空を指さし、そう叫んだ。
その頭上を灰色の翼が駆け抜け、フライパス。その次の瞬間、対岸の敵の大軍が爆炎に呑まれた。
押し寄せていたゴーレムが砂に還り、魔獣が宙に舞って千切れた。
「航空支援、効果あり!」
「今だ! 孤立した前衛に火力を集中させろ!」
中隊長は必死に指揮を続けた。
今のところ、連隊戦闘団が勝っている。敵軍を何度も押し返していた。
敵の本隊が、鉄橋の対岸に、到達してから、数刻。遠野の中隊は四両の戦車と機関銃と迫撃砲で、その圧倒的な数を橋の一点に食い止めていた。
魔獣が橋へ殺到すれば、機関銃がなぎ倒す。ゴーレムが迫れば戦車がそれを砕く。
橋という狭い一点が、敵の数の利を封じていた。そこへ空からの支援が加わったことにより、対岸には敵の屍が積み上がっていた。
これは勝ち戦だ。
誰もがそう思った。これならこの橋を守り切れる、と思い始めていた。
だが。
「総員聞け! 撤退だ! 繰り返す、撤退!」
中隊長の声が無線から飛び込んできた。
緊迫した鋭い声だった。
遠野はその命令を聞いて、まず自身の耳を疑った。
なぜ撤退するのか。戦闘では有利なのに? 今対岸の敵は崩れかけている。追い討ちをかければ脅威は退けられるはずだった。
「なぜです! こっちは勝ってるじゃないですか!」
「そうです! なんで退くんですか!」
若い隊員たちがそう叫んだ。他の隊員たちも煮え切らない。まだやれる、なんなら勝てると思っていた。
しかしその答えは、無線で返ってきた。
「後方の陣地に敵の別動隊が現れた。現在特科隊が敵と接触、これと交戦中。背後を脅かされている!」
遠野はまだも耳を疑った。
その街道は味方の後方のはずだった。アリブルクへ続く、街道のはるか先だ。
そこにいつの間にか敵の姿があった。おそらく切り返し、こちらへ向かってくる。
「……一体どこから」
遠野は、呻いた。
「川だ!」
分隊長が上流を指さして叫んだ。
「川が凍ってやがる!」
遠野は指を指した方向を見た。
鉄橋の上流。日本軍が渡河点と定めた、この橋のはるか手前で、川の広い水面が真っ白に凍りついていた。
橋の何倍もの幅である。まるで巨大な氷の絨毯が、両岸を繋いでいるかのようだった。
おそらく敵軍はその凍った川の上を渡ったのだ。何百、何千と、徒歩でである。
魔法だった。
ハルゲニアの魔導師たちが力を合わせ、川そのものを凍らせたのだ。
そもそも魔法文明の軍隊に橋など要らなかった。彼らは橋を渡る必要がなかったのだ。
遠野たちがこの鉄橋というたった一つの点に必死にしがみついているあいだに、敵は川という川をまるごと道に変え、敵部隊を迂回して後方へ浸透していたのだ。
遠野は、全身から血の気が引くのを感じていた。
橋の上では勝っていた。一人の敵もこの橋を渡らせなかった。
だがそれは何の意味もなかった。敵は初めから橋を無視するつもりだったのだ。
このまま橋に留まれば、遠野たちの中隊は孤立し殲滅される。
「畜生……!」
遠野は拳で土嚢を叩いた。
撃っても撃っても、勝ってなどいなかった。
魔法というこちらの常識の外にある力の前では、勝利さえ意表を突かれる。遠野は鋼鉄の力を過信し、それを今になって初めて痛感したのだった。
「撤退! 全員装甲車へ! 負傷者を先に運べ! 急げ!」
中隊は奪ったばかりの陣地を捨てる事にした。
積み上げた土嚢と据えたばかりの機関銃を捨てる。負傷者を優先的に装甲車に乗せ、準備ができた班から続々と後方へと撤退していった。
包囲の輪が閉じる、その寸前を縫うかのように。彼らは急いだ。




