第十八話 越境
日本が転移してから一年と半年
ハルゲニア王国 王都マルグリース
選挙王政の玉座は、その日、シュナイダー・エル・ブランコのものになった。
セシリア・コルネットの失脚が、天秤を決定的に傾けた。
彼らが選んだのは、狼を討てと高らかに叫んだ若く美しい第一王子だった。貴族評議会の投票は、開票を待つまでもなかった。
「諸君。私は残念ながら、平和を約束できない」
戴冠の式典で、シュナイダーは簡潔に語った。
その言葉にざわめく大広間を、若き王は静かに見渡した。
「シエスタルは滅ぼされた。我が国のコルネット卿も、対話を望んだが嵌められた。対話とは、あの機械の民に対しては緩やかな服従の別名にすぎない」
王の声が、大理石の柱を伝って、隅々まで届いた。
「このまま手を拱いていれば、我らは次のシエスタルになるだろう。ならば、狼がまだ仔狼のうちに、これを討つ。それが、私が諸君に約束する唯一のことだ!」
大広間が、地鳴りのような歓声で揺れた。
その光景をセシリアは、末席から見ていた。ただ見ているだけだった。
候補を外された身に、式典を欠席する自由はなかった。彼女は義務としてそこにいた。
シュナイダーの言葉は雄弁だった。そしてある意味では間違ってはいなかった。
日本が月ごとに強くなること。対話が意味をなさないことを。
彼女自身がその対話の窓辺で追い詰められ、切り捨てられたのだからよくわかっていた
ただ、一つ。シュナイダーは日本軍の実力については語らなかった。
シエスタルの軍隊を破壊したという、未知の機械文明の兵器や武器に関しては、ハルゲニアにとってまだ分からない部分が多い。
だがそれを言う口は、彼女にはもう与えられていなかった。
歓呼する諸侯の海の中で、セシリアは一人、冷たい予感に震えていた。
「……止められないのですか」
隣でマリアが小さく呟いた。
かつて日本を最も嫌っていた娘の声に、憎悪はない。今彼女の中にあるのは、破滅の予感だった。
「セシリア様。彼奴は日本に勝てると本気で信じているのですか」
「信じているわ」
セシリアは、目を伏せた。
「信じているから、どうしようもないのよ」
シュナイダーの雄弁は、確信から来ていた。
そしてその確信の裏には、第二王子のクロヴィス・エル・ブランコが居た。
シュナイダーの母違いの弟であり、ハルゲニア王国の軍務を実質的に握る男だった。
母は違えど、兄弟仲は悪くない。それどころか二人は手を結んでいた。
兄が広間で民を熱狂させるあいだ、弟は地図の前にで計画を練っていた。派手さはない。愛想もない。だがこの王国の魔獣槽と、ゴーレム工房、国境の兵の配置をすべて頭に入れているのは、この男だった。
「兄さんが王に就いた。今日がその日だ」
クロヴィスは卓上の地図を見据え、自信を持ってそう言った。
「宣戦布告はしない。布告を出せば日本に備える時を与えてしまう。幸いにも奴らの兵は、シエスタル全土に薄く散らばっている。一点に集めれば手強いが、散らばった今なら奇襲で押し潰せる」
「奴らの増援は」
「配置からして集中させるのに数日はかかる。その数日で国境沿いの陣地を根こそぎ破壊する。孤立させ、囲み、浸透して殲滅する。増援が着く頃には、国境地帯は我らのものだ。既成事実さえ作れば、あとは外交で守り切れるさ」
周到だった。
兄の情熱と、弟の計算。この二つが噛み合ったとき、ハルゲニアの戦争機械は確実に動き始めていた。
ただ、その計画に異を唱えた者が居た。
「殿下。私は、反対です」
ある老将が、絞り出すように言った。
彼は独自に、シエスタル戦役の生き残りから話を聞いていたことがあり、日本軍の装備についても独自に調査させていた。
「シエスタルでは十二万の軍が、三万の日本兵を相手に十日で消えたのですぞ。鋼鉄の獣や奴らの銃も性能が高い。もし下手を打てば、シエスタルと同じ運命を──」
「我が国とシエスタルは違う」
クロヴィスが、静かに遮った。
「我らはシエスタルの五倍の国力を待つ。兵力もそれ相応に多い。しかも今回は奇襲だ。散らばった敵を各個に呑むだけ。同じ轍は、踏まない」
「それでも殿下。相手は、未知の──」
「では、老将軍」
シュナイダーが低い声で口を開いた。
その声は、広間で民を熱狂させたときとは違い、威圧が含まれていた。
「待てと言うのか。何もせず、我が国へ来る難民が、二十万から三十万、五十万と膨れ上がるのを、指をくわえて見ていろと?」
「それは…………」
「そうして手を拱いていれば、いつか気づけば、ハルゲニアの半分が日本の挑発対象になるだろう。その日を待てと言うのか」
老将軍は、答えられなかった。
「故郷を追われた難民に、帰る場所を返す。シエスタルを解放し、日本の圧政から民を救う。もうすでに外交は尽くした。しかし我らは裏切られた。これは、最終的解決策なのだ」
それは国を滅ぼす者の言葉だった。
老将軍は何も言い返すことができず、黙ったまま下がっていった。
その時、戴冠の鐘が鳴った。
その音を合図に、数か月をかけて準備された計画が一斉に動き出した。
その二時間後
王都マルグリース 日本大使館。
在ハルゲニア大使の中村は、日本大使館でその知らせを受けていた。
凶事の前触れがやってきたのは、凱旋式から一時間と少し後だった。
「大使。ハルゲニアの兵士が大使館を囲みました」
外を見ていた部下が、青ざめて駆け込んできた。
中村は、書きかけのメールから顔を上げた。
中村も窓の外を見る。古い宮殿の門の前に、槍を持った兵と二体の石のゴーレムが、静かにそこに立っていた。
日本側の警備員が拳銃を準備していたが、しばらくして、ハルゲニアの文官が慇懃に館へ入ってきた。
「ナカムラ大使。新王陛下の御名において以下をお伝えします。現在両国の関係が重大な局面を迎えたため、貴殿および館員の皆様の身の安全を、我が国が一時的にお預かりいたす。……ご協力を、願います」
丁寧な言葉で包まれた拘束だった。
中村は抵抗しなかった。抵抗が無意味であることを、彼は即座に理解した。
メールを書くのはすでに打ち切られていた。本国への通報は、これでは間に合わない。
狡猾だとセシリアに評された男が、その日初めて、自分たちが狡猾さで上を行かれたことを悟った。
対話の窓が閉じることは予期していた。
だがこれほど速く、これほど鮮やかに閉じられるとは中村の想定外だった。
凶事は、すでに始まっていた。
同じ頃
シエスタル=ハルゲニア国境地帯
夜明け前の暗い高原を、地鳴りが揺らしていた。
その先頭を進むのは、巨大な影だった。
石を積み上げて命を吹き込まれた、戦闘用のゴーレムだった。人の三倍はある体躯が、大地を踏みしめ、進んでいく。
その周りを、牙を剥いた魔獣の群れが地を這うように駆ける。
魔導師たちはその背に乗り、あるいは傍らを走り、術を紡いでいた。ハルゲニア軍の精鋭騎士団、総勢二十万人だった。
そしてその鋼と魔の軍勢の後ろには、難民たちがいた。
鍬を、斧を、杖を握りしめた、故郷を追われた難民達だった。その中にヴィムもいた。優しいだけだったあの農夫も、今は隊列の端を歩いていた。
胸の中には、たった一つの言葉があった。帰れる。帰れるのだ。あの鍵をかけた玄関へ。子供たちの帰る場所へ。ハルゲニアの若く美しい王が、それを取り戻してくれる。
難民たちは、涙を流しながら越えてはならない一線を越えていった。これは解放だと信じて。
その越境は、宣戦布告に値した。
国境を守っていた自衛隊の各警務隊は、完全な奇襲を受けた。
夜明け前の静かな警戒の中に、突如として地鳴りと、魔獣の咆哮と、無数の松明が、雪崩れのように越境してきたのだ。
「敵襲! 国境線より敵勢力多数!」
各地で無線が悲鳴のように飛び交う。
薄く広く展開していた警戒陣地は、その圧倒的な数の前に、たちまち各所で寸断された。
もちろん自衛隊は弱くはない。局地の戦闘では、彼らはハルゲニアの精鋭達を機関銃、迫撃砲などでなぎ倒す。
だが、今度は勝手が違った。
敵は正面から突撃してこなかった。
夜陰に紛れ、寸断された陣地の間を縫って後方に浸透した。
何より彼らの中に難民達が混じっていたことも、あの時の事件の再来を思わせ、指揮官に発砲を躊躇させてしまった。
そうして各地の陣地が孤立していく。
戦線は形を成さぬまま、後方に続々と浸透された地図の上には、自衛隊の孤立した点がいくつも取り残されてしまった。
こうして、溝は永遠に埋まらないものとなった。
解放の名の下に、日本にとっては二度目の戦争が始まった。
【お詫び】
今回から感想返信を見送らせていただきます。
またストックが枯渇したので、次章から更新ペースを落とします。




