第十六話 最初の血
日本が転移してから一年と二ヶ月
旧シエスタル領 南部のとある集落跡
あの時家に鍵をかけて出て行った一家の夫──名をヴィム──が故郷の村へ帰り着いたのは、家を捨ててから、ほぼ一年後の春だった。
日本とハルゲニアのあいだで通商協定が結ばれ、帰還事業が始まった。
希望するシエスタル人の帰郷が認められ、難民キャンプでその報せを聞いたとき、あの一家のヴィムは妻の手を握って泣いた。
あの日、財産のほとんどを馬車に積み、それでも「帰ってくるから」と言って玄関に鍵をかけた一家だ。あの鍵の意味が、ようやく報われる。そう思った。
だが、村へ続く街道の途中で、一家の馬車は止められた。
黒く塗り固められた広い道。
その脇に、有刺鉄線と見張り櫓と、日本語の看板が並んでいる。かつて麦畑だった場所に、巨大な鉄の塔と、煙を上げる建物が林立していた。
「立入禁止区域です。この先へは、行けません」
検問に立つ日本の自衛隊員が、翻訳機を通して平坦に告げた。悪意は感じられない。ただ規則を読み上げているだけだった。
「そこは、私の家です」
ヴィムは食い下がった。
「農場です! 家に鍵もかけてある! 中に家族の思い出が──」
「区域内の建物には、立ち入れません。補償の申請は、あちらの窓口で受け付けています」
補償。
ヴィムには、その言葉の意味がうまく呑み込めなかった。
要は金を払うから家を諦めろ、と言っているらしかった。帰ってきたのに、その帰る場所を金だけ諦めろと。
妻が櫓の向こうの、油の塔を見上げていた。あの塔の足元のどこかに、鍵をかけた玄関がまだあるはずだった。もう二度と開けられない玄関が。
一家は、その日も次の日も、区域の外れをさまよった。
似た者はいくらでもいた。帰還事業で戻ってきたのに、帰る場所を失った者たちは沢山いた。
村が油田になったとか、畑が駐屯地になったとか、街道の拡張で潰されたとか。誰もが、有刺鉄線の前で、途方に暮れていた。
帰る、という希望だけを頼りに耐えてきた者ほど深く崩れていた。
そんなヴィムに声をかけてきたのは、右腕のない男だった。
「よぉ。あんたも帰れなかったのか」
男は静かに言った。
年の頃はヴィムと変わらない。だが目の奥に、乾いた炎のようなものがあった。
日本人に危害を加えられた元軍人だと後で知った。名を、クルトといった。
「連中は、出ていかない」
クルトは、油の塔を顎で示した。
「話し合いで出ていくものか。あれを、見ろ。年単位で腰を据えるつもりだよ。あんたの村の上にな」
「…………」
「ハルゲニアの貴族は、日本と談笑して、帰還事業だと言って俺たちを故郷まで運んだ。運んだ先が、これだ。外交で、この塔が消えると思うか」
ヴィムは、答えられなかった。
「俺たちには、俺たちのやり方がある」
クルトは、残った左手を差し出した。
「故郷を取り戻したいなら来い。日本人をこの土地から追い出す。それしか道はない」
ヴィムは、生まれてこのかた、誰かを本気で憎んだことのない男だった。喧嘩も知らない。
魔法だって、畑の水撒きと、麦を病から守る程度のものしか使えない。そういう男だった。
だがその日、ヴィムはその手を握ってしまった。
三日後
同地の検問所
第2師団隷下 第25連隊戦闘団
遠野稜は、その朝リムイユ街道の検問所に立っていた。
シエスタルへ配属されて一年以上が経っている。
もっとも、今日の任務は訓練などではなく、人手不足の警務隊の仕事を代理で行うだけだった。
難民の帰還ルートに設けられた検問所で、行き交う者を確認するだけ。静かな警備だった。少なくとも、そのはずだ。
しかしその日の朝。もやの向こうから人の群れが現れたとき、遠野は最初、いつもの帰還者だと思った。
「……多いな」
隣で井上が呟いた。
「今日は、団体さんですか」
遠野も呟いた。
相手は数百人、荷も持たず、老人も子供も混じった、奇妙な行進だった。
遠野の背筋を、嫌なものが這った。抗議デモなのかと疑ったが、この群れは手ぶらだった。目的は、帰ることでも抗議することでもない。
「分隊長」
遠野は、無線に手をやった。
「規模が大きい。様子が、おかしいです」
群れは、検問所の前で止まった。
その途端、先頭の男が何か叫んだ。翻訳機が「日本人は出て行け」と叫んでいるのを翻訳した。
遠野は、わずかに緊張を緩めかけた。
ただの抗議活動だ。それなら対処できる。制止し、なだめ、押し返すだけだ。20式小銃を撃つ必要はない。
だが次の瞬間、群れの奥で、いくつもの光が膨れ上がった。
「魔法!」
誰かが叫んだのと、それが飛んでくるのが、同時だった。
炎の塊と風の刃が、検問所の防護壁へと殺到する。
フェルデン平原でシエスタルの魔導師が撃ってきたのと同じ光だった。
あのときは、10式戦車の装甲が焦げ跡ひとつで弾いた。だが今、遠野たちの前にあるのは、土嚢と生身の体だけ。無防備だった。
「伏せろ!」
遠野は、井上を突き飛ばして土嚢の陰に転がり込んだ。
頭上を熱が薙いだ。焦げた空気が、鼻を突いた。
「撃ち返せ! 応射──」
若い隊員が、20式小銃を構えかけた。
「撃つな!」
しかし分隊長の怒声が、無線と肉声で同時に飛んだ。
「難民が混じっている! 撃てば協定違反だ! 絶対に、撃つな! 威嚇のみ! 非致死装備で対応しろ!」
遠野は歯を食いしばった。
頭ではわかっていた。この群れの大半はただの難民だ。魔法を撃っているのは、その中の、ほんの一部。
だがこちらからでは、誰が魔法を撃っているのか見分けがつかない。もし撃てば、確実に帰還者を殺してしまう。
それが何を意味するのか、遠野には分かっていた。
撃てないまま、光は、降り続けた。
一部の隊員がゴム弾のショットガンを持ち出し、群れを押し返そうとする。
だが魔法の間合いは、こちらの非致死装備よりはるかに長かった。
撃ち手は、ただの難民の壁の後ろから悠々と火を放ってくる。壁の難民は逃げもせず、ただ憎悪の目でこちらを見ていた。
逃げられないのだ、と遠野は気づいた。盾にされ、動くこともできないのだと。
その時、難民の盾の後ろから、ひときわ大きな炎が膨れ上がった。
「井上!」
遠野が振り返ったとき、後輩は、土嚢から身を乗り出して、携帯放水銃を構えていた。
少しでも群れの中の子供を火から遠ざけようとしたのかもしれない。人懐こい、あの男らしかった。
その身体に、炎がまともに当たった。
園田の悲鳴は、短かった。
遠野は、迷わなかった。
土嚢を飛び越え、燃える後輩に飛びついて、彼が落とした放水銃の水飛沫を浴びせた。
焦げた匂い、井上の呻き声。彼の右半身がひどいことになっていた。だが、まだ生きている。
「衛生! 衛生を呼べ! 後送だ!」
叫びながら遠野は、自身の右手が小銃の握把を掴んでいることに気づいた。
撃てば届くだろう。撃てば他の隊員達をこれ以上危険に晒すこともなくなる。そう考え、指が自然と引き金にかかった。
「──遠野! 撃つなッ!」
分隊長の手が、彼の銃身を、上から押さえた。
「撃てば終わりだ。この国も、俺たちもだ」
「っ………」
「頼む、堪えてくれ」
遠野は堪えた。
燃えた後輩を抱えたまま、群れの向こうに居た右腕のない男を睨みつけたまま。
武装難民の攻撃は小一時間続き、やがて潮が引くように去っていった。
日本側はついに一発も致死弾を撃たなかった。それは命令を協定を守り抜いた結果だった。誇るべき、抑制だった。
だが検問所には、七人の重傷者が残った。井上を含む七人だった。全身に火傷を負ったり、ボディアーマーの隙間に氷が刺さっていたりしている。
その夜、後送された井上は一命は取り留めたが、右腕は肩から先がもう使えないだろうと告げられた。
右腕を失った男が、右腕が使えなくなった若者を生んだ。
憎しみが、ちょうど同じ形の傷を相手に刻んで渡していった。
遠野は、それを、静かに見ていた。
誰も、一発も撃ち返さなかったはずだった。
それでもこの日、確かに血が流れた。
もう後戻りのできない出血が。




