第十五話 塹壕と握手と
日本が転移してから一年と二ヶ月
旧シエスタル国内 陸上自衛隊 演習場
旧シエスタル国内に築かれた演習場に、春が来ていた。
掘り返された黒い土のあちこちから、名も知らぬ草が芽を出している。
三等陸曹・遠野稜は、掩体の縁に伏せたまま、その細い緑を見ていた。
ここは元々、誰かの畑だったはずだ。演習場の東の端には、朽ちかけた石積みの区画割りが残っていて、その並びは明らか麦畑か、あるいは葡萄畑のものだった。
今はその上に、掘り返した土で塹壕が縦横に走り、標的が立ち、砲弾の落ちた穴が点々と口を開けている。
誰かが代々耕してきた土地だった土地を、自衛隊は演習場に変えていた。理由は単純。国内より広い土地を接収できるからだった。
「遠野、ぼんやりするな。次はお前の班だ」
班長の声が、無線越しに飛んだ。遠野は緑から目を離し、配備されてばかりの20式小銃を握り直した。
半年前まで、彼の部隊は第25普通科連隊と呼ばれていたが、転移後の大規模改編でその名は消えた。
今は、『第25連隊戦闘団』と呼ばれている。
ただの歩兵の連隊ではない。戦車中隊と、特科の中隊と、偵察と施設の部隊を連隊そのものの中に組み込んだ、諸兵科連合の塊だった。
人手が足りぬこの世界で、少ない頭数を火力と機動で補うための新しい編成。今回の訓練は、再編に際しての部隊間連携を再構築する意味合いがあった。
演習場の後方には、新たに編成された特科や機甲科の面々が草木に隠れて並んでいる事だろう。
砲身を空へ向けた特科の99式自走榴弾砲。低くうずくまる10式戦車の列。装甲車の中では、隊員がドローンの機体を点検している。
かつての普通科連隊なら、こんな鉄の塊はいちいち師団に借りに行っていた。
それが今は、自分たちの連隊の手の内にある。頼もしいと言えば頼もしい。
だが遠野には、これらの改変が次に備えているかのように見えて、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
『偵察ドローン、上げます』
後方で、偵察の隊員がドローンを飛ばした。
低い羽音を立てて、四枚羽根の機体が上空へ滑り出す。数秒後、隣にいる分隊長の胸元のタブレットに、上からの映像が流れ込んできた。
敵役の"防御陣地"の塹壕線が、赤い枠で一つずつ囲まれていく。どこに機関銃座があり、どこが死角か。空の目が、すべてを見下ろしていた。
遠野の隣で、若い隊員が、生唾を飲む音を立てた。
新隊員の井上だった。まだ二十歳そこそこ。
転移後、規模の拡大にともなって募集が大幅に増え、こうした若い顔が次々と部隊へ入ってくるようになった。
井上はあの時の実戦を知らない。シエスタル戦役の頃は、まだ地球で高校を出たばかりだったそうだ。
その手が小銃の上で、細かく震えているのに気がついた。
「井上」
遠野は、低く声をかけた。
「俺から離れるな。俺の背中だけ見てろ。角は俺が先に切る。お前は、後ろを頼む」
「は、はい」
遠野は、自分で放った言葉がひどく偉そうに聞こえ、うんざりしていた。
かつて納屋で少女を撃ったあの日、震えていたのは遠野のほうだった。だが今は、震える新兵を落ち着かせる側に自分がいる。
その事実は遠野に複雑なものを感じさせた。慣れた、ということだ。人を撃つ稽古に、土地を奪う仕事に、この一年ですっかり慣れてしまった。
それは成長なのか。それとも何か大事なものを、削り落としたということなのか。遠野には分からなかった。
『戦車中隊、前へ!』
その時、地を揺らして戦車が来た。
二輌の10式が、待機する遠野たちの頭上を越える弾道で、標的の塹壕へ砲を叩き込む。
訓練弾でもその衝撃は腹の底に響いた。空砲が装填された機関銃が、赤枠のついた敵陣地を薙ぐ。
制圧射撃だ。
敵が頭を上げられぬうちに、遠野の班が動き出す。
一斉に19式装軌装甲車が駆け出し、10式に続く。装甲車に搭載されたRWSが制圧射撃に加わり、塹壕を完全に沈黙させる。
「ゴーゴーゴー!」
現場に到着すると、すぐに後部扉が開いた。
遠野たちは駆け出し、塹壕へ飛び込む。狭い閉所では20式の短い銃身は取り回しが良く、角という角の敵を排除していく。
さらに向かいの塹壕に向けて手榴弾を投げ込み、掃討を続けていく。かつて震えた手は、今は震えていなかった。
角の向こうに敵役の隊員がいれば、迷わず銃口を向け、判定装置を鳴らした。
体が、勝手に動いていた。半年の反復が、彼をそういう体に作り替えていた。井上は遠野の背にぴたりとついて、必死に後方を警戒している。
訓練は数時間続いた。いつの間にか演習場には白煙が立ち上り、訓練弾の薬莢があちこちに転がっていた。
訓練終了後、遠野はヘルメットを脱いで、ペットボトルの水を浴び、汗を流した。
「うまくなったな、お前」
そんな時、遠野の先任に当たる陸曹が、隣にやって来てそういった」
「……そうでしょうか?」
「そうさ。昔は塹壕に飛び込むたびに顔が真っ青だった」
「今は?」
「まるで戦闘マシーンだ」
褒めているのか、憐れんでいるのか、わからない口ぶりだった。
遠野は反応に困り、徐に土の中にあった古い葡萄棚の支柱を、無意識拾っていた。
表面が蔓の締めた痕で、螺旋にへこんでいる。誰かがこの土地で葡萄を育てていた痕跡だった。
その畑の上を、遠野たちは小銃を構えて駆けて抜けていた。
「先任。ひとつ、いいですか」
「なんだ」
「戦争は、もう終わったんですよね?」
遠野は、掘り返された黒い土を見た。
「誰を相手に、訓練してるんですか」
先任は、タバコの煙を長く吐いた。すぐには答えなかった。
「……お前、この世界に、魔法を使う国がいくつあると思う」
やがて、そう言った。
「シエスタルだけじゃない。もっと強力な魔法を操る国が、いくつかあるって話だ。おまけに俺たちが押さえたこの土地には油が眠ってる。飯も、油も、あらゆる資源をこの世界から引っこ抜いているわけだが……そういう国を前に、他の国が黙ってくれると思うか」
「……思いません」
「だろうな」
先任は、遠くの国境の方角へ、顎をしゃくった。
「南の国境の向こうにゃ、シエスタルから逃げた連難民がいるらしい。俺たちを恨んでる連中がな。この世界じゃ農民も魔法を使える。その気で束になったら、立派な兵隊さ」
「……」
「だから、稽古しとくのさ。終わった戦争の後始末じゃない。もう準備は始まっているのさ」
遠野は、手の中の支柱を見た。
この稽古が無駄に終わればいい、と。彼は心の底から思った。しかし心のどこかで、そうはならないだろうと感じてもいた。
同じ週
ハルゲニア王国 王都マルグリース 日本大使館
セシリア・コルネットは、幾度この部屋の扉をくぐっただろう。
半年は通い詰めた。難民には関与しない、我が国の責任ではない。
そう繰り返す日本側と、平行線の交渉を粘り強く続けてきた。だが今日、その線が初めて点として交わろうとしていた。
「──では、確認いたします」
日本大使のナカムラが、翻訳された条文を、一枚ずつ卓に並べた。
感情の読みにくい男だと思っていたが、今は心のうちの明るさを隠そうとしない。
「貴国は、我が国が必要とする食料を、段階的に目標量まで輸出する。我が国は対価として、農薬、化学肥料、農機、道路と水道の整備技術を提供する。ここまでは、暫定合意の通りです」
「ええ」
セシリアは頷いた。問題はその先だった。
ナカムラは、一枚の条文を、卓の中央へ滑らせた。
「貴国からの食料輸出が目標量に近づくのに応じて、我が国は、シエスタル南部三州における徴発率を、段階的に引き下げる。そして──」
セシリアは、その一行を目で追った。
何度も推敲を重ねさせた、この協定の心臓だった。
「──徴発の縮小によって余剰の生じたシエスタル南部の指定地域について、帰還を希望するシエスタル出身者の、監督付きの帰還事業を、両国共同で実施する」
帰還事業。
セシリアは、腹の底で静かに拳を握った。
ここまで本当に長かった。日本側は当初、頑として難民に触れなかったが、それが今、こうして「帰す」という一語を条文に刻み込んでくれた」
「ナカムラ大使」
セシリアは、あえて問うた。
「改めて日本側がこの条件を認めた理由について、確認のためお聞かせください」
ナカムラは、少しだけ、口の端を上げた。正直な男だった。
少なくとも、下手な嘘はつかない男だった。
「貴国からの食料が入れば、我が国もシエスタルから根こそぎ徴発する必要が薄れます。徴発が減れば、逃げ出す難民も減る。そうすれば反乱や国際問題も減る。我が国にとっても、割の合う話なのです」
人道ではなく、算盤だった。セシリアは、それをはっきりと理解した。
この帰還事業は、難民のためではないらしい。日本の占領を、より効率よく回すための、歯車の一つにすぎない。
どうやらあの少女の涙も、ヨハンたちの怒りも、この男の計算の中では、ただの数字だった。
だが、それでも──と、セシリアはここまでの苦労を振り返ってそう思った。
理由が算盤であろうと、結果として、帰れるようになるなら大賛成だった。
ここはもう動機の美しさを問うている場合ではない。今目の前で困窮している二十万人の難民の、その何割かでも救えるなら、悪魔の算盤でも乗る価値がある。
セシリアは、条文の一点を、指で押さえた。
「ひとつ、加えていただきたい。帰還した者の安全の保証を」
「安全、と申しますと」
「帰る先は、貴国の占領地です。帰った難民と貴国の兵とのあいだで、諍いが起きないとも限らない。帰還民に手荒な真似をしない。徴発の対象にまた戻さない。それを文書で約束していただきたいのです」
ナカムラは少し考えるふりをして、すぐに頷いた。あまりに、あっさりと。
「もちろんです。帰還民は貴重な市民です。手荒に扱う理由がありません。安全は保証します。文書にも、そう明記しましょう」
セシリアはその滑らかな返答に、ほんのわずかな引っかかりを覚えた。
だが、その正体を確かめる前に、安堵のほうが勝った。約束は取れた。文書にも残る。それでいい。
「……それで結構です。この帰還事業と安全保証の条項を含めて、通商協定を完全な合意といたしましょう」
「よろしいのですか」
「ええ。我が国の貴族会議には、私が通します。国王陛下の裁可も、いただいてまいります故」
「ありがとうございます」
ナカムラが、ゆっくりと立ち上がって、こちらに手を差し出した。
セシリアは、一瞬、その手を見た。シエスタルから食料を徴発し、長い間難民のことを無視し続けた国の大使の手だった。
マリアなら、握るのを拒むのだろうか。だがセシリアは、その手をしっかりと握り返した。
ここで握手をしなければ、何も始まらないのだから。
「よい協定になりました、コルネット卿」
「ええ。どうか、履行してくださいね。紙の上だけの合意なら、いくらでも書けます」
「……肝に銘じます」
そして──
協定の締結と帰還事業の開始は、数週間のうちに王国全土へ報じられた。
王都の広場では、布告が読み上げられる。シエスタル南部の一部地域へ、希望者は順次、監督のもとで帰還できる。
日本による徴発は、段階的に縮小される。ハルゲニアから食料が送られ、日本から農具が入る。長い冬が、ようやく終わろうとしていた。
その頃、王都の執務室で、セシリアは報告を読んでいた。
難民たちは知らせに歓喜し、支持率も回復し始めていた。
シュナイダーとの差も、縮まり始めていた。
すべてが正しい方向へ動き始めていた。
「やりましたね、セシリア様」
マリアが珍しく素直な声で言った。あれほど日本を嫌っていた彼女ですら、この結果には、頬を緩めていた。
「セシリア様は対話で、成し遂げたのです。血を、一滴も流さずに」
「……ええ」
セシリアは、窓の外の、暮れかけた王都を見た。
「そうね。本当にそう」
彼女はあの少女に交わした、頼りない約束を思い出していた。
できる限り、そうする。
あれを果たせるかもしれない。外交で食料を与え、仕事を与え、日本と交渉し、難民を故郷へ帰す第一歩が始まった。
時間はかかっても、必ずできる。
セシリアは、そう信じた。
信じて、いいのだと、思った。
しかしこの夜が、束の間の静かな春であることを。
協定書のインクが乾き切る前に、最悪のトラブルが起きることを。
彼女は、まだ、知らなかった。




