第十四話 難民の街
日本が転移してから一年と二か月
ハルゲニア王国南東部 シエスタル国境地帯 王立街道
王都マルグリースを発って三日目の昼過ぎ、セシリア・コルネットを乗せた馬車は、ようやく目的地へ続く街道へ入った。
窓の外には、冬を越えたばかりの薄茶色い畑が広がっている。本来ならこの地方は、春蒔きの準備で忙しくなる時期だった。
農民が畑を耕し、家畜を引いて種を運び、街道には各地から集まった商人の馬車が行き交う。
だが今年は違った。
「……またですね」
向かいに座ったマリアが、窓の外を見て呟いた。
街道の脇を、何十人もの人々が歩いている。
荷車を引く男。小さな子の手を握る母親。杖をついて歩く老人。背負えるだけの家財を括りつけた若者。
どれもハルゲニア人ではなかった。シエスタル人だった。
「これでも減ったそうよ」
「減った、これで?」
「一時期は、この道そのものが難民で埋まっていたんですって。今は新しく入ってくる者より、もう向こうで暮らしている者のほうが多いらしいわ」
セシリアは膝の上の資料を開いた。
国境地帯に滞留するシエスタル難民は、王国政府が把握しているだけで十八万七千人。
未登録の者を含めれば、二十万を越えているかもしれない。
もちろん一か所に集まっているわけではなかった。
最大規模のものだけでも五つ。ほかに小さな集落や農村へ勝手に住み着いた者もいる。
そのうち今日セシリアが向かうのは、国内最大の難民居住地──アルト村難民区だった。
「それにしても」
マリアが顔をしかめた。
「王位候補ともあろうセシリア様が、わざわざこのような場所まで足を運ぶ必要があるのでしょうか。王都から役人を派遣すれば済む話です」
「だから今まで、済まなかったのでしょう」
そう返され、マリアは口をつぐんだ。
セシリアはもう一度、資料へ目を落とした。シュナイダーとの討論会以来、自分を取り巻く状況は目に見えて悪くなっている。
日本との通商で利益を得た農村の諸侯は、今もセシリアを支持していた。だが都市部は違う。
とりわけ難民を直接受け入れていない地域では、シュナイダーの主張が急速に広まりつつある。
曰く、セシリアの意見は日本への譲歩。
曰く、売国的な通商。
曰く、シエスタル難民を押し付けられているのに、その日本へ食料を売る愚行。
腹立たしい。
だが反論するには、成果が要る。
だからセシリアは自らここに来たのだ。難民問題を解決するために。
少なくとも、解決へ向かっていると示す。それができれば、失った支持を取り戻せる。
「見えてきました」
御者の声。
セシリアは窓の外を見た。最初に目に入ったのは煙だった。
細い煙が幾筋も、地平から立ちのぼっている。やがて丘を越えると、その正体が見えた。
セシリアはその光景に、言葉を失った。
街だった。彼女が思い描いていた「難民キャンプ」とは、まるで違う。天幕が数十、多くて数百も張られている程度だろうと考えていた。
だが眼下には、粗末な木材と布と粘土で組まれた小屋が、果てしなく並んでいた。その間を細い道が走り、露店まで開かれている。
洗濯物、炊事の煙、子供たち、水を汲む女、荷を運ぶ男、家畜。そして人、人、人……
「……何人いるの」
「最新の報告では、六万四千人です」
マリアが答えた。
「……最初は、五千人ほどでしたが」
セシリアは息を吐いた。五千なら、一時避難民と呼べただろう。
だが六万を越えれば、それはもう一つの都市の規模だった。
「ようこそお越しくださいました、コルネット卿」
難民区の手前に建てられた地方政庁で、セシリアを迎えたのは、この地を治める地方貴族エドガー・フォン・アルト侯爵だった。
五十代半ば。白髪の混じった短い髪と、日に焼けた顔。
王都の貴族とは違い、装飾の少ない実用的な服を着ている。
彼の一族は代々この地方を治めてきたが、王都の政治へ積極的に関わることは少なかった。
そのアルト侯が、挨拶を済ませるなり言った。
「先に申し上げておきます。我が領だけでは、もう限界です」
世辞はなかった。セシリアも椅子に腰を下ろしながら頷いた。
「その話を聞くために来ました」
「ならば、話は早い」
アルト侯は机に何枚もの書類を広げた。
「昨年から、領内の穀物備蓄の二割以上を難民支援へ回しております。今年は王政府の補助も受けていますが、それでも足りません」
「日本との通商で入った収益を、追加の支援へ回す案を検討しています」
「金があっても、麦が突然生えるわけではありません」
「……そうね」
「問題は食料だけではありません」
アルト侯は指を一本ずつ折った。
「薪。水。住居。治安。医薬品。そして、仕事です」
「仕事?」
「六万もの人間を、ただ食わせ続けることはできません。働ける者には、周辺の農村で働いてもらっています。ですが、地元の農民から不満が出ている。シエスタル人は安い賃金でも働く。おかげで自分たちの仕事が奪われる、と」
「賃金を統一しては」
「そうすれば今度は、雇い主が難民を雇わなくなります」
セシリアは口を閉ざした。
「難しいわね」
「難しい、では済まないのです」
アルト侯の声は厳しかった。
だが敵意は感じない。ただ疲れているように感じる。
「近隣の村では、難民との喧嘩も増えました。家畜を盗んだ、薪を勝手に切った、井戸を使った。些細なことです。しかし些細なことほど積み重なるのです」
横で記録を取っていたマリアが口を挟んだ。
「では、難民区そのものを閉鎖し、別の地域へ分散させては」
「それも試しました」
「結果は」
「逃げて、戻ってきました」
マリアが眉をひそめた。
「なぜです」
「彼らは、国境から離れたくないのです」
アルト侯は窓の外へ目をやった。
その向こう、遠く北東。山を越えれば、シエスタルだった。
「故郷へ、帰るつもりだからです」
協議のあと、セシリアは難民区へ入った。
護衛を大勢連れて行くことには、彼女自身が反対した。威圧しては意味がない。
結局、同行するのはマリアとアルト侯、それに数人の護衛と地方役人だけになった。
「臭いますね」
マリアが小声で言った。
「言わないの」
「ですが」
「王都だって、下町へ行けば似たようなものよ」
とはいえ、環境が良いとは言えなかった。
排水の溝、簡易的な井戸、共同便所。最低限は整えられている。だが六万に対しては、到底足りていないように見えた。
そしてセシリアが細い道を歩いていると、あちこちから視線を感じた。
「貴族だ……」
「誰だ?」
「王都から来たらしい」
彼らの言葉の中には、あからさまな敵意もあった。
「ニホン人じゃない」
「ハルゲニア人か」
「どうせ、何もしてくれないさ」
聞こえている。セシリアは、あえて反応しなかった。
しばらく進むと、広場へ出た。長い列ができていた。
「配給です」
アルト侯が説明した。
大鍋から、薄いスープが配られている。パンと、乾いた豆のスープ、それだけだった。
列には老人が多い。働ける若者は、昼のあいだ外へ出ているらしい。
その途中、一人の少女と目が合った。
十歳にも満たない。腕に、小さな男の子を抱いている。
「あなた、ご両親は」
セシリアは尋ねた。
少女は、しばらく答えなかった。
「……お母さんは、ここにいる」
「お父さんは」
「シエスタル」
短い答えだった。
「まだ、向こうに」
少女は首を横に振った。
「ニホンの兵隊が来た時に、戦いに行った」
それ以上、聞く必要はなかった。セシリアは、少女の前にしゃがんだ。
「食べている?」
「うん」
「寒くない?」
「寒い」
「……そう」
何を言えばいい。わからなかった。
王都なら、いくらでも言葉が出た。相手の言葉を読み、反論し、条件を出す。
だがこの少女に「日本との通商が成立しました」などと言って何になる。
「セシリア様」
マリアが静かに呼んだ。先へ進め、という意味だった。
立ち上がろうとした時、少女が聞いた。
「……ねえ、貴族様」
セシリアの動きが、止まった。
「私たちいつ、帰れるの? お母さん、春になったら帰れるって言ってた」
春。もうすぐだ。
「向こうの兵隊さん、いなくなる?」
「それは……」
言葉が出なかった。日本軍は撤退しない。
少なくとも今の交渉では、その見込みはない。むしろシエスタルでは、日本人の入植と資源の開発が進んでいる。帰る故郷そのものが、日ごとに別のものへ変わりつつあった。
だからセシリアは、別の答えを選んだ。
「帰れるように、いま話し合っているわ」
「ほんと?」
「ええ」
少女の顔が、少し明るくなった。
「絶対?」
一瞬、迷った。
「……できる限り」
絶対とは、言わなかった。
それでも、自分が何かを約束してしまったような気がした。
その重みは、王都で交わすどんな条約の署名より、ずっと重かった。
難民区の中央に、以前は商人の倉庫だったという大きな建物があった。
今は難民たちの自治組織の集会所として使われている。そこでセシリアは、難民の代表者たちと会うことになった。
「我々が欲しいのは、粥ではありません」
最初にそう言ったのは、痩せた中年の男だった。
名はヨハン・ベルク。シエスタル南部で農地を持っていた、元地主だという。
「故郷へ帰る権利です」
「そのための交渉を、日本政府と進めています」
「ニホン人は、帰ると言いましたか」
「……いいえ」
「ならば、我々は帰れません」
セシリアは眉を寄せた。
「日本側は、希望するシエスタル人の帰還そのものを拒んではいません」
「違う」
ヨハンは首を振った。
「我々が帰りたいのは、日本に支配されたシエスタルではないんです」
後ろの者たちも頷いた。
「私の村では、ニホンの軍が穀物を持っていったぞ」
「兄が、日本軍との戦いで死んだの……」
「家に帰ったところで、また奪われるだけだ……」
「頼む……ニホン人を、追い出してくれ」
最後に誰かがそう言った瞬間、空気が変わった。
アルト侯の表情が険しくなった。
「それは、我が国に戦争を求めるという意味か」
「我々の国を、取り戻してほしいだけです」
「同じことだ」
「なら、我々は永遠にここで暮らせというのですか!」
男の一人が立ち上がった。
護衛が反応したのを、セシリアは手を上げて制した。
「座ってください」
「しかし!」
「あなた方が怒っていることは、わかっています」
「わかる?」
男が笑った。
「貴族様に、何がわかる!」
マリアの目つきが鋭くなった。だがセシリアは、何も言わなかった。
「家を失いましたか。父親を殺されましたか。麦を、持っていかれましたか」
「いいえ」
「なら、わからない!」
そうだ。わからない。セシリアは、それを認めた。
「……ええ。わからないわ」
男が黙った。
「あなた方と同じ経験を、私はしていない。それを分かるなんて言うほうが、嘘よ」
男の顔から、笑いが消えた。
「でも、ここに六万人がいることはわかる。ハルゲニア全体なら、二十万近い。食料も仕事も足りない。このままでは、あなた方も、この地方のハルゲニア人も、共倒れになる」
セシリアは、集まった人々を見渡した。
「だから、帰れる者から帰す。そのために日本との交渉を続ける。それと同時に、帰れない者には仕事を作ります」
「仕事?」
ヨハンが聞き返した。
「ええ」
セシリアはアルト侯へ目を向けた。
「侯爵。この辺りには、未開墾地が残っていたわね」
「ありますが……」
「王政府が借り上げます」
「まさか」
「難民を雇って、開墾するのよ」
アルト侯が目を見開いた。
「土地を、与えるおつもりですか」
「永住させるとは言っていない。帰るまでの間、自分たちで食べる分を作れる環境を、整えるだけよ」
「費用が莫大です」
「日本との通商で得た税収を充てるわ」
皮肉だった。日本との交易で得た金を、日本から逃げてきた者のために使うのだった。
「さらに、日本製の肥料と農機を、一部こちらへ回す」
マリアが驚いた。
「セシリア様、それでは反対派に──」
「言わせておけばいい」
「ですが!」
「難民を放置しているほうが、もっと支持を失うわ」
そして、何より、とセシリアは続けた。
「六万の人間がいて、全員がただ配給を待つしかない。その状態のほうが、ずっと危険よ」
アルト侯が、セシリアを見た。
その意味を、理解したようだった。仕事を失った若者。故郷へ帰れない元兵士。日本を憎む者。
彼らが何年もこの場所に留まり続ければ、いつか、何かが起きる。
「……分かりました」
アルト侯が頷いた。
「我が領からも、土地を提供しましょう。ただし、王政府から穀物と資金の追加支援をいただきたい」
「約束するわ」
「ならば、協力いたします」
ヨハンが、二人を見た。
「それで……我々は、帰れるのですか」
またその問いだった。セシリアは即座に答えた。
「帰還については、次の日本との会談で、正式な協議事項にします」
「いつ」
「来月」
「ニホンが拒否したら」
「その時は、次の方法を考える」
「その次も拒否したら」
「……考えるわ。考え続けるのよ」
苦しい答えだった。ヨハンはしばらくセシリアを見つめ、やがて小さく言った。
「分かりました」
そしてヨハンは、少し笑ってこう言った。
「……少なくとも、ここまで来た貴族は、あなたが初めてですよ」
夕方、地方政庁へ戻る途中、セシリアはもう一度難民区を歩いた。
夕飯の支度をする煙。遊ぶ子供たち。壊れた靴を直す老人。ごく普通の生活だった。
場所が違うだけだ。
「成果はありましたね」
マリアが言った。
「どうかしら」
「少なくとも、アルト侯の支持は得られます。周辺の諸侯にも波及するでしょう。難民の雇用政策が成功すれば、シュナイダー殿下への反論材料にもなります」
「あなた、結局は選挙のことばかりね」
「セシリア様が始めたことでしょう?」
「それは、そうだけど」
二人は、小さく笑った。
確かに初めに来たときは支持率の回復が目的だった。だが今は、少しだけ違う。
「マリア」
「はい」
「私、あの子に、帰れるようにするって言ったわ」
「外交官が、絶対などと言うものではありません」
「わかってるわ」
「なら、問題ありません」
「……そうね」
セシリアは、振り返った。
その方向に難民区が見える。この場所だけで、六万人。
自分が王になりたいとか、シュナイダーに負けたくないとか、そういうものとは無関係だった。
「何とかしないと」
「はい」
「本当に」
今度の声は、誰かに聞かせるためのものではなかった
その夜、地方政庁では、王都へ送る報告書がまとめられた。
未開墾地を利用した難民の雇用事業。共同農地の設置。衛生設備の増設。王政府からの食料追加支援。日本政府に対する、難民帰還交渉の正式要求。
さらに、難民の自治組織を王政府の監督下に置き、代表者との定期協議を実施することも盛り込まれた。セシリアにとっては、大きな前進だった。
数週間後、この視察と支援策は、王都でも報じられた。
『コルネット卿、自ら難民区を視察』
『地方諸侯と共同で、新たな難民就労政策』
『日本との帰還交渉へ』
農村部を中心に、評価する声が増えた。
一時は落ちていた支持も、少しずつ戻り始めた。セシリアは再び、シュナイダーとの差を縮めることに成功したのだ。
だからこそ、彼女は、自分の選択が正しかったのだと信じた。
外交で解決できる。食料を与え、仕事を与え、日本と交渉し、難民を故郷へ帰せばいい。
時間はかかっても、血を流さずに済む道はある。セシリアはそう信じた。
だがかつて、対話を信じて焼かれた男が、この世界のどこかにいたことをセシリアは知らない。
手を差し伸べた相手に、その手ごと焼かれた国があることを。
信じる。
ただそれだけのことが、この世界では時に、どれほど高くつくかを。
そして──同じ頃。
アルト村難民区の外れ。
王政府の役人も訪れない、一軒の小屋で、十数人の男たちが密かに集まっていた。
机の中央に広げられているのは、シエスタル南部の地図だった。
日本軍の基地、街道、挑発した食料の集積地、日本人の居住地。赤い印が、一つずつ、付けられていた。
「ハルゲニアの貴族は、ニホンと話し合うそうだ」
誰かが言った。
「話し合って、何になる」
別の男だった。
彼は手を怪我しており、まだ治っていない。日本人に銃で撃たれ右手がまだ動かせないのだ。
「奴らが、自分から出ていくと思うのか」
「……思わない──」
「なら」
男は地図の上へ、残った左手を置いた。
「俺たちが、追い出すしかない」
誰も、反対しなかった。
セシリアが難民区へ、希望を持ち込んだその日の夜。同じ場所で、別の希望が生まれ始めていた。
故郷へ帰るためには、日本人を追い出せばいい。
そんな、危険な希望が。




