第三十八話 サイン
国王から返事が来たのは、翌日の昼過ぎだった。
使いがヴォルフ侯爵からの書状を持ってきた。
「書面の内容を確認しました。修正が二点ありますが、基本的な合意は取れています。今日の夕方に会いませんか」
お父様がわたしに見せた。
「修正が二点でしゅか」
「どこを変えたいのか、会って確認する必要があるな」
「うん。でも、基本合意は取れているでしゅ。良かったでしゅ」
「ヴォルフ侯爵が内容を確認して、修正を提案してきた。これは中立的な立場として機能しているということだ」
「そうでしゅ。ヴォルフ侯爵を巻き込んだのは正解でしゅた」
夕方、ヴォルフ侯爵が王都邸に来た。
「書面を見ました。大変よくできています」
「ありがとうでしゅ」
「修正の一点目は、期限についてです。成人まで出仕を求めないという条項ですが、成人の定義を明記してほしいと陛下がおっしゃっています」
「何歳でしゅか」
「十八歳を提案しています」
「十六歳を希望しましゅ」
ヴォルフ侯爵が少し驚いた顔をした。
「なぜ十六歳ですか」
「十八歳では長すぎるでしゅ。十六歳なら、その時点でわたしが自分で判断できる年齢でしゅ。自分の意志で動けましゅ。十八歳まで完全に免除というのは、逆にこちらが動けない期間が長くなりすぎるでしゅ」
「……十六歳から、自分で判断できるということですか」
「はい。それまでは、お父様と一緒に判断するでしゅ。十六歳以降は、わたしが前面に出るでしゅ」
ヴォルフ侯爵がお父様を見た。お父様がうなずいた。
「……分かりました。十六歳で調整してみます」
「修正の二点目は何でしゅか」
「力の使い方は本人の意志に従うという条項ですが、緊急時の例外規定を入れてほしいと言っています」
「緊急時とは何でしゅか」
「国家の危機に当たる状況です」
「それは定義が曖昧でしゅ。誰が緊急時と判断するでしゅか」
「……国王が判断するということになるかと」
「それでは機能しないでしゅ。国王が緊急時と判断すれば、いつでも強制できるでしゅ。それなら条項の意味がないでしゅ」
「では、どうすれば」
「緊急時の判断には、ヴォルフ侯爵が同意することを条件にするでしゅ。一人の判断ではなく、二人の合意が必要にするでしゅ」
ヴォルフ侯爵がしばらく黙った。
「……私がその役割を担うことになりますが」
「はい。侯爵に、その責任を引き受けていただけましゅか」
「責任ある提案ですね」
「侯爵が関わることで、抑止力になるでしゅ。侯爵が簡単に同意しないことは、これまでの行動から分かるでしゅ」
ヴォルフ侯爵が少し笑った。
「……フィア様、あなたは私を信頼してくださっているのですか」
「はい。侯爵の行動を見て、信頼できると判断しましゅた」
「光栄です。……分かりました。その役割を引き受けましょう」
「ありがとうでしゅ」
お父様が言った。
「では、修正点を踏まえた最終書面を、明日作成します。それで構いませんか」
「はい。明日中にまとめれば、明後日に調印できます」
翌日、書面が完成した。
その日の夕方、王宮に向かった。
小さな部屋に、国王とヴォルフ侯爵、お父様とわたしが集まった。
書面が読み上げられた。
内容は全部、わたしが求めた通りだった。住まいはヴェルター家のまま。十六歳まで出仕は任意。力の使い方は本人の意志。緊急時はヴォルフ侯爵の同意が必要。書面はそれぞれが一通ずつ保管する。
「ヴェルター卿、サインをお願いします」
お父様が書面にサインした。
「フィア様も、印をお願いできますか」
わたしは小さな印鑑を渡された。
(わたしの印鑑でしゅか)
「これはフィア様用に用意しました」
わたしは印鑑を受け取った。手のひらに収まるくらいの小ささだ。
書面の指定された場所に、印を押した。
小さな印がついた。
これが、わたしの決断の形だ。
「ありがとうございます、フィア様」
「こちらこそでしゅ」
国王が書面を見た。
「フィア様、一つだけ」
「うん」
「この書面を作るのに、あなたが多く関わったと聞いています」
「はい」
「三歳で、よくここまで」
「前世のくせでしゅ」
「前世というのは、本当に気になりますね」
「いつかお話しできるかもしれないでしゅ」
「楽しみにしています」
調印が終わった。
書面を受け取ったお父様の顔が、久しぶりにすっきりしていた。眉間の皺が消えていた。
(胃への負担が、だいぶ軽減されたでしゅ)
わたしはそっとお父様の手を握った。
「お父様、おつかれさまでしゅ」
「……フィアこそ」
「うん。でも、終わったでしゅ」
「そうだな、終わった」
「帰りましゅか」
「ああ、帰ろう」
王都邸に戻って、荷物をまとめた。
翌朝、馬車に乗った。
門を出るとき、ジルが振り返って王都を見た。
「また来ることがあるでしょうか」
「あるかもしれないでしゅ。でも、次は条件が違うでしゅ」
「そうですね」
馬車が動き出した。
王都が遠ざかっていく。
ルードが言った。
「ティナに土産を買えたぞ」
「何を買いましゅたか」
「可愛い小さな水晶のやつ。王都でしか売っていないものだ」
「喜ぶでしゅね」
「そうだといいが」
お父様が窓の外を見ながら言った。
「フィア、よくやった」
「みんながいたでしゅ」
「それでも、お前がいなければこうはならなかった」
「お父様もでしゅ」
「お互い様だな」
「そうでしゅ」
馬車が街道に入った。
空が広くなった。
帰り道の方が、来た道より少し軽く感じた。
わたしはノートを開いた。
調印完了。書面一通受領。十六歳まで出仕任意。力の使い方はわたしが決める。ヴォルフ侯爵が調停役。
最後に一行足した。
終わったでしゅ。帰りましゅ。
それだけで十分だった。




