第三十七話 娘の選択
翌日の朝、アルフレッドは一人で書斎に座っていた。
まだ夜明け前だ。フィアもルードもジルも、まだ眠っている。
テーブルの上に、昨日の会議でまとめた書面の草案がある。ジルが先代の記録から引っ張ってきた事例を参考に、夜中かけて書いた。
内容は整っている。フィアが言った条件を全部盛り込んだ。ヴォルフ侯爵の調停条項も入れた。
でも、アルフレッドはまだ迷っていた。
フィアが生まれた日から、アルフレッドは一つのことを心がけてきた。
この子を守ること。
二百年前の子の話を知っていた。力を持つ子が連れ去られた話。先代から、その前の代から、ヴェルター家に伝わってきた警告。
だからこそ、フィアが生まれた日から隠してきた。
でも今、フィアは自分から動こうとしている。
登録を受ける。条件をつける。書面で縛る。それはフィアの判断だ。
アルフレッドには、その判断が間違っているとは思えない。論理的だ。準備されている。よく考えられている。
ただ一つだけ、引っかかることがある。
フィアはまだ三歳だ。
三歳の子どもに、こんなことを決めさせていいのか。
ジルが書斎に来た。
「旦那様、お早いですね」
「眠れなかった」
「昨日の会議のことですか」
「ああ」
ジルが椅子を引いて座った。主従というより、長年の付き合いの空気だ。
「フィア様の判断を、信じられないですか」
「信じている。でも……」
「でも?」
「これで本当によかったのか、と考えてしまう」
「どういう意味ですか」
「フィアは正しい判断をした。でも、三歳の子にこれだけの判断をさせた。そのことが、俺には引っかかる」
ジルがしばらく黙った。
「……旦那様、一つよろしいですか」
「なんだ」
「フィア様が、こういう判断をするようになったのは、誰のおかげだと思いますか」
「……俺が、守ってきたからかもしれないが」
「それだけではないと思います」
「どういうことだ」
「フィア様は、正直に言えば、普通の三歳より賢い子です。でも賢いだけでは、今日の判断はできません。家族がいる、守ってもらえる、信じてもらえる、その安心感があるから、判断できると思います」
「……」
「怖かったら、人は判断を避けます。逃げます。でもフィア様は逃げない。それは、怖いより安心が大きいからだと思います。その安心は、旦那様が作ったものです」
アルフレッドはしばらく黙った。
「……俺が作った、か」
「はい。フィア様が何度も言っていましたよね。お父様がいるから怖くない、と」
「そう言ってくれる」
「そして今、フィア様はそのお父様に、自分の判断を見せています。信じてほしい、と」
アルフレッドは窓の外を見た。
夜明けが近づいている。空が少しずつ明るくなっている。
「ジル、俺はずっと守ることしか考えてこなかった」
「はい」
「でも今日、フィアが言った。最終的にはお父様が決める、と」
「はい、そう言っていました」
「……俺に、決めてほしいんだな」
「そうだと思います。フィア様はご自分の意見を言いましたが、最後はお父様に任せた。それは、信頼してほしいということではなく、信頼している、ということだと思います」
「……フィアが俺を、信頼している」
「はい。旦那様が守ってくれると信じているから、自分から動ける。そういうことではないでしょうか」
アルフレッドは少し目を閉じた。
フィアが言った言葉を思い出した。
「お父様がいるから怖くないでしゅ」
「一緒に戦いましゅ」
「みんなでまもった方が、つよいでしゅ」
(この子は、最初からずっと、一緒にやろうとしていた)
守るだけでなく、一緒に。
それを、この三歳の子が教えてくれた。
「……分かった」
アルフレッドは草案を手に取った。
「フィアの判断を信じる。この書面で進める」
「よかったです」
「ただし、一つ変えたい」
「何を?」
「フィアの名前を書く欄に、俺の名前も入れる。ヴェルター家として登録する。フィア一人じゃなく、俺も一緒だということを明記したい」
ジルが少し目を細めた。
「……それは、良い変更だと思います」
「そうか」
「フィア様も、喜ぶと思います」
アルフレッドは草案に書き込みを加えた。
フィアの名前の隣に、自分の名前を書いた。
親として。当主として。そして、一緒に戦う人間として。
朝食の席で、フィアが起きてきた。
「おはようでしゅ」
「おはよう」
「お父様、もう起きていましゅたか」
「少し早く起きた」
「考えごとでしゅか」
「そうだ」
「何を考えていましゅたか」
アルフレッドは少し考えてから、正直に言った。
「お前の判断を信じていいか、考えていた」
「……結論はでましゅたか」
「出た」
「どちらでしゅか」
「信じる」
フィアがしばらくアルフレッドを見た。
「ありがとうでしゅ」
「礼を言うのはこちらだ」
「でも言いましゅ」
「……そうか」
アルフレッドは草案をフィアに渡した。
「書面を書き直した。見てくれるか」
フィアが受け取った。読んだ。ある部分で手が止まった。
「……お父様の名前が入っているでしゅ」
「ヴェルター家として登録するということにした。フィア一人ではなく、俺も一緒だ」
「でも、危険になるでしゅ」
「お前が危険な場所に一人で行くのに、父が後ろで見ていられるか」
フィアがしばらく黙った。
それから、少し顔が赤くなった。
「……ありがとうでしゅ」
「今度こそ礼はいらない」
「言いましゅ」
「そうか」
アルフレッドはパンを食べ始めた。
フィアも草案を持ったまま、パンを食べ始めた。
いつもの朝食の時間だ。
でも今日は、少し違う。
これからは、一緒に戦う。守るのではなく、一緒に。
フィアが三年かけて教えてくれたことが、ようやく本当に分かった気がした。




