第十八話 お父様、わたしは逃げません
鍵のかかった本を読んでから、三日が経った。
屋敷の空気が少し変わった。何かが変わった、というより、何かが軽くなった感じだ。
お父様は相変わらず書類を山積みにしているが、時々顔を上げてわたしを見て、小さく笑うようになった。ルードは訓練から帰ってきたとき、真っ先にわたしの部屋を確認するようになった。ジルはため息の回数が、今週から平均一回になった。
(全体的に、システムの安定度が上がっている)
前世でいえば、チームの方向性が揃ったときに出る、あの感覚に似ていた。全員が同じゴールに向かって動いている状態だ。
そんな中、お父様に呼ばれた。
書斎に入ると、珍しく書類が机の端に避けてあった。正面に椅子が置いてある。
「座れ」
「うん」
椅子に座ると、お父様が向かいに腰を下ろした。
「フィア、一つ話がある」
「うん」
「王都から、また連絡が来た」
(また来たか)
「グレンドル翁が、来月また来るそうだ。今度はもっと念入りに調べると言っている」
「そうでしゅか」
「前回より規模が大きくなる。屋敷全体を調べることになると思う」
(外部監査の強化だ)
「フィアを、どこかに移す選択肢も考えている」
わたしは少し考えた。
「うごかしましゅか。わたしを」
「ヴェルター家の別の家があるんだ。ここから馬で二日の場所に。そこに一時的に移れば、翁の調査から離れられる」
「うごくあいだ、お父様はここにいましゅか」
「そうだ。わたしはここで対応する」
「お父様ひとりでしゅか」
「ルードもいる。ジルもいる」
「わたしはいないでしゅ」
「……そうだ」
わたしはしばらく考えた。
「お父様」
「なんだ」
「わたし、にげましぇん」
お父様が少し固まった。
「フィア」
「にげるのは、いやでしゅ。お父様がここでたたかっているのに、わたしだけとおくにいくのは、いやでしゅ」
「でも、お前が見つかると」
「みつからないようにれんしゅうしましゅ。じぶんでせいぎょできますようになりましゅ。だから、にげましぇん」
「リスクがある」
「あります。でも、お父様ひとりにリスクをおわせるのも、いやでしゅ」
お父様はわたしを見た。
「……三歳が言う言葉じゃない」
「そうでしゅか。でも、これがわたしのきもちでしゅ」
「怖くないのか」
「こわくないでしゅ。みんながいましゅから。それに」
「それに?」
「にげたら、お父様がどうなったかわからなくなりましゅ。それがこわいでしゅ」
お父様が少し黙った。
「……逆の心配をしているのか」
「うん。お父様のほうが、たいへんでしゅ。だから、いっしょにいたいでしゅ」
お父様はしばらく何も言わなかった。
窓の外で、鳥が鳴いた。
「フィア、正直に言う」
「うん」
「お前を遠ざけたいのは、お前のためだけじゃない。俺が、お前の顔を見ていたい。何かあったとき、すぐに確認したい。遠ざけると、それができなくなる。俺の都合もある」
「そうでしゅか」
「だから、お前が残りたいと言うなら、俺も本当は嬉しい。でも、危険なことは事実だ」
「わかっていましゅ。でも」
「でも?」
「あのほんに、いっしょにがんばりましゅって書きましゅた。にげたら、やくそくがまもれないでしゅ」
お父様がわたしを見た。
何か言いかけて、止まった。
また何か言いかけて、また止まった。
それから、目が少し赤くなった。
(お父様が、泣きそうだ)
前世では、上司が泣きそうになるのを見たことがなかった。どんな状況でも、上司は平静を保っていた。
でもここでは、お父様が泣きそうになっている。
三歳の娘の言葉で。
「お父様、ないていいでしゅ」
「……泣かない」
「いいでしゅよ、ないても」
「泣かない」
「そうでしゅか」
わたしは椅子から降りて、お父様のところに歩いた。お父様がわたしを抱き上げた。
「……フィア」
「うん」
「ありがとう」
「うん。でも、ちゃんとせいぎょのれんしゅうをしましゅ。お父様に、めいわくをかけないように」
「迷惑じゃない」
「でも、かけないほうがいいでしゅ」
「……そうだな」
「それと」
「なんだ」
「こんどのちょうさのとき、わたしもちゃんとかくれましゅ。でも、おなじおやしきにいましゅ」
「……分かった」
「やくそくでしゅか」
「約束だ」
お父様の腕の中で、わたしはノートを頭の中でめくった。
今日決まったこと。移動はしない。来月の調査に向けて、制御の練習を強化する。同じ屋敷で、同じチームで対処する。
(プロジェクトの方針、確定だ)
前世でも、困難なプロジェクトほど、逃げないことが大事だった。逃げると、問題は消えない。そのうえ、一緒に戦う仲間を失う。
「お父様」
「なんだ」
「なかなかたいへんなプロジぇくとでしゅね」
「プロジェクト?」
「えっと、おしごとみたいなもの、でしゅ。まえのきおくのことばでしゅ」
「そうか。……確かに、大変なプロジェクトだな」
「でも、よいちーむでしゅ」
「チーム?」
「うん。お父様と、お兄様と、ジルと、わたしでしゅ。よいちーむでしゅ」
お父様が少し笑った。
「……そうだな。いいチームだ」
「ぜったい、うまくいきましゅ」
「根拠があるのか」
「あります」
「なんだ」
「よいちーむだからでしゅ」
お父様がまた笑った。今度は少し大きく。
書斎に笑い声が響いた。
(お父様が笑った。胃の負担が軽減されている)
わたしは密かにそう記録した。
窓の外で、午後の日差しが庭を照らしていた。
来月の調査まで、まだ時間がある。
(その間に、できる限り準備する)
前世でも、本番前の準備が全てだった。
今回も同じだ。
チームの力で、乗り越える。




