第十六話 妹はもう気づいている
ルードがフィアの部屋の前を通ったとき、中から父の声が聞こえた。
昔話をしている。
ルードは足を止めた。
二百年前の話だ。知っている。父から三年前に聞かされた。フィアが生まれた夜、父に書斎に呼ばれて、ヴェルター家の歴史と、二百年前の子の話を聞いた。
まさかフィアにも、こんなに早く話すとは思っていなかった。
(でも、フィアはもう気づいている)
ルードは扉の前で少し考えてから、廊下を歩き続けた。盗み聞きはしない。でも父がフィアに話してくれていることは、良いことだと思った。
自分の部屋に入って、窓の外を見た。
夕日が庭を染めている。
ルードはフィアのことを考えた。
最初に気づいたのは、一ヶ月ほど前だ。フィアが「ため息カウント」をしていることに。ジルがため息をつくたびに、フィアがわずかに目を動かすのを見ていた。
数えていた。
三歳が、ため息を数えていた。
次に気づいたのは、フィアが庭の魔力石に反応するお父様の動きを観察していることだ。お父様が魔力石を置いてから、フィアがそれをちらちらと確認するようになった。
そして図書室の一件。
踏み台を使って鍵のかかった本を見つけ、開けずに報告した。
(この子は、普通じゃない)
魔力が強いだけではない。頭も、普通じゃない。
三歳でここまで状況を把握できる子が、普通であるわけがない。
ルードは三年前を思い出した。
フィアが生まれた日の夜、父に呼ばれた。
「ルード、フィアを守る手伝いをしてほしい」
父はそう言った。
当時九歳だったルードには、全部は理解できなかった。でも一つだけ分かった。
この妹は、特別な子で、守らなければならない。
それだけで十分だった。
それから三年、ルードはフィアを観察してきた。守るためだ。どういう子か、何が危険か、何が必要か。
最初の一年は、フィアはただの赤ちゃんだった。魔力が漏れていることは分かったが、本人は何も分かっていなかった。
二年目から少し変わった。フィアが何かを考えるような目をするようになった。
三年目、すなわち今年。フィアの記憶が戻ったのは、たぶんこの頃だ。
(フィアには、何かがある)
三歳にしてはあり得ない観察力。論理的な思考。約束を守る誠実さ。
前世の記憶、という言葉をフィアが使うのを聞いたことがある。ジルも一度だけ、「大人の記憶があるのかもしれない」と言っていた。
ルードには確かめる方法がない。でも、そうだとしても驚かない気がした。
翌朝、ルードは朝食の席でフィアを観察した。
パンを食べながら、窓の外を見ている。何かを考えている顔だ。
「フィア、昨日は父と長く話していたな」
「うん。むかしばなしをきかせてもらいましゅた」
「どんな話だった」
「おとうさまが、おしえてよいといったらおしえましゅ」
ルードは少し驚いた。
「……父から許可を取ってから話す、ということか」
「うん。おとうさまのおはなしでしゅから」
「そうか」
(情報の扱いを、ちゃんと考えている)
普通の三歳なら、嬉しくて全部話してしまう。でもフィアは、話してもいいかどうかを判断してから話す。
「父には許可をもらったか」
「まだでしゅ。きょうきいてみましゅ」
「なら俺からも聞いてやろう」
「うん、おねがいしましゅ」
ルードは父に確認した。父は「フィアが話したければ、話してもいい」と言った。
昼食の後、フィアがルードに話してくれた。
二百年前の子の話。三つの条件。自由を失った子の話。
ルードが驚いたのは、内容ではなかった。
フィアが最後に言った言葉だった。
「だから、わたしはだいじょうぶでしゅ。みつがそろっていましゅから」
(制御、隠匿、守護の三つが揃っている、という意味だ)
父の話を聞いて、フィアが自分の状況に当てはめて、結論を出した。
三歳で。
「フィア、怖くないか」
「こわくないでしゅ。でも、れんしゅうをもっとがんばりましゅ」
「なぜ」
「はやくせいぎょできるようになれば、みんながしんぱいしなくてすみましゅ。お父様の胃も、もちましゅ」
ルードは笑った。
(この子は本当に、胃の心配をしている)
「お前が笑うたびに、父の胃が一回ずつ回復しているぞ」
「そうでしゅか。じゃあたくさんわらいましゅ」
「花も咲くが」
「…がんばってせいぎょしましゅ」
「頼む」
夕方、ルードは自分の部屋で今日のことを書き留めた。
父への報告書を毎週書くようにしていた。フィアの様子、魔力の状態、気になったこと。
今日は少し違うことを書いた。
「フィアは、もう全体像をほぼ把握しています。二百年前の話の意味も、自分の状況への当てはめも、正確です。三歳とは思えない理解力です。これは二つの意味を持つと思います。一つは、フィアに状況を詳しく話してもいい段階に来ているということ。もう一つは、フィアが一人で抱えている部分が大きいということです。守られるだけでなく、一緒に戦おうとしています。それが心配です。三歳に戦わせるのは、違う気がします。でも、フィアはそういう子です。止めるより、一緒に考える方がいいかもしれません」
書き終えてから、少し考えた。
「追記。フィアが今日、猫を見ても魔力を抑えられていました。制御の練習、着実に進んでいます。ジルのため息が今日は一回でした」
ため息の回数まで書いてから、ルードは少し笑った。
(いつの間にか、自分もため息を数えていた)
窓の外で、庭が夕闇に沈んでいく。
フィアの部屋の窓に明かりがついている。字の練習をしているのかもしれない。
(この妹を、ちゃんと守る)
でも今は、守るだけではなく、一緒に前に進む時期になってきた気がした。
フィアが戦おうとしているなら、隣に立てばいい。
それがルードの、今日出した結論だった。
明日も、フィアの隣に立とう。
それだけは、変わらない。




