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第十五話 お父様の昔話

 字の勉強が始まった。


 お父様が毎晩、寝る前に少しだけ教えてくれた。基本的な文字から、少しずつ難しい文字へ。わたしは前世の記憶があるので、文字の形を覚えること自体は難しくない。問題はこの世界の文字体系が前世の日本語とは全然違うことだ。一から覚え直しだ。


 でも、毎晩お父様と一緒に勉強する時間は悪くなかった。


 むしろ好きだった。


「これはなんと読みましゅか」


「『エルト』だ。風を意味する古い文字だ」


「かぜ、でしゅか」


「ヴェルター家の名前にも、この文字が入っている」


「そうでしゅか。しりましぇんでしゅた」


「フィアの名前の『フィア』は、古い言葉で『光』を意味する」


「わたしのなまえ、ひかりでしゅか」


「そうだ。お母様がつけてくれた」


 お母様の名前は、あまり聞いたことがなかった。写真のようなものが屋敷にあって、綺麗な人だとは知っていた。でも話題にはなりにくい。


「おかあさまは、どんなかたでしゅたか」


 お父様が少し止まった。


「……明るい人だった。フィアに少し似ている」


「そうでしゅか」


「笑うのが好きで、好奇心が強くて、何でも調べたがった」


「わたしも、しらべるのがすきでしゅ」


「そうだな。似ている」


 お父様が少し遠くを見た。


「お母様は、フィアのことをどうおもっていましゅたか」


「……大切にしていた。フィアが生まれた日、抱いて言っていた。この子は特別な光を持っている、と」


「だから、ひかりというなまえでしゅか」


「そうだ」


 わたしは少し考えた。


「おかあさまは、フィアのまほうのことを、しっていましゅたか」


「……生まれた日に、気づいていた。でも怖がらなかった」


「なぜでしゅか」


「この子なら大丈夫、と言っていた」


 (お母様も、信じてくれていた)


「おかあさまは、やさしいかたでしゅね」


「そうだ。……フィアは、お母様の分も明るく生きてくれ」


「うん。がんばりましゅ」


 勉強の時間が終わった。


 お父様が立ち上がりながら言った。


「フィア、明日は少し長く話せるか」


「うん」


「昔話をしてやろう。ヴェルター家の昔話だ」


「えほんでしゅか」


「絵本ではないが、話として聞けばいい」


「うん、たのしみでしゅ」


 (遠回しな情報開示が始まる予感がする)


 翌日の夕方、お父様がわたしの部屋に来た。


 書類は持っていない。椅子を引いて座った。わたしもベッドに腰をかけた。


「昔話をしよう」


「うん」


「むかし、この国にとても強い魔力を持つ子が生まれた。魔法使いの家の子だ」


「はい」


「その子は生まれたときから魔力が強くて、笑うと花が咲き、泣くと雨が降り、怒ると木が揺れた」


 (……これは、わたしの話をしているのでは)


「その子はどうなりましゅたか」


「王様がその子を連れてきなさいと言った。強い魔力は国のために使えると思ったから」


「つれていかれましゅたか」


「……ああ、連れていかれた」


 お父様の声が少し低くなった。


「その後は」


「王宮に住むことになった。でもその子は、自分では何も決められなかった。どこへ行くか、誰と話すか、何をするか、全部王様が決めた」


「じゆうがなかったでしゅか」


「そうだ。力はあった。でも自由はなかった」


 わたしは少し考えた。


「その子は、いまどうしていましゅか」


「……記録に残っていない。二百年前の話だから」


 (二百年前。ジルも言っていた数字だ)


「その子が、にひゃくねんまえのヴェルターけのひとでしゅか」


 お父様が少し止まった。


「……違う。別の家の子だ。でもヴェルター家の当主たちは、その話を代々伝えてきた」


「なぜでしゅか」


「同じことが起きたとき、どうするかを考えるために」


「おとうさまも、かんがえていましゅか」


「……ずっと考えていた」


「フィアが、うまれる前から、でしゅか」


「そうだ」


 わたしはお父様を見た。


 この人は、わたしが生まれる前から、こういう状況を恐れていた。だから準備をしていた。


「お父様、むかしばなしのつきは、どうすればよかったでしゅか」


「……自分の力を制御できていれば、連れていかれる理由がなかった。見つからなければ、連れていかれなかった。あるいは、守ってくれる人間がいれば」


「みっつでしゅね」


「そうだ」


「フィアは、れんしゅうしていましゅ。かくれていましゅ。まもってくれるひとがいましゅ」


 お父様がわたしを見た。


「……そうだな」


「だから、だいじょうぶでしゅ」


「フィアは、怖くないのか」


「こわくないでしゅ。でも」


「でも?」


「むかしばなしのこは、かなしかったとおもいましゅ。じゆうがなかったでしゅから」


「……そうだな」


「だから、はやくせいぎょできるようになりたいでしゅ。じゆうになりたいでしゅ」


 お父様はしばらく黙っていた。


 窓の外で夕日が沈んでいく。


「フィア」


「うん」


「今日の話、どこまで分かったか」


「むかしばなしのこは、にひゃくねんまえの話でしゅ。おなじようなことがフィアにもおこるかもしれないでしゅ。お父様は、それをふせごうとしていましゅ」


「……全部分かっているじゃないか」


「うん。でも、ちゃんとおはなししてくれて、うれしいでしゅ」


「怒らないのか」


「なぜおこりましゅか」


「隠していたから」


「まもるために、かくしていましゅた。おこるりゆうがないでしゅ」


 お父様がわたしを見た。


「……フィアは」


「うん」


「本当に、お母様に似ている」


 わたしは少し考えてから言った。


「おかあさまも、だいじょうぶっておっしゃっていましゅたよね」


「ああ」


「わたしも、だいじょうぶでしゅ。ぜったいに」


 お父様がわたしを抱き上げた。


 何も言わなかった。


 でも、震えていた。ほんの少しだけ。


 (この人は、ずっと一人で抱えてきた)


 わたしはお父様の肩に頭をもたせかけた。


「お父様、いっしょにがんばりましゅ」


「……ああ」


「もうひとりじゃないでしゅ」


 お父様がわたしの背中に手を回した。


 窓の外で、夜が始まっていた。


 庭の花が、月明かりの中で静かに光っていた。


 わたしは花を見ながら、今日の話を頭の中でまとめた。


 二百年前の子の話。自由がなかった。制御、隠匿、守護の三つが揃えば防げる。


 (案件の全体像が、見えてきた)


 あとは、もう一つだけ確認すれば、ほぼ全部分かる。


 鍵のかかった本の内容だ。


 でも、それはもう少し後でいい。


 今夜は、お父様の肩に頭をもたせかけたまま、静かにしていよう。


 それで十分だった。

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