第十一話 この子だけは渡さない
調査官たちが帰った後、ヴェルター家当主アルフレッドは書斎の椅子に深く座り込んだ。
外では使用人たちが後片付けをしている。馬車の音が遠ざかっていく。庭の噴水が静かに水を流している。
いつも通りの屋敷の音だ。
でも今日は、それが少しも落ち着かない。
アルフレッドは今日の来客の顔を頭の中で反芻した。
魔力省の高官、ベルナー卿。そして同行してきた老魔法師、グレンドル翁。
グレンドル翁は王国でも指折りの魔力鑑定師だ。その翁が、フィアの部屋の前で立ち止まった。
「この辺りで、魔力が強くなりますな」
あの言葉が頭から離れない。
気づいている。
まだフィアの存在を特定してはいないかもしれないが、この屋敷に何かがあることは感じ取っている。次に来たとき、フィアと鉢合わせしたら終わりだ。
(どうする)
アルフレッドは目を閉じた。
フィアが生まれた日のことを思い出した。
三年前、妻のエレナが出産した夜、産声を聞いた瞬間にアルフレッドは気づいた。
屋敷中の魔力石が、一斉に光った。
産声が響いた瞬間に。
その光は一秒で消えたが、アルフレッドにはそれで十分だった。
ジルがすぐに来た。
「旦那様、お気づきになりましたか」
「ああ」
「……覚悟を決めてください。この子は、二百年前の記録に匹敵する可能性があります」
アルフレッドは何も言えなかった。
抱かせてもらったフィアは、小さくて、柔らかくて、目をつぶっていた。
この子が、世界を動かすほどの力を持っている。
それがどれほどのことか、アルフレッドは知っていた。ヴェルター家の当主として、二百年前の記録を読んでいたから。
二百年前、同じような子が生まれた。ヴェルター家ではなく、別の家の子だったが。その子は三歳のときに王家に見つかり、連れ去られた。「保護」という名目で。
その後の記録はない。
(この子だけは、渡さない)
その夜、アルフレッドは決意した。
妻のエレナも、同じ目をしていた。何も言わなかったが、同じことを考えていると分かった。
今日、グレンドル翁が屋敷に来た。
予想はしていた。前回の来訪から三ヶ月。動きが早い。
翁がフィアの部屋の前で立ち止まったとき、アルフレッドは全力で平静を保った。
内側では、心臓が嘘をついていたが。
「お嬢さんも魔力をお持ちで」
「この家の者は皆、多少は持っております」
その言葉を言った瞬間、フィアがどうしているか気になった。部屋の中で、怖い思いをしていないか。泣いていないか。
でも翁の前で気にする素振りは見せられない。
その後、翁の反応が少し変わった。
わずかに首を傾けた。
「……ふむ」
何かを感じ取ろうとして、感じ取れなかった顔だ。
(何があった)
後で分かった。フィア自身が、魔力を抑えていたのだ。
ジルから報告を受けたとき、アルフレッドは言葉を失った。
「フィア様が、ご自分で魔力を制御なさいました。グレンドル翁が廊下を通ったとき、できる限り抑えるようにしてくださったと」
「……三歳が」
「はい」
「自分で判断して、やったのか」
「はい。廊下の声を聞いて、状況を把握されたようです」
アルフレッドはしばらく何も言えなかった。
三歳の娘が、状況を読んで、自分で魔力を制御して、グレンドル翁の感知を逃れた。
(この子は……)
守ってやらなければならない、と思っていた。でもフィアは、守られるだけでなく、一緒に戦おうとしている。
三歳で。
「ジル」
「はい」
「フィアに、今日のことをどう話した」
「ジルのため息が四回だったとおっしゃっていました」
「……そうか」
アルフレッドは少し笑った。
書斎で一人、笑った。久しぶりだった。
夕食の席で、フィアを見た。
いつも通りの顔だ。パンを食べながら、ルードと何か話している。
どこにでもいる三歳児に見える。
でもアルフレッドは知っている。あの小さな頭の中で、何かを考えていることを。観察していることを。記録していることを。
「お父様、きょうはおかおのいろがよいでしゅ」
フィアが言った。
「そうか」
「うん。きのうよりいいでしゅ」
「フィアのおかげかもしれないな」
「わたしのですか」
「ああ。フィアが頑張ってくれたから」
フィアは少し考えてから、首を傾けた。
「なにをがんばりましゅたか」
「……今日のことだ」
「まほうをちいさくしたことでしゅか」
「そうだ」
「きこえていましゅた。ろーかのこえが」
「聞こえていたのか」
「うん。あのひとが、まほうをさがしていましゅた。だから、かくしましゅた」
アルフレッドはフィアを見た。
三歳だ。三歳の子どもが、状況を判断して、自分でできることをやった。
「フィア、よくやってくれた」
「うん。でも、おとうさまもがんばりましゅたよね」
「俺が?」
「うん。かおがかわりましゅた。ぜんぶかくして、こたえていましゅた」
アルフレッドは言葉を探した。でも見つからなかった。
「……フィアは、よく見ているな」
「うん。しんぱいでしゅから」
「心配? 俺が?」
「うん。おとうさまが、たくさんかかえていましゅ。だから」
アルフレッドは、また笑った。
今度はフィアの前で。
「……そうか。ありがとう、フィア」
「うん。いっしょにがんばりましゅ」
三歳の娘が、そう言った。
アルフレッドはルードを見た。ルードも少し笑っていた。
(この子たちがいれば、なんとかなるかもしれない)
根拠はない。でも、そう思えた。
食事の後、アルフレッドは書斎に戻った。
今日のグレンドル翁の様子を書き留めた。次の来訪はいつか。何を調べようとしているのか。どこまで気づいているのか。
整理しながら、考えた。
(時間はある。でも、多くはない)
フィアが自分の力を制御できるようになるまでの時間。それを稼がなければならない。
でも今日、一つ分かったことがある。
フィアは一人で考えている。一人で判断している。一人で戦おうとしている。
(ならば、俺も一人で抱えなくていい)
アルフレッドはペンを置いた。
窓の外で、夜の庭が静かに広がっていた。
フィアが笑った日に咲いた花が、月明かりの中で白く光っていた。
(この子だけは、渡さない)
その決意は変わらない。
でも今は、少し違う気持ちも加わっていた。
(この子と一緒に、乗り越える)
それが今のアルフレッドの、正直な気持ちだった。




