第十話 王国の調査官
外出から三日後の朝、屋敷の空気がまた変わった。
朝食の前から、使用人たちの動きが速い。廊下を小走りで行き来している。ジルがわたしの支度を手伝いながら、普段より少しだけ手の動きが急いでいた。
(システム全体に負荷がかかっている状態だ)
前世でいえば、重要なクライアントの訪問前の空気だ。準備が慌ただしくて、全員が緊張している。
「ジル」
「はい」
「きょうは、おきゃくさまがきましゅか」
ジルの手が、一瞬止まった。
「……なぜそう思われましたか」
「みんなのうごきがはやいでしゅ。いつもとちがいましゅ」
ジルはわたしの髪を整えながら、しばらく黙っていた。
「……はい、今日はお客様がいらっしゃいます」
「まえにきたかたでしゅか。ぱっぱのもんしょうのかた」
「……よくご存じで」
「そうでしゅか」
(肯定した。つまり今日の来客は王家関係者だ)
「フィア様、今日はお部屋にいていただけますか」
「うん、わかりましゅ」
「お客様がいらっしゃる間は、廊下にも出ないでください」
「うん」
「もし何か聞こえても、部屋から出ないでください」
「うん」
ジルはわたしの目を見た。
「約束してください」
「やくそくしましゅ」
ジルは安堵したように息を吐いた。
「ありがとうございます」
(ただし、見ることは止められていない)
わたしはそっと付け加えた。心の中で。
午前中、わたしは部屋で待機した。
待機しながら、できることをした。
まず窓の位置を確認した。部屋の窓は庭に面しているが、角度によっては正面玄関の方向も少し見える。
次に、音を拾えるか試した。屋敷の構造上、一階の声は二階まで上がりにくい。でも廊下を通る足音は聞こえる。
(受動的なモニタリングは可能だ)
前世でもそういうことがあった。直接アクセスできないシステムでも、ログを見れば何が起きているか分かる。今回は音と窓からの視覚情報がログに相当する。
十時を過ぎた頃、正面玄関から馬車の音が聞こえた。
わたしは窓に近づいた。
見える範囲に、馬車が止まった。前回と同じ、剣と盾の紋章だ。今日は二台ある。前回より規模が大きい。
(エスカレーションだ。前回は偵察で、今回は本格的なアクセスか)
馬車から降りてきた人物は、三人だった。
一人は軍服のような服を着た中年の男性。もう一人は若い男性で、何かを抱えている。三人目は、濃い紫色のローブを着た老人だ。
(あの紫のローブの老人が気になる)
前世でいえば、技術責任者か専門家の雰囲気がある。ただその場にいるだけで、存在感が違う。
三人がお父様に出迎えられて、屋敷に入った。
お父様の表情が、見えた。
(……あれは、別人の顔だ)
いつもと全然違う。いつものお父様は、書類を読んでいるときは険しく、わたしと話すときは柔らかい。どちらでもない、別の表情をしていた。
完全に感情を消した顔だ。
前世でいえば、最悪の状況でも動揺を見せてはいけない場面でする顔だ。完全な防壁を張っている。
(これは本当に、重大な案件だ)
しばらくして、廊下に足音が聞こえた。
複数人。ゆっくりと歩いている。
(屋敷内を案内している)
わたしはドアのそばに行った。約束通り、出ない。でも聞く。
足音が近づいてきた。
止まった。
(……わたしの部屋の近くだ)
声が聞こえた。紫のローブの老人の声らしい、低い声だ。
「この辺りで、魔力が強くなりますな」
お父様の声。
「古い屋敷ですので、魔力が染み込んでいるのでしょう」
「なるほど。……ところで、ヴェルター卿、お子様は今日はおられますか」
「長男はおりますが、末の娘は体調が優れず、部屋で休んでおります」
「そうですか。……それは残念です」
(残念、という言葉に温度がない。本当に残念だとは思っていない。確認しようとしていた)
「何かご用でしたか」
「いいえ、たださきほどから魔力の反応が強くて、気になりましただけです。お嬢さんも魔力をお持ちで」
「この家の者は皆、多少は持っております」
「なるほど」
足音が遠ざかっていった。
(……わたしの存在を探っていた。魔力の強さに気づいている)
わたしは壁に背をつけて、少し考えた。
あの老人は魔力に敏感だ。わたしがこの部屋にいることも、もしかしたら感じ取っているかもしれない。
(制御が必要だ)
わたしは石を取り出した。練習用の魔力石だ。
一度止めた。呼吸を入れた。
できるだけ、魔力を体の内側に押し込むようにした。
(出力ゼロを目指す。今だけ)
難しかった。全部止めることはできないが、できる限り小さくした。
(これが精一杯だ)
来客は昼過ぎまでいた。
その間ずっと、わたしは部屋で待機した。
魔力を抑えながら。ノートに記録を書きながら。
来客が帰る音が聞こえた。馬車の音。門の開閉音。
しばらくして、ジルが来た。
「フィア様、よく待っていてくださいました」
「うん。かえりましゅたか」
「はい、今しがた」
「おとうさまは、だいじょうぶでしゅか」
「……少し疲れているようですが、問題ありません」
「そうでしゅか」
わたしは少し間を置いてから、ジルを見た。
「ジル、きこえてしまいましゅた」
「……どれくらい」
「ろうかのこえが、すこし。むらさきのろーぶのひとが、わたしのへやのそばで、まほうがつよいとおっしゃっていましゅた」
ジルは黙った。
「それと、わたしのことをきいていましゅた。おとうさまが、からだがわるいとおっしゃってくれましゅた」
「……そうですか」
「わたし、まほうをちいさくしましゅた。あのひとにきづかれないように」
ジルの目が、少し大きくなった。
「……自分で、魔力を抑えたのですか」
「うん。ぜんぶはむずかしかったでしゅが、できるかぎり」
「……それは、素晴らしいです、フィア様」
ジルの声が少し違った。いつもの穏やかさの中に、何か別のものが混じっていた。
「でも、きづかれましゅたか」
「……どうでしょう。部屋の存在には気づいたかもしれません。ただ、中に誰がいるかまでは分からなかったと思います」
「そうでしゅか」
「フィア様が魔力を抑えてくださったから、そうなったのだと思います」
(貢献が確認された)
練習の成果が、今日実際に役に立った。
「ジル、おとうさまに、あいたいでしゅ」
「今は少し休んでいただいています。夕食の時間には出てこられると思いますが」
「うん、まちましゅ」
「フィア様は、旦那様のことがとても好きですね」
「うん」
「なぜですか」
わたしは少し考えた。
「まもってくれているでしゅ。ぜんぶ、じぶんでかかえて」
「……はい」
「だから、すこしでも、てつだいたいでしゅ」
ジルはしばらく黙っていた。
「……フィア様は」
「うん」
「三歳にしては、背負いすぎています」
「そうでしゅか」
「でも」ジルが小さく笑った。「旦那様は、きっと喜ばれると思います」
「そうだといいでしゅ」
夕食の時間まで、まだ少しある。
わたしはノートを開いた。
今日の記録。来客二台。紫のローブの老人、魔力に敏感。わたしの存在を探った。魔力を自分で抑えることに成功。
最後に一行足した。
お父様は今日も、完璧な顔でわたしを守ってくれた。
そう書いてから、窓の外を見た。
夕日が庭を染めていた。
復旧した庭が、静かに光っていた。
(案件の核心に、近づいてきた)
まだ全部は分からない。でも輪郭は見えてきた。
もう少しだ。




