③ それぞれの得意分野
翌朝。
瑞穂学園高等部二年の教室は、始業前の穏やかな賑わいに包まれていた。
友人と談笑する生徒、机に突っ伏して眠る生徒、提出する課題を確認する生徒。
そんな中、八坂優は自分の席で英語の教科書と向き合っていた。
「……なあ、いなり」
「何?」
「英語ってさ、日本に住んでる限り、そんなに必要なくね?」
「必要だから授業があるんじゃないかな」
「日本語で十分だろ。神様だって日本語で喋るし」
「外国の神様は?」
「…………」
優は教科書を閉じかけた手を止めた。
「……通訳、頼めないかな」
「誰に?」
「スサノオ」
「無理じゃない?」
「だよなぁ」
あっさり諦めた優は、机に頬杖をついた。
その隣で、菅原亮太がノートを片づけながら笑う。
「お前、昨日も英語で悩んでなかったか?」
「悩んでるんじゃない。戦ってるんだ」
「勝率は?」
「聞くな」
「はいはい」
亮太は笑いながら鞄を閉じた。
優は勉強そのものが苦手なわけではない。
授業中はよく教師に注意されるし、課題も締め切りぎりぎりになることが多いが、試験の成績は大体真ん中あたりを維持している。
社会科、特に歴史は得意で、家庭科の成績もいい。
ただし、英語だけは別だった。
本人いわく、単語を覚えようとすると、なぜか頭の中から日本語まで逃げていくらしい。
「おはよう」
そこへ桜が登校してきた。
「あ、桜ちゃん! おはよう!」
「おはよう。昨日、部活の見学どうだった?」
近くの女子生徒たちに声をかけられ、桜は足を止めた。
「楽しかったよ。剣道部を見せてもらったの」
「へえ! 千穂のところ?」
「うん。それから月乃ちゃんに図書館も案内してもらったんだ」
「月乃、図書館に入ると長いでしょ?」
「ふふ。いろんなことを教えてもらえたよ」
「今度はうちの部活にも来てよ!」
「うん。ありがとう」
そんなやり取りを交わしてから、桜は自分の席へ向かった。
転入してまだ数日だが、教室で交わす挨拶も少しずつ増えている。
「おはよう、八坂くん。伏見くん、菅原くんも」
「おはよう、桜ちゃん」
「おはよー」
「おう。八重垣、お前って英語得意?」
挨拶もそこそこに尋ねてきた優に、桜は小さく首を傾げた。
「英語? うん、好きだよ」
「マジか」
「どうしたの?」
「いや、ちょっと単語が分かんなくてさ」
優が開いている教科書を、亮太が横から覗き込んだ。
「どれ?」
「ここ。昨日から覚えようとしてんだけど、どうにも頭に入らねぇ」
「それ、昨日の授業でやったところだろ」
「だから困ってんだよ」
桜は少し考えた。
「じゃあ、私が単語を言うから、八坂くんは意味を答えてみる?」
「お、いいのか?」
「うん。昨日の授業で習った単語なら、いくつか覚えてるよ」
「助かる!」
優が教科書を開き直す。
桜は最初の単語を、滑らかな発音で口にした。
「…………」
優の手が止まった。
「八坂くん?」
「……今、何て?」
桜はもう一度、同じ単語を発音した。
「…………」
優は教科書と桜を交互に見比べた。
「……なあ、亮太」
「何だよ」
「俺の教科書、間違ってねぇ?」
「何でそうなるんだよ」
「いや、だって! 今の発音、俺が知ってるやつと全然違うぞ!?」
亮太が吹き出した。
「お前が覚えてる読み方の方が怪しいだろ」
「失礼な!」
いなりが優の教科書に目を向ける。
「……優、その単語、昨日も読み方を間違えてたよね」
「覚えてたのかよ!」
「三回くらい同じ間違いしてたから」
「くっ……!」
桜はくすくす笑った。
「でも、意味は合ってるよ?」
「本当か!?」
「うん。発音を少し練習したら大丈夫だと思う」
「よし。じゃあ、もう一回頼む!」
桜がゆっくりと単語を発音し、優がそれを繰り返す。
今度は、さっきよりもずっと近い音になった。
「そうそう。今の、よかったよ」
「おおっ、できた!」
「……優って、褒められると分かりやすいよね」
いなりが呟く。
「うるせぇ。成長したんだからいいだろ」
「それはそうだね」
そこへ、予鈴が鳴った。
「あ、もう時間だ」
桜が言うと、優は名残惜しそうに教科書を閉じた。
「八重垣、ありがとな。助かった!」
「どういたしまして」
「これで次の小テストは何とかなりそうだ」
「意味もちゃんと覚えてね?」
「……努力する」
優の返事に、亮太が小さく笑った。
◇
三時間目は日本史だった。
教壇に立った教師は、黒板に大きく『平安時代の信仰と契約文化』と書いた。
「さて、前回は神人契約の成立について話したな。今日は、平安時代に契約文化がどう広がっていったかを見ていく」
教室が静かになる。
瑞穂学園の歴史の授業では、一般的な日本史に加え、神々や妖との契約が社会に与えた影響も扱う。
神社や寺院が担っていた役割、術者たちの活動、契約者の暮らし。
それらは、この世界の歴史を学ぶうえで欠かせないものだった。
「では、八坂」
「はい」
突然指名された優が顔を上げた。
「平安時代に入って、契約者の活動が地方へ広がった理由を一つ挙げてみろ」
「地方の有力者が、土地を守るために契約者を抱えるようになったからです」
「そうだな。ほかには?」
「都から派遣された術者が、そのまま地方に残った例もあります。あと、神社や寺院を中心に契約の知識が広まったのも大きいです」
「うん。よく覚えているな」
教師は満足そうに頷いた。
「では、その結果、何が問題になった?」
「契約者の力を私的に使う人が増えたことです。土地争いとか、権力争いとか」
「その通り。力が広まれば、当然それを利用しようとする者も現れる」
教師は黒板に続きを書き始めた。
優は何事もなかったようにノートへ視線を戻す。
その様子に、桜は少し驚いた。
朝、英単語一つであれほど苦戦していたのと同じ人物とは思えない。
休み時間になってから、桜は優に声をかけた。
「八坂くん、歴史得意なんだね」
「ん? まあ、好きだな」
「先生の質問にも、すぐ答えてたから」
「ああいうのは覚えやすいんだよ。昔の人間って、結構とんでもないことしてるし」
「とんでもないこと?」
「神様と契約して戦争したり、妖怪を利用しようとして逆にひどい目に遭ったり。下手な物語より面白いぞ」
「ふふ。確かに、いろんな話がありそうだね」
近くで話を聞いていた月乃が、ぱっと顔を上げた。
「八坂くん、さっき先生が言ってた地方の契約者の話、詳しく知ってる?」
「どの辺?」
「術者が地方に残ったってところ。あれって、全部が朝廷の命令だったわけじゃないんだよね?」
「そうそう。自分の意思で残った奴もいたし、地元の神社に招かれた奴もいたはず」
「だよね! 私も前に資料で読んだことがあって……」
月乃は嬉しそうに話し始めた。
優も興味を持ったらしく、机に肘をついて耳を傾ける。
「それ、どこの資料?」
「学園の図書館にあった本だよ。今度持ってこようか?」
「お、頼む!」
桜は二人の会話を楽しそうに聞いていた。
昨日、図書館で月乃が話していたことを思い出す。
好きなものの話になると、月乃は本当に楽しそうになる。
そして、どうやら優も同じらしい。
「……何か意外ね」
隣から千穂が呟いた。
「何が?」
「八坂と月乃が、あんなに話してるの」
「二人とも歴史が好きなんだね」
「そうみたい。八坂って、普段はあんな感じだけど、歴史だけは妙に詳しいのよ」
「そうなんだ」
「家庭科も得意だしね」
「家庭科?」
「うん。料理とか、裁縫とか。私より上手いんじゃないかな」
桜は少し驚いた。
「八坂くん、料理もできるんだ」
「できるわよ。本人は面倒くさがるけど」
千穂は苦笑した。
「この前の調理実習なんて、班の子たちに指示出しながら、ほとんど一人で作っちゃったんだから」
「へえ……」
桜が感心していると、向こうで優がくしゃみをした。
「……何だ? 誰か俺の噂してる?」
「してないわよ」
千穂が即答する。
「いや、絶対してただろ!」
「気のせい気のせい」
「雑だな、おい!」
月乃が小さく笑った。
桜もつられて笑う。
教室には、次の授業を待つ生徒たちの声が重なっていた。
◇
昼休み。
桜が鞄から昼食を取り出していると、千穂が声をかけてきた。
「桜ちゃん、よかったら一緒に食べない?」
「いいの?」
「もちろん。月乃も一緒よ」
「うん。こっちの席、空いてるよ」
月乃が椅子を引いた。
「ありがとう」
桜は二人のところへ向かった。
机を寄せて昼食を広げると、千穂が桜の弁当に気づいた。
「わあ、美味しそう!」
「ありがとう。今日は家で作ってもらったんだ」
「彩りがきれいだね」
月乃も嬉しそうに言う。
「月乃ちゃんのお弁当も美味しそう」
「えへへ。今日は卵焼きが上手くできたんだ」
「月乃、自分で作ってるの?」
「うん。簡単なものだけだけどね」
「十分すごいわよ」
三人がそんな話をしていると、少し離れた席から亮太の声が聞こえてきた。
「優、それ何?」
「ん? 昨日の残り」
「いや、そうじゃなくて。何でそんなに量あるんだよ」
「腹減るから」
「それにしたって多くね?」
優の机には、大きめの弁当箱が二つ並んでいた。
片方にはご飯がぎっしり詰められ、もう片方には肉や野菜のおかずが入っている。
「朝から稽古してたんだから、そりゃ腹も減るだろ」
「今日は朝練なかったじゃん」
「……昨日の分だよ」
「昨日の分って何だよ」
いなりが苦笑する。
「優、昔からよく食べるからね」
「成長期なんだよ」
「もう十七歳でしょ」
「まだ伸びるかもしれねぇだろ!」
優が真剣に答えたので、亮太は笑ってしまった。
その声につられて、桜も小さく笑う。
「八坂くんのお弁当、すごい量だね」
「おう。食う?」
「えっ?」
「いや、ちょっと多く作りすぎたからさ。おかずなら分けられるぞ」
「優、自分で作ったの?」
千穂が尋ねる。
「昨日の晩飯の残りと、朝作ったやつ」
「へえ。今日は何?」
「唐揚げと卵焼き。あと、きんぴらとほうれん草の胡麻和え」
「普通に美味しそうじゃない」
「だろ?」
優は得意げに笑った。
「母ちゃんが好きなんだよ、こういうの」
「……あんた、本当に料理はできるのよね」
「何だよ、その言い方」
「褒めてるのよ」
「絶対違うだろ!」
桜は楽しそうに笑いながら、弁当箱を手元に寄せた。
教室のあちこちでは、友人同士が昼食を囲み、思い思いの話をしている。
桜にとっても、そんな時間が少しずつ当たり前になり始めていた。
昨日よりも、今日。
今日よりも、明日。
知らなかったことが増えていくのと同じくらい、親しくなれる相手も増えていく。
瑞穂学園での毎日は、まだ始まったばかりだった。




