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神様(かみ)じゃなくて紙幣(かみ)をくれ!  作者: 余白 ことの


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第一話 三万円の命懸け 後編

笑い声は、暗い玄関の奥から聞こえていた。


 一つではない。


 女性のような高い声に、男のような低い声。その合間には、子どものものと思しき無邪気な声まで混じっている。それぞれが不自然なほど短く途切れ、重なり合いながら、暗い家の中を反響していた。


 笑い声のはずなのに、少しも楽しそうには聞こえない。


 そもそも、あれを本当に笑い声と呼んでいいのかすら分からなかった。


「……なぁ、これ三体だよな?」


 優は壊れた玄関の向こうに視えるモノから目を離さないまま尋ねた。


「見えてるのはね」


 いなりが答える。


「見えてるのは?」


「奥にもいるかもしれない」


「余計な情報ありがとう!」


『八坂』


 耳元の通信具から赤井の声が飛んだ。


『戻れ』


「え?」


『異常が一つでも増えたら戻れと言った。聞いていただろう』


「あ」


 確かに言われた。


 顔のない何かが一体から三体に増えたのだから、どう考えても条件には当てはまる。


「……でも」


 優は家を見る。


 あの中には、まだ一人いる。


『対応班の到着予定を繰り上げている。お前たちが入る必要はない』


「あと何分?」


『二十五分』


「二十五分かぁ……」


『八坂』


「分かってる」


 赤井の言っていることが正しいのは、優にだって分かっている。


 ここで戻ったところで誰にも責められない。そもそも三万円で引き受けた依頼の範囲なんて、とっくに越えている。


 それでも――二十五分。


 あの中にいる誰かにとっては、きっと短くない。


 優が迷っている間にも、壊れた玄関の奥で白いものが動いた。


 一体がゆっくりと暗闇から進み出てくる。その後ろにも、同じ制服を着た二体が続いていた。


 どれにも、顔がない。


 人間の形だけを真似た何かが、歩き方を思い出そうとしているかのような、ぎこちない足取りでこちらへ近づいてくる。


「……いなり」


「うん?」


「あいつの匂い、まだ追える?」


 いなりは答える代わりに犬神へ目を向けた。


 言葉を交わしたわけではない。けれど、何を求められているのか分かったらしい。


 犬神は鼻先を上げ、何度か空気の匂いを確かめると、壊れた玄関の向こうへ顔を向けた。


 ぴん、と耳が立つ。


「……いる」


「本物?」


「たぶん」


「生きてる?」


「そこまでは分からない」


「そっか」


 優は小さく息を吐いた。


 それから振り返る。


 規制線の向こうでは、赤井がこちらを見ていた。


「ごめん」


『何がだ』


「ちょっとだけ、言うこと聞かない」


『戻れと言っている』


「分かってる。でもさ」


 頭を掻く。


 もっともらしい説明なんて、自分でもできるとは思っていなかった。


 危険だから待て。


 専門の対応班が来る。


 全部、正しい。


 それでも。


「いるって分かっちゃったし」


 それだけだった。


『……八坂』


「確認だけ! 見つけたら連れて出る! ヤバかったら今度こそ逃げる!」


「その言葉、三回目だぞ」


 亮太が呆れたように言った。


「今度は本当!」


「回数重ねるほど信用なくなるからな?」


『伏見、菅原』


 赤井が呼ぶ。


「はい」


「聞いてます」


『八坂を連れ戻せるか』


 いなりと亮太が優を見る。


 二人とも黙った。


「何その間!?」


「無理かな」


「無理だな」


「即答!?」


 通信の向こうで、長い溜息が聞こえた。


『……三分だ』


「え?」


『三分だけ許可する。救助対象の位置を確認しろ。接触できなければ撤退。怪異との戦闘は極力避けろ。状況が一段でも悪化した場合は、三分を待たずに戻れ』


「赤井……!」


『勘違いするな。許可したのは捜索だ。討伐じゃない』


「分かってる!」


『あと、壊すな』


「今それ言う!?」


『玄関を見てから言え』


「不可抗力だって!」


『三分』


「はい!」


 優が答えるのと同時に、いなりは犬神へ目を向けた。


「お願い」


 短く頼むと、犬神が走り出す。


 三人もその後を追い、壊れた玄関を跨いだ。


 家へ足を踏み入れた瞬間、冷たい空気が肌を撫でる。


「寒っ……」


 思わず優は腕をさすった。


 外は春の夕方だったはずなのに、家の中だけ季節が違っている。空気は湿って重く、息を吸うたび、冷たさが肺の奥まで染み込んでくるようだった。


 古びた玄関には靴箱が残されていた。その上には埃をかぶった写真立てがあり、父親らしい男と母親、二人の子どもが並んで笑っている。隣には、持ち主を待っているかのように小さな黄色い傘まで立てかけられていた。


「……本当に空き家?」


「数年前から誰も住んでないって資料にはあった」


 亮太が写真立てを覗き込む。


「ずいぶん物残ってんな……夜逃げでもしたのか?」


「やめろよ」


「何が?」


「そういうの考えると怖くなる」


「顔なし見た後にそこ気にすんの?」


「現実的な怖さは別枠なんだよ!」


『喋ってないで時間を見ろ』


「分かってるよ!」


 通信越しの赤井へ返しながら、先を行く犬神を追う。


 玄関からは一本の廊下がまっすぐ伸びていた。右手には居間、左手には襖で閉じられた和室があり、さらに奥には台所らしい場所も見える。


 古いだけの、ごく普通の家だ。


 まだ中へ入って一分も経っていない。


 だからこそ、しばらく進んだところで優は足を止めた。


「……なあ」


「言うな」


 亮太が前を向いたまま答える。


「まだ何も言ってないんだけど」


「俺も同じこと考えてる」


 三人は揃って後ろを振り返った。


 玄関が、妙に遠い。


「……こんな長かった?」


 外から見た家を思い出す。


 二階建ての、ごく普通の一軒家だった。豪邸でもなければ、奥行きがあるようにも見えなかった。


 なのに、まだ一分も歩いていないはずの廊下は、どこまでも先へ伸びている。それどころか、振り返った玄関までの距離さえ、入ってきたときより長くなっているように見えた。


『八坂、どうした』


「赤井。この家、なんか広い」


『広い?』


「外から見たより、中が広い」


 返事が途切れた。


 ほんの数秒。


 けれど、次に聞こえてきた赤井の声には迷いがなかった。


『戻れ』


「早っ!」


『空間異常が発生している可能性がある。三分は撤回だ。すぐ戻れ』


「分かった。いなり、戻――」


 言い終える前だった。


「……たすけて」


 三人の動きが止まる。


 かすかな、少年の声。


「今……」


「聞こえた」


 廊下の奥からだ。


 優がそちらへ向こうとした瞬間、いなりが制服の袖を掴んだ。


「待って」


「でも今――」


「この子が反応してない」


「え?」


 犬神を見る。


 声は確かに廊下の奥から聞こえた。


 なのに犬神はそちらを見ていない。まったく別の場所――閉じられた和室の襖へ鼻を向け、じっと動きを止めている。


「……たすけて」


 また聞こえた。


 今度は右。居間の中から。


「助けて」


 左。


「助けて」


 二階。


「助けて」


 後ろ。


 優は振り返った。


 誰もいない。


「助けて」


「助けて」


「助けて」


 同じ少年の声が、家中から聞こえてくる。


 近いものもあれば、遠いものもある。それぞれが少しずつ違う場所から呼びかけてくるのに、声の高さも、息遣いも、すべて同じだった。


「うわ、やめろやめろ! そういうの本当に嫌だから!」


「優」


 いなりの声が低くなる。


「あれ、人じゃない」


「分かってる! もう十分分かった!」


『八坂、撤退しろ』


「しようとしてる!」


『今すぐだ』


「出口どっちだっけ!?」


「後ろだよ!」


「分かってる!」


 勢いよく振り返った、そのときだった。


『優』


 すぐ耳元で声がした。


「うわぁっ!?」


 優は思わず飛び退いた。


 けれど、そこには誰もいない。


「何?」


「今、耳元で……」


『優』


 また聞こえる。


 今度は左から。


『こっちだよ』


 優はいなりを見た。


 本人は口を閉じている。


「……今の、いなりの声」


「僕も聞こえた」


「最悪」


 亮太が低く吐き捨てた。


「声、覚えやがった」


『八坂』


 赤井の声。


 優が反射的に通信具へ意識を向ける。


 直後。


『八坂』


 同じ声が、廊下の奥から聞こえた。


「…………」


『戻れ』


 耳元の通信具。


『戻れ』


 家の奥。


『八坂』


 右。


『八坂』


 左。


「赤井まで増えた!」


『俺は一人だ!』


「知ってるよ!」


「どれが本物か分かんなくなる前に出るぞ!」


 亮太が優の肩を掴んだ。


 その瞬間、犬神が鋭く吠える。


「ワンッ!」


 三人が振り返ると、犬神は和室でも廊下でもなく、階段の下へ向かって走り出していた。


「待って!」


 いなりが追う。


「いなり!」


 優と亮太も続いた。


 犬神が足を止めたのは、階段脇にある小さな扉の前だった。物置だろうか。鼻先を扉の隙間へ押しつけ、しきりに前足で引っ掻いている。


「ここ?」


 いなりがしゃがみ込み、犬神の背へ手を置く。


 短く鼻を鳴らす犬神の様子を確かめてから、いなりは扉を見た。


「……人がいる」


「本物?」


「この子はそう言ってる」


 優は取っ手へ手を伸ばした。


「開けるぞ」


「待て。俺が先に見る」


 亮太が前へ出て、手首の腕輪へ指を掛ける。


 けれど、それを外すより先に赤井の声が割り込んだ。


『三人とも、そこから離れろ』


「なんで?」


『今、外から二階の窓に人影が出た』


「……は?」


 三人が固まった。


 目の前の物置には人がいる。


 少なくとも、犬神はそう判断している。


 それなのに。


『さっき落ちてきたものと同じ制服だ。二階からお前たちを見ている』


 優の喉が、ごくりと鳴った。


「……じゃあ、ここにいるのは」


「開けないと分からない」


 いなりが言う。


 犬神は扉から離れようとしない。


 優は一度、ゆっくりと息を吸った。


「亮太」


「分かってる」


 亮太が扉の横へ立ち、いなりと犬神が反対側へ回る。


 優は取っ手を握った。


「開けるぞ」


「おう」


「うん」


「せーの!」


「掛け声いる?」


「怖いんだよ!」


 勢いよく扉を開ける。


 同時に、中から何かが倒れ込んできた。


「うわっ!」


 優と亮太が慌てて受け止める。


 人だった。


 制服を着た少年。


 一瞬、先ほどの顔なしが頭をよぎり、優は反射的にその顔を覗き込んだ。


 目がある。


 鼻も、口も。


 ちゃんと、人の顔だ。


「写真の!」


 亮太の声で、優も気づく。


 赤井から見せられた少年だった。


「おい! 聞こえるか!?」


 頬を軽く叩いても反応はない。


 けれど、胸がかすかに上下している。


 優は鼻先へ指を近づけた。


 弱いながらも、息が触れた。


「……生きてる」


 全身から、力が抜けそうになった。


「よかったぁ……」


「安心するのは外出てからにしろ」


「分かってるけど!」


『八坂、救助対象を確認したのか』


「した! 生きてる!」


 通信の向こうで一瞬、音が止まった。


『意識は』


「ない。でも息してる」


『分かった。救急をこちらへ回す。すぐ出ろ』


「了解」


 今度は素直に返事をして、優は少年へ背を向けた。


「亮太、乗せて」


「お前が背負うの?」


「いなりは犬神使ってるし、お前は何かあったら祓うだろ。俺が一番手空いてる」


「まあ、そうだけど」


 二人がかりで少年を背負わせてもらう。


 腕を肩へ回した途端、ずしりと重みが掛かった。


「重っ!」


「同い年くらいだからな」


「人間ってこんな重いの!?」


「お前もだよ」


「俺は背負ったことないから知らねぇよ!」


「当たり前だろ」


 亮太に突っ込まれながら、優は少年の腕を握り直した。落とさないよう背中へ密着させ、腰を少し落として重心を確かめる。


「よし。帰る」


 今度こそ、そう思った。


 ミシッ。


 三人の動きが止まる。


「……今の何?」


 誰も答えない。


 もう一度、ミシ、と音がした。


 続いて天井が軋み、壁の奥で何かが這うような音がする。床下からも低い振動が伝わり、やがてそれらは一つに重なって、家そのものが苦しげに身を捩っているかのような音へ変わっていった。


 犬神が牙を剥く。


『八坂?』


「赤井、なんか家が――」


 ザッ、と通信に雑音が走った。


「え?」


『八坂、応答――』


「赤井?」


『――すぐ――退――』


「聞こえない!」


 ザザッ、と激しい雑音が耳を刺す。


 そして唐突に、何も聞こえなくなった。


「……マジかよ」


     * * *


「八坂?」


 返事がない。


 赤井は通信具を耳へ押し当て、もう一度呼びかけた。


「伏見。菅原。応答しろ」


 今度は雑音すら返ってこなかった。


 先ほどまで壊れた玄関越しに辛うじて確認できていた三人の姿も、今は見えない。家の内部を黒い霞のようなものが覆い、外からでは一メートル先すら見通せなくなっている。


 赤井の顔から、それまで浮かんでいた面倒そうな色が消えた。


 すぐに回線を切り替える。


「現場から本部。対象建造物内部で空間異常を確認。現場の三名および救助対象との通信が途絶した」


 返答を待ちながらも、視線は家から外さない。


「危険度を上方修正。対応班を急がせろ。救急一台を現場直近で待機。周辺の規制範囲も広げる」


 近くにいた職員へ手を上げる。


「ここから先、一般人を近づけるな。公園側もだ」


「了解」


 職員が駆け出した。


 それを横目で確認すると、赤井は再び三人の回線へ接続する。


「八坂。聞こえたら返事をしろ」


 反応はない。


 黒く霞んだ玄関を見つめたまま、赤井は小さく息を吐いた。


「……まったく。三分くらい言うことを聞け」


     * * *


「玄関がない」


 優は呆然と呟いた。


「だから言うなって」


「まだ言われてねぇよ!」


 さっきまで歩いてきた廊下。


 その先にあるはずの玄関が、消えていた。


 代わりにあるのは、古びた一枚の壁だけだ。


「どうすんの!?」


「探すしかないだろ!」


「何を!?」


「出口!」


「家で出口探すって何!?」


「俺に聞くな!」


「二人とも」


 いなりの声に、言い争いが止まる。


 犬神が唸っていた。


 その視線の先――壁や天井、閉じられた襖の隙間から、白いものがゆっくりと浮かび上がってくる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 四つ。


「……増えた」


「数えるな!」


 顔のない人間たちが、家のあちこちから這い出してくる。今度は制服姿だけではない。小さな子どももいれば、女も、背広を着た男もいた。


 年齢も、性別も、服装も違う。


 それなのに、顔だけがない。


 人間の形をしている。


 ただ、それだけだった。


『優』


 いなりの声。


『こっちだ』


 亮太の声。


『八坂』


 赤井の声。


 そして――。


『置いていけ』


 知らない声がした。


 優の足が止まる。


 顔なしが、一斉にこちらを向いた。


『置いていけ』


 背中の少年が、急に重くなったような気がした。


『それを置いていけ』


「……嫌だよ」


『置いていけば、出られる』


 ずり落ちそうになった少年を背負い直す。


 肩が痛い。


 腕もすでに疲れていた。


 怖い。


 逃げたい。


 今すぐ少年を下ろして、身軽になって、こんな家から飛び出せたらどれだけ楽だろう。


 けれど、そんなことをして外へ出られたところで。


 たぶん、自分はものすごく嫌な気分になる。


『死ぬぞ』


「それも嫌だよ!」


 思わず怒鳴った。


 隣で亮太が目を丸くする。


「何キレてんの?」


「だってムカつくだろ! こいつ置いてくのも嫌! 死ぬのも嫌! 怪我すんのも嫌! 借金増えるのも嫌!」


「最後のは今関係ある?」


「全部嫌なんだから仕方ねぇだろ!」


 そのとき、一体の顔なしが床を蹴った。


「来る!」


 いなりが叫ぶ。


 犬神の方が早かった。


 優へ飛びかかろうとした顔なしの横腹へ身体ごとぶつかり、その腕へ牙を立てる。


 小さな身体に似合わない勢いで食らいついた瞬間、異変が起きた。


 顔なしの人型は、そのまま前へ進もうとする。


 けれど、進めない。


 犬神の牙が捕らえていたのは腕そのものではなく、その内側に重なっていた黒い影だった。


 人型が前へ。


 黒い影が後ろへ。


 二つが引き剥がされるように大きく歪み、顔なしの動きが止まる。


「今だよ!」


 いなりの声に、亮太が動いた。


 手首の腕輪へ指を掛け、そのまま留め具を外す。細い輪が手の中でほどけるように伸び、小さな珠を連ねた数珠へと戻っていった。


 それを左手へ巻きつけると、右手の人差し指と中指を揃えて床へ押し当てる。


「そこ、動くなよ」


 指先から流れ込んだ淡い光が床板の継ぎ目を伝い、犬神に捕らえられた顔なしの足元へ走った。


 光はその周囲を囲むように円を描き、閉じた瞬間、青白い炎が細く立ち上がる。


 顔なしが逃れようと身体を捻った。


 その足が炎へ触れる。


 ジュッ、と水へ焼けた鉄を入れたような音が響いた。


 身体から黒い靄が噴き出し、人の形がぐにゃりと崩れる。そのまま床へ沈み込むように形を失っていった。


「効いてる!」


「低級ならな!」


 亮太は数珠を握ったまま顔を上げる。


「問題は――」


 残った二体が、同時に床を蹴った。


「数が多い!」


「それ先に言って!」


「見りゃ分かるだろ!」


 一体が、いなりへ向かう。


 犬神はまだ最初の一体を押さえている。


「いなり!」


 優は右手を振り上げた。


 契印が熱を持ち、それに応えるように風が掌へ集まってくる。


 さっきと同じように真正面から叩きつければいい――そう思ったところで、咄嗟に腕を止めた。


 駄目だ。


 ここは狭い。


 すぐ近くにはいなりがいるし、自分の背中には意識のない少年までいる。玄関を吹き飛ばしたときのような使い方をすれば、怪異より先に味方を巻き込みかねない。


「くっそ……!」


 なら、広げなければいい。


 優は手首を返し、膨らもうとする風の向きを強引に変えた。


 壁際へ寄せ、そのまま低く走らせる。


 横から吹きつけた風が、いなりへ飛びかかろうとしていた顔なしの足を払った。


 身体が大きく傾く。


「いなり、下がれ!」


 犬神を呼び戻しながら、いなりが飛び退いた。


 倒れた顔なしへ、亮太がすぐに二本の指を向ける。


「そのまま!」


 床を走った光が足元を囲み、青白い火が立ち上がった。


 二体目の動きが止まる。


「よし!」


「まだ!」


 いなりが叫んだ。


 優の背後。


 振り返る暇はなかった。


 背中にいる少年を庇うように身体を捻った、その瞬間。


「優!」


 肩へ強い衝撃が走った。


「いっ……!」


 爪のように伸びた指が制服を裂き、その下の皮膚を浅く引っ掻いていく。遅れて、焼けるような痛みが肩を走った。


「痛ってぇぇぇぇ!!」


「大丈夫!?」


「大丈夫じゃない! 痛い!」


「動ける!?」


「動けるけど痛い!」


「じゃあ動け!」


「お前酷くない!?」


 文句を言いながら、優は右手を突き出した。


 今度は吹き飛ばさない。


 掌の前だけに風を集め、真正面へ押し出す。


 圧された顔なしの上半身が大きく仰け反った。


 その隙に優は距離を取る。


「優、肩!」


 いなりが顔を歪める。


「後! 後で見る! 今は出口!」


「犬神に探させる!」


 いなりはすぐ犬神へ向き直った。


「外。分かる?」


 犬神が鼻先を上げ、何度か空気の匂いを確かめる。


 そして突然、廊下を走り出した。


「追うぞ!」


 三人も後を追う。


 顔なしが追ってくる気配がした。


 一つ角を曲がる。


 さらにもう一つ。


 走っても、走っても、玄関は見えない。それどころか、先ほど通ったときにはなかったはずの扉や部屋が、廊下の左右へ次々と現れている。


「まだ!?」


「待って!」


 犬神が急停止した。


 鼻先を向けたのは、またしても壁だった。


「……ここ」


「また壁!?」


「この向こうから外の匂いがする!」


 優は目の前の板壁を見た。


 窓もなければ、扉もない。


「どうすんだよ!」


「待て」


 亮太が優の前へ出た。


「何?」


「ただの壁なら、お前がぶっ壊せば終わりだ。でも多分、これ……そういうんじゃねぇ」


「分かんの?」


「たぶん」


「たぶん!?」


「うるせぇ、今調べる!」


 亮太は壁へ手を当て、目を閉じた。


 数珠を巻いた左手から、淡い光が滲む。


 しばらく壁の表面を探るように手を滑らせていた亮太が、やがて一点で止まった。


「……ここだ」


「何が?」


「向こう側に空間はある。犬神が言ってる通り、多分外だ。でも、その間に何か一枚挟まってる」


「一枚?」


「壁じゃなくて、ここの空間そのものを閉じてる何か。たぶん、こいつの力だ」


 亮太が家の中を示す。


「それ取れる?」


「やってみる」


「頼む!」


「軽いな!」


 亮太は壁から手を離し、左手の数珠を握った。


 右手の二本の指を揃え、先ほど見つけた一点へ押し当てる。


「ちょっと下がれ」


 優といなりが数歩退いた。


 亮太が息を吐く。


 指先から青白い火が灯った。


 それは壁を燃やすことなく、表面をゆっくりと這っていく。


 すると、何もなかったはずの板壁に黒い筋が浮かび上がった。


 縦に。


 横に。


 まるで見えない布を縫い合わせた糸のように、何本もの黒い線が絡み合っている。


「何これ」


「空間の継ぎ目……みたいなもんだと思う」


「思う?」


「こんなの教科書でしか見たことねぇんだよ!」


「大丈夫!?」


「今それ聞くな!」


 亮太が数珠を握り込む。


 青白い火が強くなった。


 黒い筋が、一本ずつ焼き切れていく。


 そのたびに壁の向こうから、わずかに風が漏れた。


 春の匂い。


「外!」


「まだ!」


 亮太の額に汗が滲む。


「完全には消せねぇ! 俺が押さえてる間にぶち抜け!」


「それ先に言って!」


「今分かったんだよ!」


 背後から、いくつもの足音が聞こえた。


 顔なしが迫ってくる。


「優!」


 いなりが振り返る。


「分かってる!」


 優は少年を背負い直し、壁へ右手を向けた。


「スサノオ!」


『聞こえている』


 すぐに返事があった。


 優は一瞬、目を見開く。


「通信切れたのに、お前はいるんだな」


『お前と俺との縁を、あの程度で断てるものか』


「……そっか」


 なぜだか、それだけで少し安心した。


「じゃあ、力貸して」


『好きに使え』


「雑!」


 思わず言い返したのに、口元は緩んだ。


 右手の契印が熱を持つ。


 風が集まり始める。


 さっきとは違う。


 広げない。


 背後には二人がいる。


 背中には少年がいる。


 狙うのは、亮太が焼き切ろうとしている一点だけ。


 優は掌を壁へ向け、そこへ集まった風を少しずつ細く絞っていった。


 空気が震え、床の埃が舞い上がる。制服の裾が激しくはためき、背中の少年の髪まで風に煽られた。


「亮太!」


「待て、まだ!」


 黒い筋が、また一本焼き切れる。


 残りは二本。


 背後から、犬神の唸り声が聞こえた。


 いなりが追いついてきた顔なしの前へ立ち、犬神を従えている。


「いなり!」


「こっちは大丈夫! 前見て!」


「でも――」


「早く!」


「……分かった!」


 優は壁へ向き直った。


 風をさらに絞る。


「亮太!」


「あと十秒!」


「長い!」


「俺だって頑張ってんだよ!」


 最後の黒い筋へ、青白い炎が食らいつく。


 亮太が歯を食いしばった。


「……切れろ!」


 黒い筋が弾けた。


 壁の一部が、陽炎のように揺らぐ。


 向こうから吹き込んできた風に、犬神が鋭く吠えた。


「そこ!」


 いなりが叫ぶ。


「優、今!」


「よし!」


 掌の先で、圧縮された空気が低く唸る。


「――開けぇぇぇっ!!」


 優が腕を突き出した。


 風が一直線に放たれ、揺らいだ一点へ叩き込まれる。


 壁が大きくへこんだ。


 一瞬遅れて――。


 バンッ!


 板壁が外側へ弾け飛んだ。


 開いた穴から、夕方の光が差し込んでくる。


 冷え切った家の中へ、春の風が吹き込んだ。


「外!」


「行け!」


 亮太が叫ぶ。


 いなりが犬神を伴って真っ先に穴を抜ける。


 優も少年を背負ったまま、その後を追った。


 最後に残った亮太が壁から指を離す。


 その瞬間、焼き切ったはずの黒い筋が蠢いた。


「うわ、マジかよ!」


 背後から顔なしが迫る。


「亮太!」


「分かってる!」


 亮太は床を蹴り、開いた穴へ飛び込んだ。


 伸びてきた白い腕が制服の裾を掠める。


 けれど、その身体までは届かなかった。


 亮太が外へ転がり出た直後、家の中から大きな音が響いた。


 悲鳴なのか。


 怒鳴り声なのか。


 それとも、最初に聞いたあの笑い声なのか。


 最後まで分からなかった。


 優の靴が、柔らかな土を踏んだ。


 その瞬間、世界に音が戻ってきた。


 道路を走る車の音。鳥の声。遠くの公園から聞こえてくる子どもたちの声。ついさっきまで当たり前だったはずの住宅街のざわめきが、一度に耳へ押し寄せてくる。


 春の風が頬を撫でた。


「……外だ」


 たったそれだけのことが、泣きたいくらいありがたかった。


「八坂!」


 赤井が走ってくる。


「少年を下ろせ!」


「お、おう!」


 職員が二人駆け寄り、優の背中から少年を受け取った。


 赤井はその場に膝をつくと、すぐに少年の首元へ指を当てる。


「呼吸あり。脈あり。救急!」


「はい!」


 待機していた救急隊員が担架を運んでくる。


 赤井は少年が引き渡されるところまで見届けると、今度は三人へ向き直った。


「伏見」


「大丈夫です」


「菅原」


「俺も」


「八坂」


「大丈夫!」


 即答した優を、赤井が上から下まで見る。


 その目が肩で止まった。


「それのどこが大丈夫だ」


「え?」


「血が出てる」


「あ」


 言われて初めて見る。


 制服の肩が裂け、その下からうっすらと血が滲んでいた。


 気づいた途端、さっきまで忘れていた痛みまで一緒に戻ってくる。


「……痛い」


「さっき散々叫んでただろ」


「外出たらもっと痛くなった!」


「意味が分からん。お前も救護を受けろ」


「はい……」


 今度ばかりは反論する気力もなく、優はその場へ座り込んだ。


「死ぬかと思った……」


「だから戻れと言った」


「ごめんなさい」


「珍しく素直だな」


「今、反省してるから」


「何分もつ?」


「五分くらい」


「短いな」


 いなりが隣へしゃがみ込んだ。


「でも、助けられたね」


 その言葉に、優は顔を上げる。


 ちょうど少年が担架に乗せられ、救急車へ運ばれていくところだった。


 生きている。


 あの家に置いてこなくてよかった。


 それだけ確認すると、優は小さく息を吐いた。


「……うん」


 それ以上は言わなかった。


 しばらくして。


「赤井」


「なんだ」


「追加料金」


「反省は?」


「終わった」


「五分どころか一分もってないぞ」


「それとこれは別!」


 優は勢いよく立ち上がった。


「調査じゃなかった! 救助した! 怪異いっぱい出た! 怪我した! 壁も――」


 そこで止まる。


 赤井が家を見た。


 優もつられて見る。


 玄関。


 壊れている。


 壁。


 大穴が開いている。


「…………」


「壁も?」


「……何でもない」


「そうか」


「それで追加料金!」


「救助加算は申請しておく」


「マジ!?」


 今日一番、優の顔が輝いた。


「いくら!?」


「まだ決まっていない」


「五万!?」


「聞け」


「十万!?」


「八坂」


「二十――」


「その前に、損壊報告書も必要だな」


「不可抗力!!」


「まだ請求するとは言っていない」


「先に言えよ!!」


 亮太が吹き出した。


「よかったな。借金増えなくて」


「まだ分かんねぇだろ! 怖いこと言うな!」


「優」


 いなりが制服の袖を引く。


「アイス」


「……覚えてた?」


「もちろん」


「俺ラーメン」


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