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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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9/11

第九煙 BERGAMOT

OMNIBUSには、俺以外にもう一人、店主がいる。


名前は安倍。


不動産鑑定士をしながら、この店を共同で経営している。


ただし、客の前へ立つことはほとんどない。


俺が店を開ける時間、安倍は事務所で書類を読んでいるか、誰かの土地と建物へ値段をつけている。


店へ来ても、カウンターの端で仕事をしていることが多い。


暗い色のスーツ。


飾りのない鞄。


酒も飲まず、大きな声で笑うこともない。


ヤクザも、風俗嬢も、チェ・ゲバラみたいな営業マンも出入りするOMNIBUSでは、最も普通に見える男だった。


普通に見える人間が、本当に普通だとは限らない。


安倍がいなければ、この店は看板を掲げる前に潰れていた。


親友が、店をやればいいと言った。


先輩が、できると言って背中を押した。


そして安倍が、その夢に住所を与えた。


安倍と出会ったのも、別のシーシャ屋だった。


何度か同じ店で顔を合わせたことがある程度の仲だった。


互いに名前は知っている。


隣になれば話す。


わざわざ連絡を取るほどではない。


そんな距離だった。


先輩が死んだあと、俺は一度閉じた店のノートを、もう一度開いた。


仕事帰りにシーシャ屋へ寄り、インターネットで見つけた貸店舗の資料を眺めていた。


家賃が安い。


繁華街からも遠くない。


写真では、内装もそれなりに綺麗だった。


ここなら始められるかもしれない。


そう思っていると、隣から安倍が資料を覗き込んだ。


「そこ、借りるのか」


「候補。安いやろ」


「安いな」


「やろ?」


「安い理由は調べたか」


「安いけん、ええんやないん」


安倍は、俺が吸っていたホースを取り上げるように、物件資料を手に取った。


住所を確認し、広さを見て、掲載されている条件を上から下まで読んだ。


「やめておけ」


一分もかからなかった。


「なんで?」


「この広さで、この場所で、この家賃になる理由が書いてない」


「掘り出し物かもしれんやろ」


「不動産に掘り出し物はある。ただし、素人が最初に見つけることはほとんどない」


嫌な言い方だった。


だが、翌日、安倍が調べた通り、その物件は店を始めるまでに大きな改修が必要だった。


契約条件も、設備が壊れたときの負担も、借りる側へ不利にできていた。


安い家賃の横には、俺が読もうとしなかった金額がいくつも隠れていた。


「騙されるとこやったな」


「騙しちゃいない。書いてある」


「小さくやろ」


「小さくても書いてある」


「不動産屋、性格悪いな」


「お前が雑なんだ」


その日から、安倍が物件探しへ加わった。


頼んだ覚えはない。


俺が候補を送ると、立地、家賃、修繕、契約期間、周囲の店まで調べた。


十件以上見て、ほとんどを数分で却下した。


「駅から遠い」


「家賃が高い」


「夜に人が通らない」


「上の階の音が響く」


「入口が分かりにくい」


最後の理由には腹が立った。


「分かりにくい店の方が、秘密基地みたいでええやろ」


「秘密基地は、客が場所を知っているから集まれるんだ」


「夢がないなあ」


「夢に家賃は払えない」


それでも、安倍は探すのをやめなかった。


今の場所を見つけたのは、安倍だった。


地方都市の繁華街から、少しだけ離れた雑居ビル。


表通りほど騒がしくなく、それでいて夜の人間が歩いて来られる。


広くはない。


新しくもない。


だが、低いソファを置き、照明を落とせば、俺がノートに書いていた店に近くなった。


「ここなら、何年もつ?」


内見を終えたあと、俺は聞いた。


「お前次第だ」


「鑑定士の答えになってないぞ」


「建物の値段は出せる。店の寿命までは鑑定できない」


安倍は、空っぽの店内を見回した。


「ただ、お前一人でやれば一年もたない」


「喧嘩売りよる?」


「事実を伝えている」


安倍は、契約や金の管理を自分が担当すると言った。


俺が店に立ち、シーシャと客を見る。


安倍が数字と建物を見る。


利益が出れば分ける。


出なければ、原因を二人で考える。


それが、共同経営の始まりだった。


「なんで、そこまでしてくれるん」


契約を決める前、俺は一度だけ尋ねた。


安倍は少し考えた。


「お前の店が、本当に面白いのか見てみたい」


「見るだけなら、客でええやろ」


「客では、失敗したときに口を出せない」


「失敗する前提なん?」


「成功だけを前提に契約する人間は信用するな」


安倍は、まだ何も置かれていない部屋の壁へ手を触れた。


「俺は普段、すでに誰かが建て、誰かが使った不動産の価値を測っている」


「それが仕事やろ」


「たまには、価値が生まれる前の場所を作る側へ回ってみたい」


空っぽのままなら、ここは古い雑居ビルの一室にすぎない。


家賃と広さと築年数で比べられ、似た物件と同じような値段をつけられる。


だが、照明を落とし、シーシャを置き、人が集まれば、同じ部屋でも別の場所になる。


「不動産の価値は、建物だけで決まらない。誰が、何に使い、どれだけ必要とするかで変わる」


「俺がここに価値を作るって?」


「それを確かめるために、俺も金を出す」


そこで初めて、安倍がただ俺の失敗を防ごうとしているだけではないと分かった。


この男なりに、OMNIBUSへ賭けようとしていた。


「面白くなかったら?」


「数字を見て撤退する」


夢のない答えだった。


だが、できると言うだけの人間より、駄目になったときの話までしてくれる人間の方が信じられた。


開店の日、安倍は仕事で県外にいた。


祝いの言葉も、花も届かなかった。


代わりに、短いメッセージが来た。


――売上と経費は、一日目から記録しろ。


共同経営者としては、たぶん正しい。


友人としては、どうかと思う。


OMNIBUSを開けてから、安倍は月に何度か帳簿を確認しに来た。


注文は、いつもBERGAMOT。


華やかな柑橘の香りに、少し渋さの残る煙。


安倍は一口吸うたび、何かを考えるように間を置いた。


その夜も、閉店後の店へ現れた。


客が帰り、床の掃除も終わった頃だった。


安倍はいつもの席へ座り、鞄から帳簿と紙の束を取り出した。


「ベルガモットでええ?」


「ほかを頼んだことがあるか」


「たまには冒険したら?」


「冒険は、お前一人で充分だ」


俺はBERGAMOTを作り、安倍の前へ置いた。


安倍は煙の状態を確かめ、帳簿を開いた。


しばらく、電卓を叩く音だけが店に響いた。


「数字、どう?」


「客は増えている」


「ええやん」


「金は増えていない」


「なんで?」


安倍が顔を上げた。


「本気で言っているのか」


紙の一枚を、俺の前へ置いた。


フレーバー。


炭。


飲み物。


家賃。


電気。


一つずつなら小さく見える金額が、月の終わりには大きな数字になっていた。


「閉店時間を過ぎても客を帰さない」


「話の途中で帰れ言えんやろ」


「炭を追加しても金を取らない」


「味戻した方が喜ぶけん」


「金がないと言われれば、会計を安くする」


「次も来てくれるかもしれん」


「来るたびに安くするのか」


「それは……考える」


安倍は、深く煙を吸った。


怒っているわけではない。


呆れているときの顔だった。


「お前は、優しさを無料にしすぎる」


「金取ったら、優しさやないやろ」


「違う」


安倍は即答した。


「続けられない優しさは、ただの思いつきだ」


何も言い返せなかった。


「店を始めた理由を忘れたか」


「誰でも帰って来られる場所を作りたかった」


「なら、帰って来たときに店がある必要がある」


安倍は帳簿を指で叩いた。


「潰れた店は、誰の居場所にもなれない」


正論だった。


正論は、だいたい言われたくないときに言われる。


「夢を持つ人間は、数字を敵だと思いすぎる」


安倍は続けた。


「数字は、夢をやめさせるためにあるんじゃない。今のままなら、いつまで続けられるかを教えるためにある」


「じゃあ、客からもっと取れって?」


「必要な金額は取れ。助けたい客がいるなら、月にいくらまで助けられるか決めろ。店の金と、お前の感情を同じ財布へ入れるな」


「全部、値段つけるんやな」


「俺は不動産鑑定士だ」


「無料の方が、客は喜ぶやろ」


「価格と価値を混ぜるな」


安倍は、俺の前に置いた紙を裏返した。


「無料だから価値があるわけじゃない。金を取るから価値がなくなるわけでもない」


「でも、金ない客もおる」


「その一人を助けるために、ほかの客が帰る場所までなくすのか」


言い方は冷たい。


だが、安倍が見ているのは、今夜ここへ来ている一人ではなかった。


来月来る客。


来年、初めて扉を開ける客。


まだ会ったことのない人間まで含めて、店を残そうとしていた。


「価値を守るために、必要な価格もある」


安倍は言った。


「お前が作る煙に金を払う客を、もっと信用しろ」


「人間にも値段つけるん?」


「人間にはつけない」


安倍はホースを置いた。


「ただし、人間が選んだことに、どんな代価があるかは考える」


その言葉で、美緒の顔が浮かんだ。


昔と変わらない、可愛い笑顔。


一回だけだからと、ホストの店へ向かおうとしていた顔。


「なあ、安倍」


「何だ」


俺は、美緒のことを話した。


看護学校からの親友であること。


街で声をかけられた男がホストだったこと。


毎日連絡を取るうちに、少しずつ様子が変わったこと。


店へ行くのを止めたが、聞かなかったこと。


安倍は途中で口を挟まなかった。


聞き終えると、最初に尋ねた。


「彼女は、助けてくれと言ったのか」


「言ってない」


「金を貸してくれとは?」


「まだ何も使ってない」


「仕事を休んだか」


「休んでない」


「なら、今のところ彼女がしたのは、気になる男の店へ行っただけだ」


「相手はホストぞ」


「職業だけで有罪にはできない」


「シナみたいになるかもしれん」


「ならないかもしれない」


「なってからじゃ遅いやろ」


声が強くなった。


安倍は表情を変えなかった。


「お前が腕を掴んで、店へ行かせなければ、それで解決するのか」


「少なくとも今日は行かん」


「明日は、お前に隠れて行く」


返す言葉がなかった。


「止めることと、選択を奪うことは違う」


「なら、黙って見とれって?」


「見ていろ。黙る必要はない」


安倍はBERGAMOTの煙を吐いた。


「危ないと思う理由は伝えろ。困ったときは連絡しろと言え。金は貸すな。嘘の片棒は担ぐな。本当に危険なら、嫌われても必要な助けを呼べ」


「それまで、待つん?」


「待つんじゃない。関係を切らずに見ているんだ」


安倍の声は、いつもと同じだった。


正しいことを教える教師の声ではない。


いくつかある道を並べ、どの道にどんな危険があるかを示す、鑑定士の声だった。


「お前は、自分が正しかったと証明したいわけじゃないだろ」


「当たり前や」


「嫌な予感を外したいんだろ」


「そうよ」


「なら、正しさを押しつけるな」


安倍は、誰も座っていないソファを見た。


「帰って来られる席だけ、空けておけ」


その言葉は、帳簿の数字より深く残った。


俺は、美緒を止められなかった。


正確には、俺の言葉で止まるところに、美緒はもういなかった。


それでも、戻って来たときに座る場所なら用意できる。


話したくなければ、何も聞かずGRAPEFRUITを出せばいい。


助けてと言われたとき、初めて一緒に出口を探せばいい。


それまでは、店を潰さず、扉を開けておく。


安倍の話は、結局いつも数字へ戻ってくる。


「ところで」


俺は、安倍のシーシャを指した。


「なんで、毎回ベルガモットなん?」


「好きだからだ」


「それだけ?」


「味を選ぶのに、ほかの理由がいるのか」


「もっと鑑定士っぽい答えないん」


安倍は少し考えた。


「ベルガモットは、単体で目立つ味じゃない」


「ほう」


「だが紅茶へ混ざれば、ただの紅茶をアールグレイという別の名前に変える」


「自分みたいや言いたいん?」


「どうしてそうなる」


安倍は本気で嫌そうな顔をした。


俺は笑った。


親友が、OMNIBUSの種を落とした。


先輩が、それを育てろと言った。


安倍が、根を張れる場所を選んだ。


客の前で目立つ男ではない。


だが、安倍が混ざったことで、俺の夢は店になった。


BERGAMOT。


主役でなくても、混ざったものの名前を変える味がある。


OMNIBUSにとって、安倍はそういう男だった。


本人に言えば、持分は同じだから脇役ではないと訂正されそうなので、黙っておくことにした。

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