第九煙 BERGAMOT
OMNIBUSには、俺以外にもう一人、店主がいる。
名前は安倍。
不動産鑑定士をしながら、この店を共同で経営している。
ただし、客の前へ立つことはほとんどない。
俺が店を開ける時間、安倍は事務所で書類を読んでいるか、誰かの土地と建物へ値段をつけている。
店へ来ても、カウンターの端で仕事をしていることが多い。
暗い色のスーツ。
飾りのない鞄。
酒も飲まず、大きな声で笑うこともない。
ヤクザも、風俗嬢も、チェ・ゲバラみたいな営業マンも出入りするOMNIBUSでは、最も普通に見える男だった。
普通に見える人間が、本当に普通だとは限らない。
安倍がいなければ、この店は看板を掲げる前に潰れていた。
親友が、店をやればいいと言った。
先輩が、できると言って背中を押した。
そして安倍が、その夢に住所を与えた。
安倍と出会ったのも、別のシーシャ屋だった。
何度か同じ店で顔を合わせたことがある程度の仲だった。
互いに名前は知っている。
隣になれば話す。
わざわざ連絡を取るほどではない。
そんな距離だった。
先輩が死んだあと、俺は一度閉じた店のノートを、もう一度開いた。
仕事帰りにシーシャ屋へ寄り、インターネットで見つけた貸店舗の資料を眺めていた。
家賃が安い。
繁華街からも遠くない。
写真では、内装もそれなりに綺麗だった。
ここなら始められるかもしれない。
そう思っていると、隣から安倍が資料を覗き込んだ。
「そこ、借りるのか」
「候補。安いやろ」
「安いな」
「やろ?」
「安い理由は調べたか」
「安いけん、ええんやないん」
安倍は、俺が吸っていたホースを取り上げるように、物件資料を手に取った。
住所を確認し、広さを見て、掲載されている条件を上から下まで読んだ。
「やめておけ」
一分もかからなかった。
「なんで?」
「この広さで、この場所で、この家賃になる理由が書いてない」
「掘り出し物かもしれんやろ」
「不動産に掘り出し物はある。ただし、素人が最初に見つけることはほとんどない」
嫌な言い方だった。
だが、翌日、安倍が調べた通り、その物件は店を始めるまでに大きな改修が必要だった。
契約条件も、設備が壊れたときの負担も、借りる側へ不利にできていた。
安い家賃の横には、俺が読もうとしなかった金額がいくつも隠れていた。
「騙されるとこやったな」
「騙しちゃいない。書いてある」
「小さくやろ」
「小さくても書いてある」
「不動産屋、性格悪いな」
「お前が雑なんだ」
その日から、安倍が物件探しへ加わった。
頼んだ覚えはない。
俺が候補を送ると、立地、家賃、修繕、契約期間、周囲の店まで調べた。
十件以上見て、ほとんどを数分で却下した。
「駅から遠い」
「家賃が高い」
「夜に人が通らない」
「上の階の音が響く」
「入口が分かりにくい」
最後の理由には腹が立った。
「分かりにくい店の方が、秘密基地みたいでええやろ」
「秘密基地は、客が場所を知っているから集まれるんだ」
「夢がないなあ」
「夢に家賃は払えない」
それでも、安倍は探すのをやめなかった。
今の場所を見つけたのは、安倍だった。
地方都市の繁華街から、少しだけ離れた雑居ビル。
表通りほど騒がしくなく、それでいて夜の人間が歩いて来られる。
広くはない。
新しくもない。
だが、低いソファを置き、照明を落とせば、俺がノートに書いていた店に近くなった。
「ここなら、何年もつ?」
内見を終えたあと、俺は聞いた。
「お前次第だ」
「鑑定士の答えになってないぞ」
「建物の値段は出せる。店の寿命までは鑑定できない」
安倍は、空っぽの店内を見回した。
「ただ、お前一人でやれば一年もたない」
「喧嘩売りよる?」
「事実を伝えている」
安倍は、契約や金の管理を自分が担当すると言った。
俺が店に立ち、シーシャと客を見る。
安倍が数字と建物を見る。
利益が出れば分ける。
出なければ、原因を二人で考える。
それが、共同経営の始まりだった。
「なんで、そこまでしてくれるん」
契約を決める前、俺は一度だけ尋ねた。
安倍は少し考えた。
「お前の店が、本当に面白いのか見てみたい」
「見るだけなら、客でええやろ」
「客では、失敗したときに口を出せない」
「失敗する前提なん?」
「成功だけを前提に契約する人間は信用するな」
安倍は、まだ何も置かれていない部屋の壁へ手を触れた。
「俺は普段、すでに誰かが建て、誰かが使った不動産の価値を測っている」
「それが仕事やろ」
「たまには、価値が生まれる前の場所を作る側へ回ってみたい」
空っぽのままなら、ここは古い雑居ビルの一室にすぎない。
家賃と広さと築年数で比べられ、似た物件と同じような値段をつけられる。
だが、照明を落とし、シーシャを置き、人が集まれば、同じ部屋でも別の場所になる。
「不動産の価値は、建物だけで決まらない。誰が、何に使い、どれだけ必要とするかで変わる」
「俺がここに価値を作るって?」
「それを確かめるために、俺も金を出す」
そこで初めて、安倍がただ俺の失敗を防ごうとしているだけではないと分かった。
この男なりに、OMNIBUSへ賭けようとしていた。
「面白くなかったら?」
「数字を見て撤退する」
夢のない答えだった。
だが、できると言うだけの人間より、駄目になったときの話までしてくれる人間の方が信じられた。
開店の日、安倍は仕事で県外にいた。
祝いの言葉も、花も届かなかった。
代わりに、短いメッセージが来た。
――売上と経費は、一日目から記録しろ。
共同経営者としては、たぶん正しい。
友人としては、どうかと思う。
OMNIBUSを開けてから、安倍は月に何度か帳簿を確認しに来た。
注文は、いつもBERGAMOT。
華やかな柑橘の香りに、少し渋さの残る煙。
安倍は一口吸うたび、何かを考えるように間を置いた。
その夜も、閉店後の店へ現れた。
客が帰り、床の掃除も終わった頃だった。
安倍はいつもの席へ座り、鞄から帳簿と紙の束を取り出した。
「ベルガモットでええ?」
「ほかを頼んだことがあるか」
「たまには冒険したら?」
「冒険は、お前一人で充分だ」
俺はBERGAMOTを作り、安倍の前へ置いた。
安倍は煙の状態を確かめ、帳簿を開いた。
しばらく、電卓を叩く音だけが店に響いた。
「数字、どう?」
「客は増えている」
「ええやん」
「金は増えていない」
「なんで?」
安倍が顔を上げた。
「本気で言っているのか」
紙の一枚を、俺の前へ置いた。
フレーバー。
炭。
飲み物。
家賃。
電気。
一つずつなら小さく見える金額が、月の終わりには大きな数字になっていた。
「閉店時間を過ぎても客を帰さない」
「話の途中で帰れ言えんやろ」
「炭を追加しても金を取らない」
「味戻した方が喜ぶけん」
「金がないと言われれば、会計を安くする」
「次も来てくれるかもしれん」
「来るたびに安くするのか」
「それは……考える」
安倍は、深く煙を吸った。
怒っているわけではない。
呆れているときの顔だった。
「お前は、優しさを無料にしすぎる」
「金取ったら、優しさやないやろ」
「違う」
安倍は即答した。
「続けられない優しさは、ただの思いつきだ」
何も言い返せなかった。
「店を始めた理由を忘れたか」
「誰でも帰って来られる場所を作りたかった」
「なら、帰って来たときに店がある必要がある」
安倍は帳簿を指で叩いた。
「潰れた店は、誰の居場所にもなれない」
正論だった。
正論は、だいたい言われたくないときに言われる。
「夢を持つ人間は、数字を敵だと思いすぎる」
安倍は続けた。
「数字は、夢をやめさせるためにあるんじゃない。今のままなら、いつまで続けられるかを教えるためにある」
「じゃあ、客からもっと取れって?」
「必要な金額は取れ。助けたい客がいるなら、月にいくらまで助けられるか決めろ。店の金と、お前の感情を同じ財布へ入れるな」
「全部、値段つけるんやな」
「俺は不動産鑑定士だ」
「無料の方が、客は喜ぶやろ」
「価格と価値を混ぜるな」
安倍は、俺の前に置いた紙を裏返した。
「無料だから価値があるわけじゃない。金を取るから価値がなくなるわけでもない」
「でも、金ない客もおる」
「その一人を助けるために、ほかの客が帰る場所までなくすのか」
言い方は冷たい。
だが、安倍が見ているのは、今夜ここへ来ている一人ではなかった。
来月来る客。
来年、初めて扉を開ける客。
まだ会ったことのない人間まで含めて、店を残そうとしていた。
「価値を守るために、必要な価格もある」
安倍は言った。
「お前が作る煙に金を払う客を、もっと信用しろ」
「人間にも値段つけるん?」
「人間にはつけない」
安倍はホースを置いた。
「ただし、人間が選んだことに、どんな代価があるかは考える」
その言葉で、美緒の顔が浮かんだ。
昔と変わらない、可愛い笑顔。
一回だけだからと、ホストの店へ向かおうとしていた顔。
「なあ、安倍」
「何だ」
俺は、美緒のことを話した。
看護学校からの親友であること。
街で声をかけられた男がホストだったこと。
毎日連絡を取るうちに、少しずつ様子が変わったこと。
店へ行くのを止めたが、聞かなかったこと。
安倍は途中で口を挟まなかった。
聞き終えると、最初に尋ねた。
「彼女は、助けてくれと言ったのか」
「言ってない」
「金を貸してくれとは?」
「まだ何も使ってない」
「仕事を休んだか」
「休んでない」
「なら、今のところ彼女がしたのは、気になる男の店へ行っただけだ」
「相手はホストぞ」
「職業だけで有罪にはできない」
「シナみたいになるかもしれん」
「ならないかもしれない」
「なってからじゃ遅いやろ」
声が強くなった。
安倍は表情を変えなかった。
「お前が腕を掴んで、店へ行かせなければ、それで解決するのか」
「少なくとも今日は行かん」
「明日は、お前に隠れて行く」
返す言葉がなかった。
「止めることと、選択を奪うことは違う」
「なら、黙って見とれって?」
「見ていろ。黙る必要はない」
安倍はBERGAMOTの煙を吐いた。
「危ないと思う理由は伝えろ。困ったときは連絡しろと言え。金は貸すな。嘘の片棒は担ぐな。本当に危険なら、嫌われても必要な助けを呼べ」
「それまで、待つん?」
「待つんじゃない。関係を切らずに見ているんだ」
安倍の声は、いつもと同じだった。
正しいことを教える教師の声ではない。
いくつかある道を並べ、どの道にどんな危険があるかを示す、鑑定士の声だった。
「お前は、自分が正しかったと証明したいわけじゃないだろ」
「当たり前や」
「嫌な予感を外したいんだろ」
「そうよ」
「なら、正しさを押しつけるな」
安倍は、誰も座っていないソファを見た。
「帰って来られる席だけ、空けておけ」
その言葉は、帳簿の数字より深く残った。
俺は、美緒を止められなかった。
正確には、俺の言葉で止まるところに、美緒はもういなかった。
それでも、戻って来たときに座る場所なら用意できる。
話したくなければ、何も聞かずGRAPEFRUITを出せばいい。
助けてと言われたとき、初めて一緒に出口を探せばいい。
それまでは、店を潰さず、扉を開けておく。
安倍の話は、結局いつも数字へ戻ってくる。
「ところで」
俺は、安倍のシーシャを指した。
「なんで、毎回ベルガモットなん?」
「好きだからだ」
「それだけ?」
「味を選ぶのに、ほかの理由がいるのか」
「もっと鑑定士っぽい答えないん」
安倍は少し考えた。
「ベルガモットは、単体で目立つ味じゃない」
「ほう」
「だが紅茶へ混ざれば、ただの紅茶をアールグレイという別の名前に変える」
「自分みたいや言いたいん?」
「どうしてそうなる」
安倍は本気で嫌そうな顔をした。
俺は笑った。
親友が、OMNIBUSの種を落とした。
先輩が、それを育てろと言った。
安倍が、根を張れる場所を選んだ。
客の前で目立つ男ではない。
だが、安倍が混ざったことで、俺の夢は店になった。
BERGAMOT。
主役でなくても、混ざったものの名前を変える味がある。
OMNIBUSにとって、安倍はそういう男だった。
本人に言えば、持分は同じだから脇役ではないと訂正されそうなので、黙っておくことにした。




