第八煙 GRAPEFRUIT
看護学校で一番真面目だった女が、街でナンパされた。
それだけで人が変わるはずはない。
少なくとも、その話を初めて聞いたときの俺は、そう思っていた。
美緒とは、看護学校で出会った。
いつも授業が始まる二十分前には席へ着いていた。
教科書には色の違う付箋が並び、ノートの文字は印刷したように整っていた。
先生が黒板へ書かなかった話まで、小さな字で余白に残している。
試験前になれば、普段ほとんど喋らない同級生まで、美緒のノートを借りに来た。
俺は、その中でも特によく借りる人間だった。
「また寝よったやろ」
「寝てない。目を閉じて集中しよった」
「寝息で?」
「呼吸法よ」
「患者さんの前でやったら、あんたが看護されるけんね」
そう言いながらも、美緒はノートを貸してくれた。
真面目だが、堅苦しい女ではなかった。
笑うと、目が細くなった。
普段きちんとしている分、くだらないことで笑ったときの顔が、余計に可愛く見えた。
俺が覚えにくい筋肉の名前へ下品な語呂をつければ、やめてと言いながら笑った。
実習で怒られた日は、帰り道に担当教員の物真似をして、二人で腹を抱えた。
一緒に看護学校へ入った男の親友が途中で辞めてからは、美緒といる時間がさらに増えた。
授業が終われば、そのまま二人で飯を食いに行った。
金がない日は、安い定食屋。
少し余裕があれば、学校から離れたファミリーレストラン。
試験に受かった日は焼肉。
落ちた日は、次の試験勉強をするという名目で、やはり飯を食った。
美緒は勉強ができたが、身体を使うことは苦手だった。
ベッドから車椅子へ人を移す練習では、何度やっても腰が引けた。
俺が相手役になり、体重のかけ方を教えた。
その代わり、俺は薬の名前と計算を教えてもらった。
「あんた、身体だけで看護師になるつもり?」
「患者持ち上げる試験なら首席よ」
「そんな試験ないけん、勉強して」
得意なものは違った。
だから、一緒にいると大抵のことは何とかなった。
美緒は、どの店へ行ってもグレープフルーツジュースを頼んだ。
「それ、苦ないん?」
「甘いだけの飲み物、苦手なんよ」
「女の子は、もっと可愛いもん頼むんやないん」
「令和に言うたら怒られるよ、それ」
「今も怒っとるやん」
「私は笑いよる」
美緒は、ストローから口を離して笑った。
その笑顔を見るたび、もし俺に嫁がいなければ、この女と一緒になっていたかもしれないと思った。
正確に言えば、学校へ入った頃はまだ恋人だった女が、卒業する頃には嫁になった。
美緒も嫁のことを知っていた。
俺が結婚すると決まったときは、自分のことのように喜び、二人で使える食器を贈ってくれた。
「奥さん泣かせたら、私が許さんけんね」
「なんでお前に怒られないかんの」
「あんた一人じゃ、絶対ろくなことせんやろ」
何も言い返せなかった。
美緒と俺の間に、隠したことはなかった。
飯へ行くことも、連絡を取ることも、嫁は知っていた。
だからといって、何も感じたことがないと言えば嘘になる。
美緒の笑顔を可愛いと思った。
隣にいると楽だった。
違う順番で出会っていれば、違う人生もあったのかもしれない。
だが、人間関係は可能性の数で決めるものではない。
近いからこそ、越えない線がある。
美緒が俺をどう思っていたのかは、聞かなかった。
聞かなかったから、俺たちは長く友達でいられた。
卒業後、俺たちは別の職場へ就職した。
俺は俺の病院で働き、美緒は市内の総合病院へ入った。
勤め先が変わっても、月に一度か二度は飯を食った。
愚痴の内容が、教員から先輩看護師と医者へ変わっただけだった。
俺に嫁ができ、やがて離婚し、看護師をしながらOMNIBUSを始めても、美緒との関係には名前が増えなかった。
条件だけを見れば、昔考えた“もし”を邪魔するものはなくなった。
それでも、長く大切にしてきた関係を、今さら試す気にはなれなかった。
恋人になれるかもしれない相手より、失いたくない親友でいる方が、俺には大事だった。
OMNIBUSができてから、美緒は仕事帰りに店へ来るようになった。
頻繁ではない。
夜勤が続いたときや、誰かに愚痴を聞いてほしいとき、思い出したように扉を開けた。
最初にフレーバーを聞いたとき、美緒は迷わなかった。
「グレープフルーツある?」
「煙でも、それなん?」
「好きなんやけん、ええやろ」
俺はグレープフルーツを単品で作った。
柑橘の明るい香り。
舌の奥に残る、わずかな苦味。
美緒は一口吸い、昔と同じように目を細めた。
「これ、好き」
それから、美緒が来るときは、何も聞かずGRAPEFRUITを用意した。
美緒がナンパされたと聞いたのも、いつものように二人で飯を食っていた夜だった。
駅近くの定食屋。
美緒は焼き魚の骨を綺麗に外しながら、何でもないことのように言った。
「この前、街で声かけられた」
「患者に?」
「なんで街で患者に呼び止められるん」
「ナンパ?」
「たぶん」
美緒は少し照れたように笑った。
「たぶんって何ぞ」
「連絡先聞かれた」
「教えたん?」
「最初は断ったよ」
その言い方で、最後には教えたのだと分かった。
「なんで教えるんぞ」
「悪い人には見えんかったし。友達からでええって言うけん」
「ナンパする男は、だいたいそう言うよ」
「経験者みたいに言うやん」
「されたことはないけどな」
「そりゃそうやろね」
「殴るぞ」
美緒は笑った。
いつもの笑顔だった。
ただ、その男の話をするときだけ、頬が少し赤く見えた。
「何て言われたん?」
「笑顔が可愛いって」
「その程度で連絡先教えたんか」
「その程度って言わんといてや」
美緒は箸を置いた。
「私、真面目とか、頼りになるとかは言われるけど、可愛いってあんまり言われんけん」
冗談にして流そうと思った。
だが、美緒の声は思ったより真剣だった。
俺は、美緒の笑顔を何度も可愛いと思ってきた。
一度でも本人へ言ったことがあっただろうか。
思い返しても、出てこなかった。
「まあ、見る目はあるんやないん」
ようやく言うと、美緒は少し驚いたあと、笑った。
「何それ。気持ち悪い」
「褒めたのに?」
「あんたに言われると、今さらすぎるんよ」
そう言って、また魚を食べ始めた。
その日は、それで終わった。
連絡先を交換しただけ。
まだ二人きりで会ってもいない。
美緒が少し嬉しそうだったから、俺もそれ以上は何も言わなかった。
大人の女が誰と連絡を取るかは、美緒が決めることだ。
だが、その日から、美緒は少しずつ変わった。
最初に変わったのは、携帯を見る回数だった。
飯を食っていても、画面が光るたびに手を伸ばす。
通知を読めば笑い、返事を考えるときだけ黙る。
「例の男?」
「うん」
「よう続くな」
「話しやすいんよ」
男は、美緒の勤務を覚えていた。
日勤の日には朝、頑張ってと送ってきた。
夜勤が明ける頃には、お疲れさまと届いた。
美緒が患者のことで落ち込めば、答えを出そうとせず話を聞いた。
「今日も飯食べたん? って聞いてくれるんよ」
「俺も聞いたことあるぞ」
「あんたは、ついでに自分が何食べたいか言うやん」
「飯誘うとんやけん、当たり前やろ」
「そういうとこよ」
美緒は呆れた顔をした。
まだナンパされた日から、一度も二人きりで会っていなかった。
それでも、起きたときと眠る前に言葉を交わす相手は、月に数度飯を食う俺より、美緒の日常を知り始めていた。
会った回数と、心へ入る深さは、必ずしも同じではない。
次に会ったときは、爪に薄い色がついていた。
看護師の仕事では邪魔にならないよう、休みの日だけ塗っているらしかった。
その次は、今までつけていなかった香水の匂いがした。
髪の巻き方が変わった。
服の色が変わった。
どれも、それだけなら悪いことではない。
誰かを好きになり、少し綺麗になろうとする。
むしろ、いい変化に見えた。
美緒は以前よりよく笑うようになった。
だが、その笑顔は携帯の画面へ向けられることが増えた。
俺との飯は、何度か直前に断られた。
仕事が入った。
同僚と約束ができた。
疲れて寝てしまった。
理由は毎回違った。
謝る言葉だけは、いつも真面目だった。
ある夜、午前三時に美緒から電話がかかってきた。
夜勤かと思って出ると、電話の向こうは静かだった。
「何かあった?」
「別に」
「別にで三時に電話するなや」
美緒は少し黙った。
「あの人、返事ないんよ」
「仕事中やないん」
「六時間も?」
「接客業なんやろ。忙しい日もあるわ」
「そうよね」
納得した声ではなかった。
「私、何か変なこと送ったかな」
「送ったん?」
「普通のことだけ」
「なら寝ろ。返事は起きてから見たらええ」
「うん。ごめん」
翌朝、昨日は変な電話をしてごめんとメッセージが来た。
そのすぐあとに、返事が来た、忙しかっただけみたい、と笑顔の印が続いた。
男からの一通で、美緒の夜は眠れなくなった。
次の一通で、何もなかった日に戻った。
その振れ幅が、少しずつ大きくなっていた。
それからも、深夜になると短い質問が届いた。
――男の人って、毎日連絡するもん?
――会いたいって言われたら、信じてええんかな。
――夜の仕事しよる人って、休みの日も客と連絡取る?
最後の質問で、指が止まった。
――そいつ、何の仕事なん。
返事は、しばらく来なかった。
――接客業。
それ以上、美緒は書かなかった。
俺も電話まではしなかった。
まだ、何も起きていなかったからだ。
その数日後、美緒がOMNIBUSへ来た。
夜の十時を過ぎていた。
仕事帰りではなかった。
普段より濃い化粧をし、細いヒールを履いていた。
黒いワンピースは似合っていたが、何度も裾を気にしているのを見れば、着慣れていないことは分かった。
「今日、えらい格好しとるな」
「変?」
「いや。似合っとるよ」
「ほんまに?」
「俺が嘘つくときは、もっと上手に言う」
「それ、信用してええん?」
美緒は笑い、いつもの席へ座った。
俺は何も聞かず、GRAPEFRUITを作った。
美緒は煙を吸いながら、何度も時計を見た。
「このあと、どっか行くん?」
「うん」
「誰と?」
「この前、話した人」
美緒は携帯を差し出した。
画面には、髪を明るく染めた男の写真が映っていた。
整った顔。
高そうなスーツ。
名前の横には、聞いたことのない店の名前と、夜の街の住所が書かれていた。
画面を横へ送ると、酒のボトルと、派手な照明と、同じような男たちが並んでいた。
「ホストやないか」
「うん」
悪びれる様子はなかった。
「街でナンパされたんやなかったん?」
「あの日は仕事中やなかったよ。普通に休みで歩きよったんやって」
「ホストなんは変わらんやろ」
「分かっとるよ」
美緒は少し不機嫌そうにホースを置いた。
「私だって、営業されとるかもしれんくらい分かるけん」
「かもしれん?」
「でも、お店来てってしつこく言われたわけやないし。毎日普通に話してくれるんよ」
「それで今日は?」
「一回、顔出してみるだけ」
少し前、シナも同じようなことを言っていた。
向こうも仕事だと分かっている。
営業だと知っている。
自分だけは、客と店員の境目を見失わない。
そう言いながら、吸いかけのLADY KILLERを残し、白い封筒を持って男の店へ向かった。
美緒の前には、まだ半分以上残ったGRAPEFRUITがある。
「やめとけ」
気づけば、口から出ていた。
美緒の笑顔が消えた。
「なんで?」
「嫌な予感がする」
「何それ」
「理由はうまく言えん」
「私が騙されそうに見える?」
「真面目な人間が騙されんのなら、世の中もっと平和よ」
「心配しすぎ」
美緒は携帯を鞄へ入れた。
通知が一度、短く震えた。
「初回は安いし。今日、一回だけやけん」
昔と変わらない、可愛い笑顔だった。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。
まだ、金を使ったわけではない。
仕事を休んだわけでも、誰かに嘘をついたわけでもない。
ただ、声をかけてきた男の店へ、一度行くだけだ。
何も起きていない。
それでも俺は、面倒事の匂いだけは昔からよく分かる。
GRAPEFRUIT。
明るく甘い香りのあとから、苦味は遅れてやって来る。
その夜、美緒の笑顔にも、同じ味がした。




