第七煙 GUILTY GANG
親父と母親がOMNIBUSへ入ってきた瞬間、俺は火のついた炭を一つ、床へ落としかけた。
平日の夜だった。
客はタカダさん一人。
いつもの席で、ブルーベリーミントとチェの煙草を交互に吸いながら、今月の営業目標がどうのと話していた。
「じゃけぇ、数字だけ見て人を動かそうとするけぇ駄目なんよ。売上は最後に出る結果じゃろ。先に見るもんじゃねぇわ」
「敏腕営業が珍しくまともなこと言いよる」
「珍しくは余計じゃ」
そのとき、扉のベルが鳴った。
俺は炭を挟んだトングを持ったまま、顔を上げた。
先に入ってきたのは親父だった。
暗い色のスーツ。
白いものが増えた短い髪。
派手な指輪も、柄の悪いシャツも身につけていない。
知らない人間が見れば、少し姿勢のいい会社役員にでも見えただろう。
だが、親父は昔から、見た目で相手を脅す必要のない男だった。
何も言わずに立っているだけで、その場にいた人間の声が一段小さくなる。
その後ろから、母親が入ってきた。
落ち着いた色のコート。
綺麗に整えた髪。
口元には薄い紅が引かれていた。
親父より柔らかく見えるが、あの人の隣で何十年も生きてきた女だ。
弱いわけがない。
二人を同時に見るのは、縁を切った日以来だった。
あの日も、親父は怒鳴らなかった。
実家の客間で、今日と同じように母親を隣へ座らせ、俺へ家へ戻るよう言った。
言う通りにすれば、俺が外で作った問題も、金のことも、すべて片づけてやると言った。
俺は断った。
自分で作った問題を、家の名前で消してもらえば、俺は一生そこから出られないと思った。
親父は長い間黙ったあと、なら今日から息子ではないと言った。
俺も、分かったと答えた。
母親は止めなかった。
家族が終わる瞬間にしては、ずいぶん短い会話だった。
そのあとで何度か人づてに連絡は来たが、俺は会わなかった。
だから、二人が店の場所まで知っているとは思っていなかった。
俺が家の名前を捨てたのか。
家が俺を捨てたのか。
今となっては、どちらでもよかった。
切れた縁は、切った側を決めたところで戻らない。
「いらっしゃいませ」
口から出た声は、自分でも驚くほど普通だった。
親父も母親も、俺の名前を呼ばなかった。
久しぶりとも、元気だったかとも言わない。
親父は店内を一度見回した。
「二人、空いとるか」
「空いてますよ。好きな席へどうぞ」
二人は、カウンターの正面にあるソファへ並んで座った。
タカダさんが俺を見た。
普段なら、見慣れない客が来れば何かしら声をかける男だ。
だが、そのときは何も言わなかった。
チェの煙草を灰皿へ置き、二人の様子を静かに見ていた。
俺は両親へメニューを渡した。
親父は開こうともしなかった。
母親は最初のページから最後まで目を通し、閉じた。
「何がうまいのか分からん」
親父が言った。
「初めてなら、吸いやすいものにできますよ」
「おすすめでいい」
母親も小さく頷いた。
「私も同じもので」
「かしこまりました」
俺は棚の前に立った。
甘いものにするか。
柑橘にするか。
ミントは強くしない方がいい。
普段の客へするのと同じように考えながら、一本のフレーバーへ手を伸ばした。
GUILTY GANG。
罪のある一団。
名前だけなら、親父へ出すにはよく似合っている。
少し意地の悪い選び方だと思った。
だが、罪の数でフレーバーを決めるなら、俺の分も同じものを一台作るべきだった。
親父だけが悪い人間で、俺だけがそこから逃げた善人だったわけではない。
家を出たあと、俺は俺で、他人に話せないことをいくつもしてきた。
その話は、まだ別の煙に預けておけばいい。
フレーバーをボウルへ詰め、炭を載せた。
ボトルの水が鳴るまで、自分で何度か吸う。
煙の状態を確かめてから、両親の前へ運んだ。
「最初は、ゆっくり長めに吸ってください」
マウスピースを二つ、テーブルへ置いた。
親父は説明を聞いているのかいないのか分からない顔で、ホースを持った。
一度目は、短く吸った。
煙はほとんど出なかった。
二度目は、少し長く吸った。
吐き出した煙を見て、眉を寄せた。
「甘いな」
「そういうもんですよ」
親父はホースを母親へ渡した。
母親は俺が言った通り、ゆっくりと煙を吸った。
初めてにしては、親父よりうまかった。
白い煙を吐き、口元へ手を添える。
「変な感じ」
「無理に吸わなくても大丈夫ですよ」
「頼んだのだから、吸います」
昔から、母親はそういう女だった。
一度自分で選んだものは、気に入らなくても最後まで片づける。
その隣で、親父もまたホースへ手を伸ばした。
二人は、何も話さずシーシャを吸った。
親父が吸い、母親へ渡す。
母親が吸い、水を飲む。
炭が弱くなれば、俺を見た。
「炭、替えますか」
親父は頷いた。
一度。
二度。
三度目の炭を載せても、二人は帰らなかった。
親父は煙を吸う合間に、店の隅々を見ていた。
客席の数。
フレーバーが並ぶ棚。
レジの位置。
天井の換気口。
ただ珍しがっている目ではなかった。
商売として成り立つのか、値踏みしている目だった。
母親は、タカダさんへブルーベリーミントを出す俺の手元を見ていた。
炭を替え、酒を作り、灰皿を下げる。
俺が客とどんな話をし、どんな顔で笑うのかまで、黙って見ていた。
シーシャを吸いに来たというより、二人とも俺がここで何をしているのか確かめに来たようだった。
それに気づいても、俺は何も説明しなかった。
親へ夢を理解してもらいたい年齢は、もう過ぎていた。
店には、ボトルの中で水が鳴る音と、タカダさんが煙草の灰を落とす音だけが続いた。
家族で同じテーブルを囲むのは、何年ぶりだっただろう。
だが俺は座らなかった。
カウンターの内側に立ち、客へ煙を出す店主のままでいた。
一時間ほど経った頃、親父がホースを置いた。
「これが、お前のやりたかったことか」
初めて、俺を息子として見る声だった。
「味は、どうでした?」
俺は店員として返した。
親父の眉が、わずかに動いた。
「甘ったるい煙を吸うために、何時間も座る。何が面白いのか分からん」
母親も、服の袖へ鼻を近づけた。
「匂いが残るわね」
「ひとしきり吸って、炭を三回替えてから言うんですね」
「知らんものを貶す趣味はない」
親父は平然と答えた。
「試したから、つまらんと言える」
「それは、どうも」
親父は、もう一度店内を見回した。
「駅から遠い。通りから看板も見えん。席数も少ない」
「よく調べてますね」
「見れば分かる」
「この辺の家賃まで、見たら分かるんですか」
親父は答えなかった。
やはり、来る前から調べていたらしい。
母親が水のグラスを置いた。
「夜は店、昼は看護師。そんな生活がいつまでも続くと思っているの?」
「身体の心配してくれよるん?」
「効率の悪い生き方だと言っているの」
「それは昔からですよ」
母親はわずかに目を伏せた。
心配だとは、最後まで言わなかった。
「いつまで続けるつもりだ」
「客が来る間は」
「そういう話をしとるんじゃない」
声は低かった。
怒鳴ってはいない。
親父は、本当に怒っているときほど声を荒らげなかった。
母親が、テーブルの上で両手を重ねた。
「戻ってきなさい」
それも、説得ではなかった。
決まった予定を伝えるような口調だった。
親父が続けた。
「看護師も、この店もやめろ。家の仕事を継げ」
「嫌ですよ」
「お前がいつまでも意地を張る話じゃない」
「意地やない。俺の仕事です」
「こんなものがか」
親父は、まだ煙の残っているシーシャを見た。
「嫁とも、もう一度籍を入れろ。戻る場所を元へ戻せば、それで済む」
俺が離婚した女を、親父と母親はいまだに嫁と呼んだ。
俺よりも、あの人の方が、あの家では出来のいい子供だったのかもしれない。
「もう嫁やないですよ」
「あなたが頭を下げればいいでしょう」
母親が言った。
「頭を下げて済まんこともあるんよ」
「済ませなさい。あなた一人の人生ではないのだから」
「あの人の人生でもあるやろ。俺らだけで勝手に戻す話やない」
「あの人も、元の形に戻る方が幸せよ」
「それを母さんが決めるん?」
母親は黙った。
親父が代わりに口を開いた。
「家へ戻れば、お前一人では片づけられんことも片づく。あの女にも、必要なものは与えられる」
「金と家があれば、結婚が戻ると思っとるんですね」
「ないよりはいい」
親父らしい答えだった。
親父は金で愛情を買えるとは思っていない。
ただ、金で解決できない問題など、解決する価値がないと思っている。
俺は、そういう考え方の中で育った。
だからこそ、自分の失敗を家へ持ち帰りたくなかった。
正しい部分があるからこそ、腹が立った。
離婚したことも、誰かを傷つけたことも、俺の罪だ。
だが、罪を償うことと、昔の形へ無理に戻すことは同じではない。
俺は二人の前へ、会計票を置いた。
「縁は切ったんですから、俺たちは親子じゃないですよ。お客さん」
店の空気が止まった。
タカダさんが吸うのをやめたのが、視界の端で分かった。
親父は俺を見た。
俺も目を逸らさなかった。
殴られるとは思わなかった。
怒鳴られるとも思わなかった。
ただ、子供の頃から何度も見てきた沈黙が、俺の返事を変えるのを待っていた。
俺は変えなかった。
やがて親父は、小さく息を吐いた。
「そうか」
母親が会計票を手に取り、金額を確認した。
財布から紙幣を出し、テーブルへ置く。
その横で、親父が言った。
「その方が、お前にとって都合のいいこともあるか」
母親も、静かに頷いた。
「ええ。私たちと親子ではない方が、あなたの仕事には都合がいいでしょう」
それは嫌味にも聞こえた。
最後に残った親心にも聞こえた。
親父の名前は、家の中では盾になった。
だが、一歩外へ出れば、銀行口座一つ、部屋一つ、仕事一つにも影を落とす。
親子ではない方が都合がいいという言葉は、事実でもあった。
俺が縁を切ったつもりでも、血まで説明書から消せるわけではない。
どちらだったのか、聞かなかった。
親父が置いた金は、会計より多かった。
俺はレジを開け、釣りを一円まで数えた。
「お釣りです」
母親が受け取った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
二人は立ち上がった。
親父は振り返らなかった。
母親だけが、扉の前で一度、店内を見た。
何かを言いかけたように見えたが、そのまま扉を開けた。
ベルが鳴り、二人の姿が階段の下へ消えた。
俺はしばらく、閉じた扉を見ていた。
テーブルには、吸い終えたGUILTY GANGが残っていた。
三度替えた炭も、今は小さくなっていた。
「あれ、親父さんじゃろ」
タカダさんが言った。
「大丈夫か」
「なんで分かったん」
「目が同じじゃ」
タカダさんはチェの煙草へ火をつけた。
「二人とも、相手が折れるまで黙って待つ目ぇしとる」
「嫌なとこ似たな」
「顔も少し似とるぞ」
「それは認めん」
俺は両親が使ったマウスピースを片づけた。
「あの人、地元じゃちょっと有名なヤクザよ」
「ちょっとどころじゃなかろうが」
「知っとったん?」
「どっかで見た顔じゃ思うとった。営業しよったら、会わん方がええ人の顔も覚えるんよ」
タカダさんは、ブルーベリーミントの煙を吐いた。
「ほんなら、お前はあの人の子供か」
「元、な。今は親子やないけん」
「ヤクザの息子が看護師になって、シーシャ屋しよるんか」
「悪い?」
「いや。親父さんも、お前の進路だけは読めんかったじゃろうな」
俺は笑った。
張りつめていたものが、そこでようやく少し緩んだ。
「しかし、親子三人で同じフレーバー吸うたんじゃろ」
「俺は吸ってないよ」
「似たようなもんじゃ。家族なら、GUILTY GANGは家族割にせにゃいけんかったんじゃないんか」
「縁切っとるけん、二名分きっちり取ったよ」
タカダさんが声を上げて笑った。
俺も、つられて笑った。
切れた縁は、煙のようには消えてくれない。
だが、笑い話にできるくらいまで薄くなる夜はある。
GUILTY GANG。
罪のある一団という名の煙は、親子で吸っても、家族割にはならない。




