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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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6/7

第六煙 LADY KILLER

俺は、風俗へ行ったことがある。


一度ではない。


何度かある。


若かったからでも、女に騙されたからでもない。


行きたかったから金を払い、自分の足で店の扉をくぐった。


だから、風俗嬢を見て可哀想な女だとは思わない。


身体を売る悪い女だとも、男を騙す怖い女だとも思わない。


働いて、金を受け取り、終われば疲れて帰る。


職種が違うだけで、そこは看護師も、シーシャ屋も、大して変わらない。


風俗で金を払って買えるのは、女そのものではない。


決められた時間。


拒まれない会話。


そして、自分が客でいられる安心だ。


それを知っていたから、シナが初めてOMNIBUSへ来た夜も、俺は何も聞かなかった。


シナが店へ入ってきたのは、日付が変わる少し前だった。


細いヒールの音が、階段から近づいてきた。


扉が開き、甘い香水の匂いが煙の中へ混ざった。


肩の出た黒い服。


巻いた長い髪。


崩れていない化粧。


身なりだけを見れば、これから夜の街へ遊びに行く女に見えた。


だが、目だけが一日を終えた人間のものだった。


「一人、いける?」


「どうぞ。好きな席へ」


シナは店内を見回し、カウンターに一番近いソファへ座った。


大きな鞄を足元へ置き、携帯と、厚みのある白い封筒をテーブルに出した。


「何時まで?」


「客がおる間は開けとるよ」


「じゃあ、一時間くらい」


「急ぎ?」


「一時から、もう一軒」


渡したメニューを、赤く塗った爪がなぞった。


しばらく眺めたあと、シナは一つの名前を指した。


「LADY KILLERって、どんな味?」


「甘い果物に、少しミント。名前ほど物騒な味やないよ」


「じゃあ、それ」


「物騒な名前で決めたん?」


「私、男を見る目ないけん。味くらいは危ないやつ選んでみようかなって」


初対面の人間へ言う冗談にしては、少しだけ実感がありすぎた。


俺はLADY KILLERを作り、シナの前へ置いた。


シナは慣れた手つきでホースを持った。


長く吸い、白い煙を細く吐く。


「うま」


「シーシャ、よく吸うん?」


「たまに。仕事終わりに行ける店、探しよったんよ」


「夜の仕事?」


「風俗」


隠す様子もなく答えた。


俺も、それ以上は聞かなかった。


店の名前も、働き方も、どんな客を取っているのかも。


OMNIBUSでは、客が自分から置いたものだけを、テーブルの上に置けばいい。


シナと名乗った名前が本名なのか、源氏名なのかさえ尋ねなかった。


ここでは、シナと言うならシナだった。


「理由、聞かんの?」


シナの方から尋ねた。


「何の?」


「なんで風俗しよるんか。男の人って、だいたい聞きたがるやん」


「借金とか、家庭の事情とか?」


「そうそう。可哀想な理由を見つけたら、自分だけは分かってあげられるみたいな顔するんよ」


「理由あるん?」


「金がええから」


即答だった。


「昼の仕事もしたよ。服売ったり、受付したり。でも、同じ一時間なら今の方が稼げるけん始めた。それだけ」


「仕事、好き?」


「好きな日もあるし、二度と行きたくない日もある。店長もそうやろ」


「まあな」


「風俗嬢って言うた瞬間、全員が泣きながら働いとることにしたがる人、おるんよ。勝手に不幸にして、勝手に救おうとする」


「救ってほしくない?」


「少なくとも、会って五分の男にはね」


シナは笑って、またホースを咥えた。


仕事を始めた理由は、金だった。


その金の行き先まで、最初から同じだったわけではない。


だが、人間は稼ぐ理由をあとから見つけてしまう。


シナの場合、それが一人のホストだった。


しばらく、シナは黙ってシーシャを吸っていた。


携帯の画面を何度も確認し、そのたびに伏せる。


白い封筒へ手を伸ばしては、触れずに戻す。


やがて、俺を見た。


「店長、風俗行ったことある?」


「あるよ」


シナの眉が上がった。


「即答するんや」


「嘘つく理由ないけん」


「何回?」


「何回か」


「何しに?」


「風俗へ行って、ほかに何するんぞ」


シナは声を上げて笑った。


初めて、年相応の顔になった。


「店長みたいなんが一番面倒そう」


「失礼やな」


「終わったあと、急に人生相談しそうやん」


「金払って説教聞かせるほど性格悪ないわ」


「じゃあ、女の子が言うこと、信じる?」


「何を?」


「会いたかったとか、こんなん初めてとか、特別やとか」


俺は少し考えた。


「信じた方が、その時間は楽しいやろ」


シナは、試すように俺を見ていた。


「嘘やって分かってても?」


「嘘が料金に入っとるなら、受け取ったらええ」


「分かっとるやん」


シナは満足そうに頷いた。


俺にも、同じ女を二度指名したことがあった。


二度目に会ったとき、その女は俺の仕事を覚えていた。


前に話した愚痴まで覚えていて、大変だったねと言った。


客の情報を記録していたのかもしれない。


本当に覚えていたのかもしれない。


どちらでもよかった。


自分のために用意された言葉は、嘘だと疑いながらでも人を温める。


人間は、真実だけで生きているわけではない。


「うちらも大変なんよ」


シナは煙を吐きながら言った。


「奥さんの愚痴聞いて、仕事の自慢聞いて、誰にも言えん性癖聞いて。最後は、また会いたいって思わせて帰すんやけん」


「シーシャ屋と似とるな」


「やろ? 店長とうちら、ほぼ同業よ」


「うちは脱がんけどな」


「需要ないもんね」


「帰れ」


「一時間おる言うたやん」


また、シナは笑った。


笑い方がうまい女だった。


客の前でも、きっと同じように笑うのだろう。


だが、うまい笑顔がすべて嘘とは限らない。


作り慣れた煙でも、味まで偽物になるわけではない。


「一時から、どこ行くん?」


俺が聞くと、シナは伏せていた携帯を裏返した。


待ち受けには、派手な髪をした若い男が映っていた。


「担当のとこ」


「ホスト?」


「うん」


「仕事終わりに、また接客されに行くんか」


「今度は私が客になるんよ」


その言い方には、妙な誇りがあった。


一日中、男に選ばれる側でいた女が、金を持った瞬間だけ、男を選ぶ側へ回る。


相手が自分へ笑いかける理由が、金だとはっきりしている。


曖昧な好意より、値段のついた優しさの方が安心できる人間もいる。


「客って、楽なんよ」


シナは言った。


「お金払っとる間は、機嫌よくおってくれるやろ。急に嫌われても、時間までは隣におってくれる」


「シナの客も、同じこと思っとるんやろな」


「たぶんね」


担当と出会ったのは、八か月ほど前だった。


同じ店で働く女に誘われ、初回料金の安さにつられて入った。


一度だけのつもりだったらしい。


何人もの男が入れ替わる中で、その担当だけが、シナの仕事を聞かなかった。


無理に酒を飲ませず、好きな音楽と、休みの日に何をしたいかを聞いた。


次に行ったときには、甘い酒が苦手だと言ったことまで覚えていた。


「客の情報、覚えるんも仕事やろ」


「そうよ」


「なら、特別やないやん」


「仕事でも、覚えてくれん男はいっぱいおるけん」


シナの言う通りだった。


営業だから価値がないわけではない。


金のためにする優しさにも、上手い下手がある。


シナはその男の営業が好きだった。


それを、恋と呼ぶようになった。


「担当は、シナが風俗しよるん知っとるん?」


「知っとるよ」


「何て?」


「無理すんなって言うてくれる」


俺はテーブルの白い封筒を見た。


「それ持って行くのに?」


「これは私が勝手にしよることやけん」


「担当も仕事やろ」


「分かっとるよ」


シナは、少しだけ声を強くした。


「私も仕事で男に好きって言うんよ。営業なんは分かっとる。店長より、よっぽど分かっとるけん」


「なら、ええけど」


「そうやって、分かった顔で可哀想って思うんやろ」


「思わんよ」


「嘘」


「俺も金払って女に優しくしてもろたことある言うたやろ。買う側の気持ちも、少しは分かる」


シナは黙った。


「分かっとって買うもんもある。必要なら行ったらええ」


「ほら、やっぱ分かっとるやん」


今度の笑顔は、少し弱かった。


その夜、シナは一時間きっちりシーシャを吸った。


会計を済ませ、白い封筒を鞄へ入れた。


扉を開ける前に振り返る。


「ここ、また来てもええ?」


「次からは聞かんでええよ」


「風俗嬢でも?」


「ここで煙吸うんに、職業欄はないけん」


シナは笑い、夜の街へ戻っていった。


それから、シナはOMNIBUSの常連になった。


週に一度。


多いときは、三度来た。


いつも仕事とホストの間だった。


注文はLADY KILLER。


テーブルには携帯と、白い封筒。


煙を吸いながら仕事の愚痴を言い、担当から連絡が来れば、急に機嫌がよくなった。


シナは、自分の客を馬鹿にしなかった。


名前も、店で起きたことも、決して詳しく話さなかった。


ただ、寂しい男が多いとは言った。


妻がいても、子供がいても、部下が何十人いても、誰かに自分だけを見てほしい男が来る。


「みんな、特別になりたいんよ」


シナは言った。


「私が名前呼んで、会いたかったって言うたら、顔が変わるんよ。可愛いよね」


「シナも同じやないん」


俺が言うと、笑顔が止まった。


「何が?」


「担当に名前呼ばれて、会いたかったって言われに行きよるんやろ」


「私は客とは違うよ」


「シナの客も、たぶん同じこと思っとるよ」


シナはホースを置いた。


怒るかと思ったが、ため息をついただけだった。


「嫌な店やね。金払って正論まで聞かされる」


「説教はせんよ」


「今のは?」


「感想」


「もっと悪いやん」


そう言って、また煙を吸った。


シナは、担当が自分だけを特別に扱っているとは言わなかった。


ほかにも客がいる。


誰にでも同じような言葉を送っている。


自分の金が、担当の売上になっている。


全部知っていた。


それでも、担当が落ち込めば朝まで電話をした。


順位が下がれば出勤を増やした。


誕生日が近づけば、自分の家賃より高い酒を調べた。


「今月だけ、ちょっと頑張るんよ」


何度目かの夜、シナが言った。


目の下は、化粧でも隠しきれていなかった。


「先月も聞いたぞ、それ」


「先月と今月は違うけん」


「何が?」


「締め日までに、あと三十万入ったら、担当がナンバーに戻れるんよ」


「戻ったら、シナに何があるん?」


「喜ぶ」


「誰が?」


「担当が」


「シナは?」


答えは返ってこなかった。


代わりに、深く煙を吸った。


甘い煙を吐く途中で、シナは咳をした。


水を渡すと、一気に半分ほど飲んだ。


「寝てないん?」


「昨日、三時間」


「その前は?」


「覚えてない」


「休めや」


「今休んだら間に合わんのよ」


「誰の人生に?」


シナは俺を睨んだ。


それ以上は言わなかった。


知っている人間へ正しい答えを渡しても、知識が一つ増えるだけだ。


シナは、自分が何をしているか分かっていた。


分かっているから、やめられるわけではなかった。


その夜、先生も奥の席にいた。


スキンヘッドの頭を照明に光らせ、赤いペンで答案へ印をつけていた。


シナとの会話が途切れたあと、先生は顔を上げた。


「止めなくていいんですか」


小さな声だった。


「止めて聞くなら、もう行ってないですよ」


「そうですね」


先生は赤いペンを置き、ローズの煙を吐いた。


「理解している人ほど、間違いを認めるのが難しいこともあります」


「先生にも覚えがある?」


「ありすぎて、授業にできるほどです」


それだけ言って、また答案へ目を戻した。


日付が変わる少し前、シナの携帯が震えた。


画面を見た瞬間、疲れていた目に光が戻った。


――今どこ?


――今日きつい。シナに会いたい。


シナは立ち上がった。


「行くん?」


「うん」


「まだ二十分しか吸ってないぞ」


「置いといて。あとで戻るかも」


「煙は置いとけんよ」


「じゃあ、また作って」


白い封筒を鞄へ入れ、急いで上着を羽織った。


「それ、全部持って行くん?」


「私のお金やけん」


「そうやな」


「何、その顔」


「何も」


「大丈夫よ。あと三十万入れたら、今月は終わり」


「来月は?」


シナは答えなかった。


扉が閉まり、細いヒールの音が階段を下りていった。


テーブルには、吸い始めたばかりのLADY KILLERが残った。


炭はまだ赤い。


味も、煙も、これから一番よくなるところだった。


だが、吸う人間がいなければ、水は音を立てない。


俺は火のついた炭を外した。


シナは、その夜戻ってこなかった。


男に夢を売って稼いだ金で、別の男から夢を買う。


シナは、それが商売だと誰より分かっていた。


分かっていることと、抜け出せることは別だ。


LADY KILLER。


女を殺す男が、刃物を持っているとは限らない。


優しい声で名前を呼び、会いたいと短いメッセージを送る。


そして女が、自分の足で扉を開けるのを待っている。

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