第五煙 LOVE 66
親友は、女に捨てられるまで、自分が何を捨ててきたのか気づかなかった。
あいつが地元へ帰ってきたのは、OMNIBUSを開けた日だった。
だが、話をそこから始めると、まるで一晩で何もかも失ったように聞こえる。
そうではない。
人間が沈んでいくとき、大抵は音がしない。
大切なものを一つ手放すたび、本人には前へ進んでいるように見えることさえある。
始まりは、俺たちが初めてシーシャを吸った、二十歳の夜だった。
ツーアップルの煙を吸い終え、店を出ようとしたとき、親友の携帯に女からメッセージが届いた。
画面を見たあいつは、分かりやすく顔を緩めた。
最近知り合った、めっちゃええ子。
その夜、あいつが教えてくれたのは、それだけだった。
二人が付き合い始めるまで、ひと月もかからなかった。
親友は昔から、好きになったものを隠せない男だった。
新しい靴を買えば、頼んでもいないのに写真を送ってくる。
面白い曲を見つければ、会った瞬間にイヤホンを片方渡してくる。
女ができれば、聞いてもいないのに全部喋る。
「昨日、四時間電話した」
「暇なん?」
「話が尽きんのよ」
「四時間もあったら、だいたい尽きるやろ」
「お前には分からん」
そう言って笑う顔は、本当に幸せそうだった。
最初のうちは、俺もよかったと思っていた。
あいつが女と一緒にシーシャ屋へ行ったのは、付き合い始めて間もない頃だった。
あとで聞いた話では、女はツーアップルを一口吸って、顔をしかめたらしい。
「おじさんの香水みたい」
親友が、初めて吸った思い出の味だと説明しても、女はもう一度吸おうとはしなかった。
代わりに選んだのが、LOVE 66だった。
メロンやスイカの甘さに、酸味のある果実とミントが混ざった煙。
女は味より先に、その名前を気に入った。
「これ、私らの味にしようや」
そう言われて、親友も好きになった。
正確には、好きだということにした。
それからあいつは、俺とシーシャ屋へ行ってもLOVE 66を頼むようになった。
「お前、ツーアップルは?」
「あれ、アニスがきついやん」
「林檎二倍言うて喜びよったくせに」
「味覚も成長するんよ」
そう言って、甘い煙をうまそうに吐いた。
一つ目は、フレーバーだった。
その程度の変化なら、誰にでもある。
恋人が好きな曲を聴き、好きな店へ行き、嫌いな食べ物を避ける。
二人で生きるというのは、互いの好みを少しずつ混ぜることでもある。
だから俺も、何も気にしなかった。
当時、俺たちは同じ看護学校へ通っていた。
俺は看護師になることへ、立派な志を持っていたわけではない。
資格があれば食いっぱぐれにくい。
人の役に立つ仕事ではある。
それくらいの、現実的な理由だった。
親友も似たようなものだと思っていた。
だが、女と付き合い始めて半年ほど経った頃、あいつは学校を辞めると言い出した。
「看護師、向いてない気がする」
いつものシーシャ屋で、LOVE 66のホースを持ちながら言った。
「まだ実習もろくに行ってないやろ」
「行ってないけん分かることもある」
「便利な言い方やな」
「俺、もっと子供の成長に関わる仕事がしたいんよ」
親友は、保育士の資格を取るために専門学校へ入り直すつもりだった。
女に勧められたのかと聞くと、少し不機嫌になった。
「相談はしたよ。でも決めたんは俺やけん」
「なら、ええけど」
「あの子は、俺がほんまにやりたいことを考えろって言うてくれたんよ。安定だけで仕事を選ぶんは、違うやろって」
「それで保育士?」
「子供の頃に、ちゃんと自分を肯定してくれる大人がおったら、その後の人生が変わると思うんよ」
借りてきたような言葉だった。
だが、口先だけではなかった。
親友は本当に看護学校を辞め、専門学校へ入り直した。
実習へ行き、記録を書き、ピアノに苦戦しながら、最後まで通った。
俺が夜勤の実習でへとへとになっている頃、あいつは子供に配る画用紙の動物を切っていた。
「見てみ。これ、キリン」
送られてきた写真は、どう見ても首の長い犬だった。
「子供泣くぞ」
「感性が乏しいな」
そんな馬鹿なやり取りは、まだ続いていた。
二年後、親友は保育士の資格を取った。
卒業祝いに何が欲しいか聞くと、コーヒーミルと答えた。
保育園で使うのかと笑った俺へ、あいつは少し言いにくそうに告げた。
「俺、大手のコーヒーチェーンに就職することにした」
「保育士、どこ行ったんぞ」
「資格を取ったことは無駄やないよ」
「ほう」
「人の居場所を作る仕事がしたいんよ。子供だけやなくて、いろんな人が一息つける場所」
「それ、コーヒー屋なん?」
「ただコーヒーを売る店やないけん。地域の人が集まって、働く人も成長できる。そういう文化を作っとる会社なんよ」
あいつの言葉には、いつからか“成長”と“価値観”がよく出てくるようになった。
どちらも悪い言葉ではない。
だが、あいつが口にするたび、女の声が重なって聞こえた。
それでも、就職してからの親友はよく働いた。
豆の産地を覚え、客の好みに合わせて飲み物を勧め、休みの日にも資格の勉強をしていた。
接客は向いていたらしい。
常連の名前を覚え、子供連れの客には先に広い席を案内した。
保育士にはならなかったが、取った資格も学んだことも、あいつの中にはちゃんと残っていた。
問題は、仕事ではなかった。
親友の周りから、昔の友達が少しずつ消えていった。
最初は、飲み会へ来なくなっただけだった。
次に、連絡の返事が遅くなった。
やがて、何年も続いていた仲間の集まりを抜けた。
「あいつらとおっても、昔話ばっかりやけん」
「昔からの友達やけん、昔話するんやろ」
「これからの話ができる人と付き合いたいんよ」
「女に言われたん?」
「なんで全部あの子のせいにするんぞ」
声が強くなった。
「あの子は、人間関係も整理した方がええって言うただけよ。会うたびに酒飲んで、誰かの悪口言うような関係、続ける意味あるんかって」
「意味があるかないかで友達選ぶん?」
「お前は、何も変わらん人間とずっとおったらええわ」
その言葉は、思ったより深く刺さった。
俺は腹が立って、その日は先に店を出た。
あいつも追いかけてこなかった。
以前なら翌朝には、言いすぎたと連絡が来ていた。
そのときは、三週間来なかった。
久しぶりに届いたメッセージは、謝罪ではなかった。
――あの子、県外で就職決まった。
女が就職する会社は、地元から何時間も離れた県にあった。
親友も一緒に行くという。
大手のチェーンなら、土地が変わっても働ける。
向こうの店舗に空きがあり、異動の話も進んでいるらしかった。
出発する前の夜、俺たちは久しぶりに二人でシーシャを吸った。
もちろん、あいつが選んだのはLOVE 66だった。
「ほんまに行くんやな」
「一緒に来てほしいって言われたけん」
「仕事も、友達も、全部こっちにあるのに?」
「仕事は向こうでもできる。友達は、離れても友達やろ」
「お前が切ったやつらも?」
親友は答えなかった。
「俺はな」
しばらくして、煙の向こうから言った。
「あの子とおる自分が、一番好きなんよ」
その言葉を聞いて、俺は止められなくなった。
誰かといる自分を好きになれることは、きっと幸せなことだ。
ただ、それは一人になった自分を嫌いになることと、よく似ている。
「困ったら連絡せえよ」
「困らんわ」
「なら、たまには連絡せえ」
親友は笑った。
その笑い方だけは、二十歳の頃と変わっていなかった。
県外へ行ってから、あいつからの連絡はさらに減った。
最初の頃は、新しい部屋や、働く店の写真が届いた。
女と二人で選んだ家具。
休みの日に見つけた店。
知らない街の景色。
どの写真にも、ここでうまくやっていると証明したい気持ちが写っていた。
俺は看護師になり、嫁ができた。
職場の先輩とシーシャ屋を回るようになり、いつか自分の店を持ちたいと考え始めた。
俺の生活が変わる一方で、親友の写真は途切れた。
短い返事さえ来なくなった。
元気ならそれでいいと思うことにした。
そう思わなければ、腹が立った。
最後に電話がかかってきたのは、OMNIBUSを開ける一週間前だった。
深夜二時を過ぎていた。
電話に出ても、親友は何も言わなかった。
呼吸だけが聞こえた。
「生きとる?」
俺が聞くと、しばらくして声が返ってきた。
「振られた」
「そうか」
「新しい男、できたって」
女は就職先で知り合った男と、しばらく前から付き合っていた。
親友が気づいたときには、二人で暮らしていた部屋へ帰ってこない日の方が多くなっていた。
問い詰めると、女は別れたいと言った。
「ついてきてって言うたん、向こうぞ」
親友の声が震えた。
「俺、学校も変えて、仕事も選んで、知らん県まで来たんぞ。それなのに最後、何て言われたと思う?」
俺は黙っていた。
「勝手についてきたんやろ、って」
泣いているのか、笑っているのか分からない声だった。
「俺、こっちに誰もおらん」
その一言が、いちばん痛かった。
女を選んだからではない。
女だけを選び続けた結果だった。
「帰ってこいや」
俺は言った。
「帰って、ええんかな」
「地元はお前の女やないけん、許可なんかいらんわ」
「みんな、俺のこと嫌いやろ」
「嫌われるようなことしたけんな」
「そこは否定せえや」
「切った縁は、勝手には戻らん。一人ずつ頭下げて、拾い直せ」
電話の向こうで、親友が小さく笑った。
「お前、店いつ開けるん」
「来週」
「ほんまにシーシャ屋やるんやな」
「お前がやれ言うたんやろ」
長い沈黙のあと、親友は言った。
「帰るわ」
OMNIBUSの開店日。
最初の客になるはずだった先輩は、もういなかった。
俺は一人で看板の灯りをつけ、誰も座っていない席を眺めた。
客が来なかったらどうしようとは、不思議と思わなかった。
最初の一人が来るまで、開けておけばいい。
そう思っていると、扉のベルが鳴った。
親友が立っていた。
片手に、大きな旅行鞄を持っていた。
髪は伸び、頬が痩せていた。
着ている服は洒落ていたが、あいつ自身だけが、その中から抜け落ちているように見えた。
「いらっしゃい」
俺が言うと、親友は店内を見回した。
「ほんまに作ったんやな」
「遅かったな、客一号」
「駅から直接来たんぞ」
「帰る家は?」
「実家。まだ連絡してない」
「先に親へ連絡せえや」
親友は、昔と同じようにソファへ沈み込んだ。
俺はメニューを渡した。
「何にする?」
あいつは、長い間メニューを見つめた。
「LOVE 66」
口が先に答えた。
だが、すぐに首を振った。
「……いや」
「ほう」
「俺、何が好きやったっけ」
あいつは本気で聞いていた。
俺はメニューを取り上げた。
「知らん。人の好きなもんまで、俺に決めさせるなや」
「じゃあ、どうしたらええん」
「最初からやり直したらええ」
俺は棚から、ツーアップルを取り出した。
ボウルへ詰め、炭を載せた。
まだ新しい店の中へ、アニスの匂いが広がった。
OMNIBUSで初めて作ったシーシャを、親友の前へ置いた。
「これ、俺、好きやった?」
「知らん」
俺はホースを渡した。
「でも、それはお前が自分で選んだ味よ」
親友は、ゆっくり煙を吸った。
二十歳の夜のようには、むせなかった。
白い煙を吐き、しばらく口の中の味を確かめた。
「やっぱり、林檎やないな」
「二倍にしたけん、消えたんやろ」
親友は笑った。
それから、顔を覆って泣いた。
俺は何も言わなかった。
店にはまだ、ほかの客はいない。
話すことがなくなれば煙を吸い、泣きたければ泣けばいい。
ただ座って煙を吸っていれば、ここにいていい。
あいつが最初の夜に教えてくれた店を、俺はようやく作ることができた。
LOVE 66は、一つの味ではない。
いくつもの果物と、冷たいミントを混ぜて作る煙だ。
親友も、女が好きだと言うものを、一つずつ自分へ混ぜていった。
服も、仕事も、言葉も、人間関係も。
そうして最後には、元の自分がどんな味だったのか、分からなくなった。
誰かのために変われることは、きっと愛の長所だ。
だが、変わった先に自分が一人も残っていないなら、その愛は帰り道まで奪っていく。
愛という名の煙が消えた夜。
親友は、林檎とは呼び難い煙を吸いながら、自分の味を思い出すところからやり直した。




