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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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4/8

第四煙 DEAD SEA

雨の日は、客が来ない。


正確に言えば、一人も来ないわけではない。


早い時間に一組だけ来て、雨が強くなる前に帰る。あるいは、扉を開けた客が空席ばかりの店内を見て、貸し切りみたいだと喜ぶ。


だが、夜が更けるにつれて、人の気配はなくなっていく。


濡れた路面を走る車の音。


窓を叩く雨。


空調の低い唸り。


いつもなら客の笑い声に隠れている音だけが、やけに大きく聞こえる。


タカダさんが煙を重ねている席も、先生が答案用紙を広げている席も、今夜は空いていた。


時計の針が日付を跨ぎ、もう今日は誰も来ないだろうと思い始めた頃。


俺は決まって、一人の先輩を思い出す。


何年経っても、雨の夜だけは忘れられない男がいる。


俺は棚から、一つのフレーバーを取り出した。


DEAD SEA。


ボウルへ詰め、炭を載せる。


店には俺しかいないのに、マウスピースを二つ用意した。


一つは自分の前へ。


もう一つは、カウンターの向かいへ置いた。


そこに座るはずのない男のために。


俺がまだ、看護師一本で生計を立てていた頃の話だ。


嫁ができたばかりだった。


看護師として働き、給料を家へ持ち帰り、休みになれば夫として過ごす。


それが大人になることだと思っていた。


生活は安定していた。


少なくとも、外から見ればそうだった。


だが、仕事へ行けば理不尽なことばかりだった。


人の命を預かる緊張。


終わらない記録。


誰かが休めば増える勤務。


正しいことをしても怒られ、何もしなくても怒られる。


夜勤が終わる頃には、患者より自分の方が先に倒れるんじゃないかと思う日もあった。


そんな職場に、五十代くらいの先輩がいた。


正確な年齢は知らない。


何度聞いても、決して答えなかった。


背が高く、年齢のわりに姿勢がよかった。


白いものが混じった髪を後ろへ流し、笑うと深い皺が目尻に寄った。


若い頃は相当もてただろうと思わせる顔だった。


何より、声がよかった。


低く、静かで、少し掠れている。


何を言っても、洋画の吹き替えに出てくるダンディな親父の台詞に聞こえた。


「先輩、何歳なんですか」


初めて聞いたとき、先輩はコーヒーを飲む手を止めた。


「おいおい。男の年齢を聞くなんて、君はずいぶん野暮な青年だな」


「五十代ですよね」


「年齢ってのはな、ワインと樹木にだけ必要な数字さ。男は、生きているか死んでいるか。それで充分だろう」


「絶対、五十代やん」


「その推理力を仕事に使いたまえ、若者よ」


結局、教えてはくれなかった。


先輩は、仕事中もよく喋った。


もちろん、患者の前では真面目だった。


だが休憩室へ入った途端、低い声で馬鹿な話を始めた。


詰まったまま動かないプリンターを、十年来の宿敵のように語った。


自動販売機に千円札を飲み込まれれば、巨大企業による陰謀だと言い張った。


上司に注意された日は、窓の外を見ながら呟いた。


「組織ってのは恐ろしいな。正しい男から、順番に消されていく」


ただ居眠りをして怒られただけだった。


俺が仕事の愚痴を吐けば、先輩は最後まで聞いた。


口を挟まず、否定もせず、聞き終えてから低い声で言った。


「なるほど。つまり君の職場には、君以外まともな人間が一人もいないわけだ」


「そこまでは言ってないですよ」


「安心したよ。そこまで言えるなら、まだ元気だ」


先輩に話したところで、仕事が楽になるわけではなかった。


理不尽な上司が消えるわけでも、夜勤の回数が減るわけでもない。


それでも、笑い話にしてしまえば、次の勤務までは耐えられた。


俺と先輩が仕事以外でも話すようになったのは、シーシャがきっかけだった。


休憩中、俺の服に残っていた甘い匂いに、先輩が気づいた。


「君、ずいぶん洒落た煙草を吸うんだな」


「シーシャですよ」


「ああ。あの、壺から煙が出るやつか」


「魔法のランプみたいに言わんでください」


「面白そうだ。今度、俺にも教えてくれ」


その週の夜、二人でシーシャ屋へ行った。


まだOMNIBUSは存在していなかった。


俺も、店を持つ人間ではなく、ただ煙を吸いに行く客の一人だった。


最初に連れて行った店で、先輩はスタッフの説明を真剣に聞いた。


ホースを渡されると、警戒するように眺めた。


「こいつを吸えばいいのか」


「ゆっくり、長めに」


「任せろ。呼吸なら五十年以上やっている」


「今、年齢言いました?」


「細かい男は嫌われるぞ」


先輩は初めてとは思えないほど上手に煙を吸った。


白い煙を吐き、満足そうに頷いた。


「いいな、これは」


「何がです?」


「喋らなくても、間がもつ」


先輩はすぐに、シーシャ屋を気に入った。


一軒だけではない。


その日の気分や、会いたいスタッフに合わせて、いくつもの店を行き来した。


今のOMNIBUSの常連たちも、うちだけに通っているわけではない。


先生には本を読みたい店があり、タカダさんには仕事帰りに立ち寄る店がある。


静も、友人と過ごすときには別の店へ行く。


シーシャを吸う人間にとって、店は一つに決めるものではない。


その夜の気分で乗り換える、小さな停留所のようなものだ。


OMNIBUSができる前、俺と先輩も同じだった。


繁華街の店で吸う夜もあれば、少し離れた静かな店まで車を走らせる夜もあった。


店が違えば、照明も、音楽も、シーシャの味も違う。


だが、どこへ行っても何人かは見覚えのある客がいた。


俺たちは煙を吸いながら、仕事の愚痴を言った。


嫁との暮らしを話した。


先輩は昔の女の話を、事実なのか作り話なのか分からない調子で語った。


「客がほかの店へ行ったら、店主は嫌なんですかね」


ある夜、俺は先輩に聞いた。


先輩はホースを持ったまま、ゆっくり首を振った。


「いい店なら、そんなことは気にしないさ」


「なんで?」


「客を囲うのが店の仕事じゃない。夜の街に、帰ってもいい場所を増やす。それが店の仕事だろう」


「店やったことないくせに」


「俺は人生の経営者だ。店の一軒や二軒、似たようなものさ」


「絶対違うやろ」


先輩は笑った。


その晩、俺たちはDEAD SEAという名のフレーバーを吸っていた。


先輩は名前を気に入り、メニューで見つけるたびに頼むようになった。


「死んだ海の煙を、生きた男が吸う。悪くないだろう」


「何言っても格好よく聞こえるん、ずるいですよ」


「声に説得力があるんだ。顔もいい」


「自分で言う?」


「事実は、誰が言っても事実さ」


俺が店をやりたいと初めて口にしたのも、その夜だった。


本気ではなかった。


仕事の愚痴を言った延長で、こんな生活をいつまで続けるんだろうと呟いた。


看護師を辞めたいわけではない。


だが、看護師であることだけで人生が終わるのも怖かった。


嫁がいる。


生活がある。


毎月の支払いがある。


やりたいことより、やらなければならないことの方が、いつも先に並んでいた。


「もし何でもできるなら、何がしたい?」


先輩が尋ねた。


「シーシャ屋ですかね」


自分でも驚くほど、すぐに答えが出た。


「へえ」


「まあ、無理ですけど」


「どうして?」


「金もないし、経営も知らんし、嫁もおるし。看護師辞めたら生活できんし」


「誰が看護師を辞めろと言った?」


「店やるなら、どっちかやろ」


「君は人生を一本の線だと思いすぎている」


先輩は、シーシャの煙を吐いた。


白い煙の向こうで、低い声が続いた。


「仕事を続けながら始めてもいい。誰かと一緒にやってもいい。小さく試して、駄目なら戻ればいい。道が一本しかないんじゃない。君が一本しか見ようとしていないだけさ」


「そんな簡単に言いますけどね」


「簡単だとは言っていない。できると言っている」


返す言葉がなかった。


先輩はホースを置き、俺を見た。


「君はシーシャが好きなんじゃない」


「いや、好きですよ」


「最後まで聞きたまえ。君は、シーシャを吸っている人間が好きなんだ」


それまで考えたこともなかった。


「煙を作る技術は、あとから覚えればいい。だが、他人の愚痴や馬鹿な話を何時間でも聞ける人間は、そう多くない」


「看護師で慣れただけですよ」


「なら、立派な職歴じゃないか」


先輩は笑った。


「店をやれ。君なら、面白い店になる」


「客、来なかったら?」


「俺が行く」


「一人だけ?」


「最初の一人がいなければ、二人目は来ない。俺が最初の客になってやるよ」


「偉そうやなあ」


「先輩だからな」


その言葉を、俺は冗談として聞き流せなかった。


家へ帰ったあとも、頭から離れなかった。


翌日、ノートを一冊買った。


必要な金。


営業時間。


フレーバー。


店の広さ。


何も分からないまま、思いつくことを書き始めた。


そのノートが、OMNIBUSの最初の設計図になった。


店を始めるきっかけを作ったのは、間違いなく先輩だった。


先輩は、そのあとも何度も話を聞いてくれた。


俺が弱気になるたび、低い声で同じことを言った。


「心配するな。最初の客は、もう決まっている」


だから俺も、いつか必ず先輩を自分の店へ呼ぶつもりでいた。


自分で作ったシーシャを吸わせて、どうだと聞く。


先輩はきっと、まず格好をつけた台詞を言う。


それから、味が薄いだの、炭が強いだの、好き勝手に文句をつける。


そんな未来を、疑っていなかった。


先輩と最後に会ったのも、シーシャ屋だった。


冬の夜だった。


先輩はいつものようにDEAD SEAを吸い、窓の外を見ていた。


「今度の休み、海へ行く」


「海? この寒いのに?」


「サーフィンさ」


「冬にするもんなん?」


「夏の海は誰にでも優しい。冬の海は、本気の男しか相手にしない」


「その洋画みたいな喋り方、海でもするんですか」


「波は無口な男が好きでね」


「先輩、無口から一番遠いやろ」


先輩は低い声で笑った。


「店ができるまで、死なんといてくださいよ」


俺も笑いながら言った。


「馬鹿を言うな。俺を誰だと思っている」


「年齢すら分からん先輩」


「それでいい」


それが、最後の会話になった。


数日後、職場で先輩の死を聞いた。


冬の海でサーフィンをして、そのまま帰ってこなかった。


最初は、また手の込んだ冗談だと思った。


先輩なら、少し遅れて扉を開ける。


あの低い声で、湿っぽい顔をするなと言う。


そんな気がした。


だが、どれだけ待っても、先輩は現れなかった。


通夜には、仕事でしか顔を合わせたことのない人間も大勢来ていた。


遺影の先輩は、いつもと同じように格好をつけて笑っていた。


誰かが、享年を口にしていた。


何度聞いても教えてくれなかった年齢を、ようやく知れるはずだった。


だが、耳に入らなかった。


今でも、先輩が何歳だったのか、俺は知らない。


ただ、五十代くらいだった。


それでいいと思っている。


先輩が死んでからしばらく、店のノートを開けなくなった。


ページを見れば、最初の客になると言った声を思い出した。


もう来ない人間のために店を作って、何になるのかと思った。


看護師だけを続けていれば、少なくとも生活はできる。


夢など持たなければ、失うこともない。


そうやって諦める理由を並べるたび、先輩の言葉が戻ってきた。


――君が一本しか見ようとしていないだけさ。


先輩が死んだから店をやめる。


それでは、あの男に一生笑われる。


俺はもう一度、ノートを開いた。


それからいくつもの夜が過ぎ、OMNIBUSができた。


先輩は、最初の客にはなれなかった。


開店の日、先輩のために一台のシーシャを作ろうかと考えた。


だが、やめた。


空席へ煙を出しても、先輩なら喜ばない気がした。


「死んだ男より、生きた客をもてなせ」


あの低い声で、そう言うはずだった。


だから俺は、扉を開けた。


最初に入ってきた、生きている客へシーシャを出した。


それでも、雨の日だけは別だった。


誰も来ないまま夜が更けると、俺はDEAD SEAを作る。


自分の分と、先輩の分のマウスピースを置く。


店を始めてから起きたことを、一方的に報告する。


変な客が来たこと。


友達が女に騙されたこと。


先生と元教え子が、同じローズを好きだったこと。


タカダさんが、好きな女と別れたこと。


返事はない。


雨の音と、ボトルの中で水が鳴る音だけが聞こえる。


「先輩」


俺は空席へ言った。


「今日、ほんまに誰も来んのですけど」


もちろん、答えはなかった。


そのとき、店の扉が開いた。


ベルが鳴り、濡れた傘を持ったタカダさんが入ってきた。


その後ろには、先生もいた。


「なんじゃ、ほんまに誰もおらんが。貸し切りでええな」


タカダさんが店内を見回した。


先生はスキンヘッドについた雨粒を、ハンカチで丁寧に拭いている。


「雨の日は、静かな店で煙を吸うに限ります」


「二人で来たん?」


「下で会うたんじゃ。一人じゃったけぇ、連れてきた」


タカダさんは、カウンターに置かれたシーシャを見た。


向かいの席にある、使われていないマウスピースにも気づいた。


「先客がおったんか」


「昔の客よ」


タカダさんは空席を見た。


何かを聞こうとして、やめた。


「そうか」


それだけ言って、隣の席へ座った。


先生も何も尋ねず、静かに頭を下げた。


「俺はブルーベリーミント。ミント強めで頼むわ」


「私はローズをお願いします」


「はいよ」


俺は立ち上がった。


さっきまで空っぽだった店に、また人の声が戻った。


先輩は、OMNIBUSの最初の客にはなれなかった。


だが、今この店へ来る客の誰もが、あの夜、先輩が開いてくれた道の先にいる。


DEAD SEA。


先輩を連れていった海とは違い、この煙は、吸えば必ず俺の中から戻ってくる。


低い声。


馬鹿な話。


最初の客になるという、果たされなかった約束。


先輩は一度もOMNIBUSの扉をくぐっていない。


それでもたぶん、今もこの店で一番古い常連だ。

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