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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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3/14

第三煙 BLUEBERRY MINT

タカダさんは、煙を途切れさせない。


右手にはシーシャのホース。


左手には、チェの煙草。


シーシャの煙を吐き終える前に煙草を吸い、煙草の煙が消える前に、またホースを咥える。


灰皿には吸い殻が増えていくのに、タカダさんの周りから煙がなくなることはなかった。


注文するフレーバーも、いつも同じだった。


ブルーベリーとミント。


甘さのあとを、冷たさが追いかける。


それをチェの煙草と一緒に、延々と吸い続ける。


「タカダさん、どっちかにしたら?」


俺が言うと、タカダさんは濃い髭の奥で笑った。


「口が寂しいんよ」


四十代の男が言うには、少し可愛すぎる言葉だった。


タカダさんは、チェ・ゲバラによく似ていた。


癖のある髪。濃い髭。強い眉。黙って遠くを見ていると、今にも革命を始めそうに見える。


ただし、彼が相手にしているのは国家権力ではなく、月末の営業目標だった。


革命家が地方都市で営業職に就き、そのまま社内トップまで上り詰めたら、たぶんタカダさんのようになる。


人の名前を一度で覚えた。


何気なく話した家族のことも、次に会ったときには覚えている。


相手が何を欲しがっているかだけではなく、本人もまだ気づいていない困り事まで見つけてきた。


無理に売り込んだようには見せず、気づけば契約書へ判を押させている。


見た目は奇抜だが、仕事に関しては文句のつけようがない男だった。


恋愛についても、若い頃は営業成績と同じくらい好調だったらしい。


「二十代から三十代は、彼女がおらんかった時期がないんよ」


ある夜、タカダさんはブルーベリーミントを吸いながら言った。


「自慢?」


「昔話じゃ。最近は、からっきしじゃけどな」


「営業の腕、落ちたんやないん」


「恋愛市場が、俺の商品価値を正当に評価しとらんのよ」


「売れ残った商品は、だいたいそう言うんよ」


タカダさんは声を上げて笑い、またチェの煙草へ火をつけた。


そんな会話をした数週間後だった。


タカダさんが、女を連れてOMNIBUSへ来た。


金髪のショートヘア。


露出した肌には隙間を探す方が難しいほどタトゥーが入り、指から手のひらにまで黒い線が伸びていた。


見た目だけなら、タカダさんの隣に並んでも負けていない。


チェ・ゲバラと、どこかの国のロックスター。


二人が入ってきた瞬間、店内にいた客の視線が一度だけ扉へ集まった。


「こっちが、彼女の優香じゃ」


タカダさんが、少し照れながら紹介した。


「まだ彼女じゃないけどね」


優香はそう言いながら、タカダさんの腕へ自分の腕を絡めた。


「ほぼ彼女じゃ」


「営業かけられてる途中」


「見込みは?」


俺が聞くと、優香は笑った。


「悪くない」


二人が出会ったのは、繁華街のバーだった。


一人で飲んでいた優香へ、タカダさんが声をかけた。


普通なら警戒されそうな見た目だが、本人によれば、営業と同じく最初の三分で信頼を勝ち取ったらしい。


「この人、自分の話ばっかりする男と違って、ちゃんと話聞くんよ」


優香が言った。


「仕事じゃけぇ」


「私、客なん?」


「最重要顧客じゃ」


「うわ、胡散臭い」


口ではそう言いながら、優香は嬉しそうだった。


優香は離婚していた。


まだ幼い子供が一人いる。


その夜も子供を母親へ預けているから、日付が変わる前には帰ると言った。


携帯の待ち受けには、笑っている子供の写真が映っていた。


「可愛いな」


タカダさんが画面を覗き込む。


「会いたい?」


「優香が、会わせてもええと思うたら」


即答しなかったことに、優香は少し驚いたようだった。


そのあと、ゆっくり笑った。


「そういうとこ、好きかも」


俺は二人の前へ、タカダさんのいつものブルーベリーミントを置いた。


優香が先にホースを受け取った。


タトゥーの入った手のひらでマウスピースを包み、深く煙を吸った。


「甘い」


「あとからミントが来るけぇ」


タカダさんが言い終える前に、優香は肩をすくめた。


「冷たっ」


二人で笑った。


甘さと冷たさ。


そのときは、相性のいい組み合わせにしか思えなかった。


二人が正式に付き合い始めるまで、時間はかからなかった。


最初の一か月、タカダさんはほとんど店へ来なかった。


たまに一人で現れても、話すのは優香のことばかりだった。


「よう笑うんよ」


「見たら分かる」


「子供がまた、可愛いんじゃ」


「もう会ったん?」


「この前、三人で飯食うたんよ」


「展開早いな」


「営業は初動が大事じゃけぇ」


「家族に営業かけるなや」


タカダさんは本気で、優香とその子供を大切にしようとしていた。


若い頃のように、女と一緒にいる時間だけを楽しんでいるわけではない。


将来のことまで考えているのだと、誰に聞かれたわけでもないのに何度も言った。


優香も、タカダさんを強く求めた。


朝起きたとき。


仕事へ行く前。


昼休み。


帰宅したとき。


眠る前。


一日の隙間を埋めるように、メッセージと電話が届いた。


最初のうち、タカダさんはそれを愛情だと受け取った。


自分を必要としてくれる女がいる。


長く空いていた場所が、ようやく埋まったのだと喜んだ。


だが、連絡は次第に報告ではなく、確認へ変わっていった。


今どこにいるのか。


誰といるのか。


なぜ返事が遅れたのか。


電話の向こうから女の声がしたが、誰なのか。


営業先に女がいれば、名刺を見せた。


会社の飲み会へ行けば、店内の写真を送った。


帰宅すると、玄関に着いたことを報告した。


それでも、優香の不安がなくなることはなかった。


機嫌よく笑っていた次の瞬間には、声が冷たくなった。


もう別れる。


私なんかいらないんでしょ。


どうせ、あんたも元旦那と同じ。


そう言って電話を切り、二十分後には、愛していると泣いた。


周囲にいる人間なら、メンヘラの一言で笑えたかもしれない。


だが、夜中に何十件もの着信を受ける人間にとって、それは笑い話ではなかった。


「あの子、捨てられるんが怖いんよ」


タカダさんは言った。


ブルーベリーミントを吸うとき、以前よりミントを強くするようになっていた。


「俺が安心させ続けたら、そのうち落ち着くと思うんじゃ」


「いつまで?」


「落ち着くまでじゃ」


「それ、答えになってないぞ」


「営業も同じじゃろ。相手の不安を一つずつ潰して、信頼を作るんじゃ」


「優香は客やないやろ」


「分かっとる」


そう答えながら、タカダさんはチェの煙草へ火をつけた。


灰皿には、いつもの倍の速さで吸い殻が増えていた。


タカダさんは、人の望みを読むことに慣れていた。


困り事を見つけ、解決策を差し出し、満足させる。


それで何人もの客から信頼を勝ち取ってきた。


だから、自分なら優香の不安も解決できると思っていた。


彼女が欲しがる言葉を与え続ければ、いつか安心してくれる。


行動で証明し続ければ、いつか疑わなくなる。


だが、不安には底がなかった。


差し出した安心は、その日のうちに消えた。


翌日には、昨日より大きな証明を求められた。


タカダさんは仕事中も携帯を見るようになった。


商談の途中で席を外し、優香を宥めた。


同僚との付き合いを断り、休日はすべて優香と子供のために空けた。


以前は誰より早く返していた仕事の連絡が、少しずつ遅れるようになった。


それでも優香は、満たされなかった。


決定的なことが起きたのは、タカダさんが何か月もかけて準備した、大きな商談の日だった。


商談が始まる直前、優香から電話があった。


昨夜送ったメッセージの返事が、いつもより短かった。


ほかに女がいるのではないか。


もう自分など必要ないのではないか。


タカダさんは、今から大事な仕事がある、終わったら必ず電話すると伝えた。


それでも着信は止まらなかった。


一度。


五度。


十度。


携帯を伏せ、商談を始めた。


説明の途中で、画面に短いメッセージが表示された。


――もう消えた方がいいよね。


タカダさんは言葉を止めた。


その場にいた客と上司へ頭を下げ、商談を部下に任せて外へ出た。


電話には出なかった。


車を飛ばして優香の部屋へ向かった。


優香は無事だった。


玄関の内側で、泣きながら座っていた。


タカダさんの顔を見ると、安心したように抱きついた。


「本当に来てくれた」


その一言で、タカダさんはようやく気づいた。


自分は優香の不安を消しているのではない。


不安が大きくなればなるほど、自分が駆けつけるということを教えてしまっていた。


優香を支えているつもりで、二人が壊れていく仕組みを、二人で作っていた。


翌日の夜、タカダさんは一人でOMNIBUSへ来た。


いつもの席へ座り、いつものように注文した。


「ブルーベリーミント。今日はミント、強めで頼むわ」


「商談、どうなった?」


「部下がまとめてくれた。契約は取れたで」


「さすが敏腕営業」


「俺じゃのうて、部下がな」


笑っていたが、声に力はなかった。


シーシャを運ぶと、タカダさんはすぐに煙を吸った。


チェの煙草にも火をつけた。


甘い煙と、冷たい煙と、紙巻き煙草の匂いが混ざった。


「別れよう思うとる」


タカダさんが言った。


「優香と?」


「ほかに誰がおるん」


「好きじゃなくなった?」


タカダさんは、すぐには答えなかった。


「好きじゃ」


やがて、静かに言った。


「今も好きじゃ。子供のことも大事に思うとる。けど、このまま一緒におったら、俺は仕事も友達も、自分が大事にしてきたもんを全部失う。そうなった俺が、二人を幸せにできるとは思えん」


「優香は納得せんやろな」


「納得はせんじゃろうな」


「また消える言うかもしれん」


「そのときは、必要な助けを呼ぶ。けど、恋人でおることを交換条件にはせん」


タカダさんはホースを置いた。


「俺は、あの子を救えると思うとった。傲慢じゃったんじゃろうな」


「営業なら、どんな客でも落としてきたから?」


「そうじゃ。けど恋人は、顧客じゃねぇ。俺が与えた答えで満足してもらう関係じゃなかったんよ」


「店で話す?」


「そのつもりじゃ。一人きりの場所じゃと、また約束してしまいそうじゃけぇ」


タカダさんは、優香へ連絡した。


優香が店へ来たのは、一時間ほど後だった。


金髪の短い髪は乱れ、化粧もほとんどしていなかった。


それでも、手のひらまで続くタトゥーだけは、最初に会った夜と同じだった。


タカダさんの向かいへ座り、テーブルのシーシャを見た。


「話って何」


最初から、何かを察している声だった。


「別れたい」


タカダさんは、遠回しに言わなかった。


優香の顔から、表情が消えた。


「なんで」


「このままじゃと、二人とも駄目になる」


「私は駄目になってない」


「俺がなっとるんじゃ」


「仕事の邪魔したから?」


「それだけじゃねぇ」


「もう電話しない。連絡も我慢する。女のことも疑わない。全部直すから」


「今まで、お互いに何べんもそう言うたじゃろ」


「今度は本当にやる」


「その“今度”を信じて、また同じことが起きたら、俺は今より優香を責める。責めながら一緒におる男にはなりとうない」


優香の目に涙が溜まった。


「結局、あんたも捨てるんや」


「そう思われても、しゃあない」


「ずっとおるって言ったやん」


「言うた。できん約束をした俺が悪いんじゃ」


「子供とも仲良くして、期待させて」


「それも俺が悪いんじゃ」


タカダさんは逃げずに答えた。


言い訳もしなかった。


敏腕の営業なら、もっと上手な言葉をいくらでも選べたはずだ。


相手を納得させ、怒りを鎮め、自分を悪者にしない話し方を知っている。


だが、その夜は何も売ろうとしなかった。


存在しない未来を、もう契約させようとはしなかった。


「私がいなくなっても、平気なん?」


「平気なわけないじゃろ」


「じゃあ、なんで」


「好きなまま離れるしかないんじゃ」


タカダさんの声が、初めて震えた。


「嫌いになれりゃ、もっと簡単じゃった。けどな、好きじゃけぇ何でも耐えられるわけじゃない。俺が壊れるまで一緒におるんは、愛情じゃないんよ」


優香は俯いた。


テーブルの上に置かれたタカダさんの手を、両手で握った。


タトゥーの入った手のひらが、彼の指を包んだ。


「ほんまに無理?」


「すまん」


長い間、二人はそのまま動かなかった。


やがて優香の手から、ゆっくり力が抜けた。


「営業のくせに、説得下手やな」


涙を拭いながら、優香が言った。


「今日は、説得しちゃいけんと思うとる」


「最後までムカつく」


優香は立ち上がった。


扉へ向かい、途中で一度だけ振り返った。


「子供には、私から言う」


「頼む」


「もう会わんから」


「分かった」


扉が閉まり、ベルが鳴った。


タカダさんは追いかけなかった。


追いかければ、また同じ約束をしてしまうと分かっていた。


しばらくして、チェの煙草へ火をつけた。


ホースを手に取り、ブルーベリーミントを吸った。


いつものように煙草へ持ち替えようとして、その手が止まった。


火のついた煙草は、灰皿の上で細い煙を上げ続けた。


タカダさんは一本も吸わなかった。


「甘いな」


シーシャの煙を吐いて、呟いた。


「ミント強めやったろ」


「それでも、ブルーベリーは消えんのじゃな」


どれだけ冷たさを足しても、甘さがなくなるわけではない。


別れを選んでも、好きだった気持ちが嘘になるわけではない。


タカダさんは、優香が座っていた席を見つめながら、ゆっくり煙を吸った。


チェの煙草は、吸われないまま短くなり、やがて火が消えた。


その夜、初めてタカダさんの周りから、煙が途切れた。


シーシャは、違う味を混ぜれば一つの煙になる。


だが、人間はそうはいかない。


どれほど惹かれ合っても、一緒にいることで互いを壊すことがある。


BLUEBERRY MINT。


甘さと冷たさは、どちらかが嘘なのではない。


同じひと吸いの中に、どちらも本物として残る。


好きなのに離れるという選択も、きっと同じだった。

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