第二煙 ROSE
OMNIBUSには、同じ席で同じ煙を選ぶ、二人の常連がいた。
一人は、静という女だった。
週末の夜、仕事を終えてからやって来る。
扉を開けると、ほかの席が空いていても、決まってカウンターの端へ座った。
「ローズ、単品で」
メニューを見ることもなく、いつもそう言った。
もう一人は、男の教師だった。
頭はきれいに剃り上げられていた。
黙って座っていると、学校の先生より用心棒に見える。初めて会った客は決まって少し身構えたが、鞄から出てくるのは物騒な道具ではなく、赤ペンと採点前の答案用紙だった。
平日の夕方、学校帰りにやって来て、静と同じ席で答案を採点するか、読みかけの本を開いた。
「ローズを、いつものようにお願いします」
教師だから、店では皆が先生と呼んだ。
二人とも同じ店の常連で、同じ席に座り、同じフレーバーを好んだ。
ただ、不思議なくらい来店する時間が重ならなかった。
先生が帰ったあとに静が来る。
静が休みの日に、先生が遅くまで残る。
俺は二人を知っていた。
だが、二人が互いを知っていることは、長い間知らなかった。
静から、好きな男の話を聞くまでは。
「薔薇、そんなに好きなん?」
ある夜、俺は静に尋ねた。
静はホースを咥え、ゆっくり煙を吸った。
吐き出された白い煙から、甘い花の香りがした。
「好きというか、憧れですかね」
「何が違うん」
「好きなものは、手に入れたくなるじゃないですか。でも憧れって、遠くから見ているだけでも成立するんですよ」
「難しいこと言うなあ」
「好きな人が教師だったんで」
まるで天気の話でもするように、静は言った。
高校時代の担任だったらしい。
在学中は、恋愛感情など持っていなかった。
厳しいが、生徒の話を最後まで聞く先生だった。進路に悩んだときも、家族とうまくいかなかったときも、正しい答えを押しつけず、一緒に考えてくれた。
静にとって、信頼できる大人の一人だった。
それが恋に変わったのは、卒業から何年も経ったあとのことだ。
同窓会で再会した。
教壇の前では大きく見えた先生が、居酒屋の狭い席に座ると、思っていたより普通の男に見えた。
酒に弱く、唐揚げへ勝手にレモンをかける。笑うと目尻に皺が寄り、スマートフォンの操作には少し疎い。
学校では見えなかった欠点を知るたびに、静は先生を好きになった。
尊敬していた教師ではなく、一人の不器用な男として。
「それで、告白したん?」
「しましたよ。三回」
「猛者やな」
「ご飯にも誘ったし、誕生日にはプレゼントも渡したし、酔った勢いで抱きついたこともあります」
「猛者というか、もう猛獣やな」
「失礼ですね」
静は笑いながら、白い煙を吐いた。
「で、先生は?」
「反応なしです」
正確には、拒絶されたわけではなかった。
食事に誘えば、二人きりでなければ来てくれた。プレゼントは受け取らなかったが、静の誕生日には短いメッセージが届いた。
告白するたび、先生は困ったように笑った。
――君は、大切な教え子だから。
いつも、同じ答えだった。
「もう教え子じゃない、って言わんかったん?」
「言いました。何歳になったら女として見てくれるんですかって」
「そしたら?」
「何歳になっても、教え子だった事実は変わらないって」
「堅いなあ」
「石ですよ、石。薔薇を投げても刺さらないんだから」
そう言いながらも、静はどこか楽しそうだった。
叶わない恋を話す人間は、ときどき幸せそうに見える。
まだ諦めていない間だけは、苦しささえ、その人と繋がっている証拠になるからだ。
「先生もローズが好きやったりしてな」
俺が何気なく言うと、静は笑った。
「ないですよ。あの人に花なんて似合いません」
「好きな花くらい聞いたことないん?」
「ありません。知ってるつもりで、知らないことばっかりなんですよね」
好きという感情は、相手を知った気にさせる。
何を喜び、何を嫌い、どんな未来を望むのか。
だが実際には、何年思い続けても知らないことがある。
好きな花の一つさえ、聞かないまま終わる恋もある。
静は二年以上、先生を追いかけた。
その間、先生は一度も応えなかった。
だが、完全に突き放すこともしなかった。
静が悩んでいれば話を聞き、困っていれば助けた。
教師と元教え子。
その線から、一歩も出ようとしなかった。
「ずるい人ですね」
俺が言うと、静は首を振った。
「優しい人なんですよ。たぶん、優しすぎるんです」
「同じことやろ。期待させる優しさは、だいたいずるいぞ」
「それでも、嫌いにはなれなかったんですよね」
ボトルの中で水が鳴った。
ローズの香りが、二人の間を漂った。
その話を聞いてから、半年ほど経った。
静は相変わらず、週に一度か二度、OMNIBUSへ来た。
先生も変わらず、平日の夕方に現れた。
同じ席で、同じローズを吸った。
先生が、静の話していた男だとは思いもしなかった。
静は先生の名前を口にしなかった。
俺にとって先生は職業であり、静にとっては固有名詞だった。
同じ言葉を使いながら、俺たちは別の人間の話をしているつもりでいた。
いつからか、静は先生の話をしなくなった。
代わりに、職場で知り合った男の話をするようになった。
連絡をすれば返事が来る。
会いたいと言えば、時間を作って会いに来る。
静が怒れば謝り、間違っていると思えば、喧嘩になっても言い返す。
先生のように特別な男ではないと、静は言った。
だが、その言い方は少しずつ変わっていった。
特別ではない。
普通の人。
一緒にいると安心する人。
そしてある夜、静は左手の薬指に指輪をつけて現れた。
「結婚することになりました」
「先生と?」
わざと聞くと、静は俺の腕を叩いた。
「違いますよ。前に話した、職場の人です」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
静は笑った。
先生の話をしていた頃とは違う、静かな笑顔だった。
誰かに選ばれることを待っている顔ではない。
自分で一人の男を選んだ人間の顔だった。
「その人のこと、ちゃんと好きなんやな」
「好きですよ」
静は迷わず答えた。
「先生を忘れるためとか、代わりとかじゃありません。あの人と生きていきたいから、結婚するんです」
「なら、ええやん」
「ええんです」
そう言ったあとで、静は指輪を眺めた。
「でも、先生には自分で報告したいんですよね」
「まだ言ってないん?」
「最近は会ってなくて。今度、時間を作ってもらおうと思ってます」
それが必要なことなのか、俺には分からなかった。
終わった恋をわざわざ掘り起こせば、まだ熱が残っているかもしれない。
それでも、静の表情には迷いがなかった。
「ちゃんと報告して、ちゃんと終わりにします」
終わったことを、本人の前で終わらせる。
静はそう決めていた。
だが、二人の予定より先に、OMNIBUSがその場所になった。
いつもより早い時間に、静が店へ来た。
婚約者と食事をする約束だったが、仕事が少し早く終わったらしい。
「一時間くらい、吸えます?」
「吸えるよ。けど、いつもの席は先客がおる」
俺がカウンターの端を指すと、静の動きが止まった。
答案用紙から顔を上げた先生も、同じように固まった。
「先生?」
静が言った。
「静?」
先生が答えた。
二人の声を聞いて、ようやく俺の中で、別々だった話が一つに繋がった。
「え、この店、来るんですか」
「君こそ」
ほとんど同時に言って、二人とも黙った。
先生の前では、ローズの煙が細く立ち上っていた。
静はそれを見て、目を丸くした。
「先生、ローズ吸うんですか」
「ああ。昔から好きなんだ」
「知らなかった」
静は小さく笑った。
「私も、ローズが一番好きです」
今度は先生が驚く番だった。
「そうなのか」
「はい。先生の真似じゃなくて、自分で好きになりました」
「そうか」
先生はそれだけ言って、少し嬉しそうに笑った。
二人は同じ味を好きだった。
それなのに、その程度のことさえ知らなかった。
恋をしていた時間の長さと、知っていることの数は、必ずしも同じではないらしい。
「隣、座ってもいいですか」
静が尋ねた。
先生は答案用紙を鞄へ戻し、席を空けた。
俺は静の分のホースとマウスピースを用意した。
二人の間に置かれた一台のシーシャから、同じローズを吸った。
しばらくは、昔の話をしていた。
同級生の近況。
卒業式の日に泣いていた教師。
静が進路希望の紙を何度も書き直したこと。
どの話も明るく、よく笑った。
だからこそ、二人が本当に話すべきことだけを避けているのが分かった。
ボウルの上の炭が一つ、小さくなった頃だった。
静が左手をテーブルの上へ置いた。
指輪が、照明を反射した。
「先生。私、結婚します」
先生は指輪を見た。
驚いた顔はしなかった。
「そうか。おめでとう」
「ありがとうございます」
「相手は、どんな人なんだ」
「普通の人です」
静は笑った。
「でも、私が会いたいときに会ってくれて、好きって言ったら、好きって返してくれる人です」
先生は、ゆっくり頷いた。
「いい人なんだな」
「はい。すごく」
「幸せにな」
ありふれた祝福だった。
それでも静は、少しだけ苦しそうに笑った。
「私、先生のことが好きでした」
過去形だった。
先生にも、それは伝わったはずだ。
「知っている」
「三回も告白しましたもんね」
「その節は、申し訳なかった」
「謝らないでください。別に、悪いことじゃないから」
静は笑っていた。
それでも、膝の上では両手を強く握っていた。
「最後に、一つだけ聞いてもいいですか」
先生は答えなかった。
ただ、静の次の言葉を待った。
「一度でも、私を女として見たこと、ありました?」
店内にいたほかの客の笑い声が、遠くなったように感じた。
先生は静を見つめた。
その時間は、ほんの数秒だったと思う。
けれど、一つの人生を選ぶには十分な長さだった。
「ないよ」
先生は言った。
「君は、今までも、これからも、大切な教え子だ」
静は目を伏せた。
「そうですか」
短く息を吐いてから、顔を上げた。
「よかった」
それが本心ではないことくらい、俺にも分かった。
だが、先生は何も言わなかった。
「これで、心置きなく結婚できます」
静は笑った。
泣かなかった。
先生も笑った。
二人とも、最後まで大人の顔を崩さなかった。
しばらくして、静の携帯が鳴った。
「迎えに来たみたいです」
「婚約者が?」
「はい」
静は立ち上がった。
「先生、結婚式、来てくださいね」
「もちろん」
「絶対ですよ」
「教師が教え子との約束を破るわけにはいかないからな」
静は、少しだけ困ったように笑った。
「最後まで、先生ですね」
俺に会釈をして、店を出ていった。
窓の外に、一台の車が停まっていた。
運転席から男が降り、静のために助手席の扉を開けた。
静が何かを話すと、男は笑った。
二人を乗せた車が見えなくなるまで、先生は窓の外を見ていた。
俺は炭を替えた。
先生はローズの煙を吸った。
先ほどより深く、長く。
吐き出した煙で、表情が隠れた。
「好きだったんでしょう」
俺は言った。
先生は否定しなかった。
何度も来ている客の、いつもと違う沈黙だった。
しばらくして、静かに答えた。
「教師は、生徒に嘘をつかないとでも思っていましたか」
「元生徒やろ」
「私にとっては、今でもそうなんです」
「それ、逃げとるだけやないんですか」
失礼な言い方だった。
それでも先生は怒らなかった。
「そうかもしれません」
認めたうえで、ホースを置いた。
「彼女が私を好きだと言うたび、考えました。彼女が見ているのは、一人の男なのか。それとも、かつて自分を助けてくれた教師なのか」
「本人は、一人の男として好きや言うとったよ」
「ええ。信じています」
「なら、なんで」
「私が、自分を信じられなかった」
先生は、ボトルの中で揺れる水を見つめた。
「もし応えてしまえば、彼女の尊敬や、若い頃の弱さにつけ込んだことになるんじゃないか。いつか彼女が後悔したとき、私は自分を許せない。そんなことばかり考えて、答えを先延ばしにしました」
「それで、間に合わんかった?」
先生は頷いた。
「彼女から結婚すると聞いたとき、初めて、失うのだと分かりました」
「今からでも言えばええやないですか」
自分で言いながら、それが正しくないことも分かっていた。
先生は窓の外へ目を向けた。
もう静の乗った車は見えない。
「彼女が一人なら、そうしたかもしれません」
「好きなら、奪いに行くくらいしてもええやろ」
「それは、私の後悔を彼女に背負わせるだけです」
先生の声は穏やかだった。
「彼は、私ができなかったことをした。彼女と同じ時間に立って、彼女の気持ちに答えて、人生を共にすると決めた。今さら私が好きだったと伝えれば、彼女が自分で選んだ未来へ、迷いを置くことになる」
「大人だから、諦めるんですか」
「違います」
先生は、はっきりと言った。
「大人なら、もっと早く答えるべきでした。私はただ、間に合わなかったんです」
炭が赤く光った。
ローズの煙が、先生の周囲をゆっくり漂った。
「間に合わなかった答えを、今さら渡してはいけない。それは告白ではありません。相手の幸せの上に置く、こちらの荷物です」
俺には、反論できなかった。
大人になるとは、正しい答えを選べるようになることだと思っていた。
だが実際には、どの答えを選んでも誰かが傷つくと知ったうえで、その傷をなるべく自分の側へ残すことなのかもしれない。
先生は一人で、ローズを吸い続けた。
静と吸っていたときより、ずっと時間をかけて。
会計を終え、店を出る前に、先生は振り返った。
「静は、いつからローズを?」
「初めて来た日から、ずっと。先生と同じ席で、同じ味を吸ってましたよ」
「そうですか」
先生は、寂しそうに笑った。
「知らないことばかりだな」
扉が閉まり、ベルが鳴った。
テーブルの上には、まだ白い煙が残っていた。
二人は同じ店へ通い、同じ席に座り、同じ煙を好きだった。
互いを想っていた。
それでも、時間だけが合わなかった。
本物の薔薇なら、いつか枯れる。
煙なら、もっと早く消える。
それでも、そこに香りがあったことまで、なかったことにはできない。
ROSE。
煙にした薔薇には、触れられる花びらも、指を刺す棘もない。
それでもあの夜、店にいた誰も、無傷ではいられなかった。




