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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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2/8

第二煙 ROSE

OMNIBUSには、同じ席で同じ煙を選ぶ、二人の常連がいた。


一人は、静という女だった。


週末の夜、仕事を終えてからやって来る。


扉を開けると、ほかの席が空いていても、決まってカウンターの端へ座った。


「ローズ、単品で」


メニューを見ることもなく、いつもそう言った。


もう一人は、男の教師だった。


頭はきれいに剃り上げられていた。


黙って座っていると、学校の先生より用心棒に見える。初めて会った客は決まって少し身構えたが、鞄から出てくるのは物騒な道具ではなく、赤ペンと採点前の答案用紙だった。


平日の夕方、学校帰りにやって来て、静と同じ席で答案を採点するか、読みかけの本を開いた。


「ローズを、いつものようにお願いします」


教師だから、店では皆が先生と呼んだ。


二人とも同じ店の常連で、同じ席に座り、同じフレーバーを好んだ。


ただ、不思議なくらい来店する時間が重ならなかった。


先生が帰ったあとに静が来る。


静が休みの日に、先生が遅くまで残る。


俺は二人を知っていた。


だが、二人が互いを知っていることは、長い間知らなかった。


静から、好きな男の話を聞くまでは。


「薔薇、そんなに好きなん?」


ある夜、俺は静に尋ねた。


静はホースを咥え、ゆっくり煙を吸った。


吐き出された白い煙から、甘い花の香りがした。


「好きというか、憧れですかね」


「何が違うん」


「好きなものは、手に入れたくなるじゃないですか。でも憧れって、遠くから見ているだけでも成立するんですよ」


「難しいこと言うなあ」


「好きな人が教師だったんで」


まるで天気の話でもするように、静は言った。


高校時代の担任だったらしい。


在学中は、恋愛感情など持っていなかった。


厳しいが、生徒の話を最後まで聞く先生だった。進路に悩んだときも、家族とうまくいかなかったときも、正しい答えを押しつけず、一緒に考えてくれた。


静にとって、信頼できる大人の一人だった。


それが恋に変わったのは、卒業から何年も経ったあとのことだ。


同窓会で再会した。


教壇の前では大きく見えた先生が、居酒屋の狭い席に座ると、思っていたより普通の男に見えた。


酒に弱く、唐揚げへ勝手にレモンをかける。笑うと目尻に皺が寄り、スマートフォンの操作には少し疎い。


学校では見えなかった欠点を知るたびに、静は先生を好きになった。


尊敬していた教師ではなく、一人の不器用な男として。


「それで、告白したん?」


「しましたよ。三回」


「猛者やな」


「ご飯にも誘ったし、誕生日にはプレゼントも渡したし、酔った勢いで抱きついたこともあります」


「猛者というか、もう猛獣やな」


「失礼ですね」


静は笑いながら、白い煙を吐いた。


「で、先生は?」


「反応なしです」


正確には、拒絶されたわけではなかった。


食事に誘えば、二人きりでなければ来てくれた。プレゼントは受け取らなかったが、静の誕生日には短いメッセージが届いた。


告白するたび、先生は困ったように笑った。


――君は、大切な教え子だから。


いつも、同じ答えだった。


「もう教え子じゃない、って言わんかったん?」


「言いました。何歳になったら女として見てくれるんですかって」


「そしたら?」


「何歳になっても、教え子だった事実は変わらないって」


「堅いなあ」


「石ですよ、石。薔薇を投げても刺さらないんだから」


そう言いながらも、静はどこか楽しそうだった。


叶わない恋を話す人間は、ときどき幸せそうに見える。


まだ諦めていない間だけは、苦しささえ、その人と繋がっている証拠になるからだ。


「先生もローズが好きやったりしてな」


俺が何気なく言うと、静は笑った。


「ないですよ。あの人に花なんて似合いません」


「好きな花くらい聞いたことないん?」


「ありません。知ってるつもりで、知らないことばっかりなんですよね」


好きという感情は、相手を知った気にさせる。


何を喜び、何を嫌い、どんな未来を望むのか。


だが実際には、何年思い続けても知らないことがある。


好きな花の一つさえ、聞かないまま終わる恋もある。


静は二年以上、先生を追いかけた。


その間、先生は一度も応えなかった。


だが、完全に突き放すこともしなかった。


静が悩んでいれば話を聞き、困っていれば助けた。


教師と元教え子。


その線から、一歩も出ようとしなかった。


「ずるい人ですね」


俺が言うと、静は首を振った。


「優しい人なんですよ。たぶん、優しすぎるんです」


「同じことやろ。期待させる優しさは、だいたいずるいぞ」


「それでも、嫌いにはなれなかったんですよね」


ボトルの中で水が鳴った。


ローズの香りが、二人の間を漂った。


その話を聞いてから、半年ほど経った。


静は相変わらず、週に一度か二度、OMNIBUSへ来た。


先生も変わらず、平日の夕方に現れた。


同じ席で、同じローズを吸った。


先生が、静の話していた男だとは思いもしなかった。


静は先生の名前を口にしなかった。


俺にとって先生は職業であり、静にとっては固有名詞だった。


同じ言葉を使いながら、俺たちは別の人間の話をしているつもりでいた。


いつからか、静は先生の話をしなくなった。


代わりに、職場で知り合った男の話をするようになった。


連絡をすれば返事が来る。


会いたいと言えば、時間を作って会いに来る。


静が怒れば謝り、間違っていると思えば、喧嘩になっても言い返す。


先生のように特別な男ではないと、静は言った。


だが、その言い方は少しずつ変わっていった。


特別ではない。


普通の人。


一緒にいると安心する人。


そしてある夜、静は左手の薬指に指輪をつけて現れた。


「結婚することになりました」


「先生と?」


わざと聞くと、静は俺の腕を叩いた。


「違いますよ。前に話した、職場の人です」


「おめでとう」


「ありがとうございます」


静は笑った。


先生の話をしていた頃とは違う、静かな笑顔だった。


誰かに選ばれることを待っている顔ではない。


自分で一人の男を選んだ人間の顔だった。


「その人のこと、ちゃんと好きなんやな」


「好きですよ」


静は迷わず答えた。


「先生を忘れるためとか、代わりとかじゃありません。あの人と生きていきたいから、結婚するんです」


「なら、ええやん」


「ええんです」


そう言ったあとで、静は指輪を眺めた。


「でも、先生には自分で報告したいんですよね」


「まだ言ってないん?」


「最近は会ってなくて。今度、時間を作ってもらおうと思ってます」


それが必要なことなのか、俺には分からなかった。


終わった恋をわざわざ掘り起こせば、まだ熱が残っているかもしれない。


それでも、静の表情には迷いがなかった。


「ちゃんと報告して、ちゃんと終わりにします」


終わったことを、本人の前で終わらせる。


静はそう決めていた。


だが、二人の予定より先に、OMNIBUSがその場所になった。


いつもより早い時間に、静が店へ来た。


婚約者と食事をする約束だったが、仕事が少し早く終わったらしい。


「一時間くらい、吸えます?」


「吸えるよ。けど、いつもの席は先客がおる」


俺がカウンターの端を指すと、静の動きが止まった。


答案用紙から顔を上げた先生も、同じように固まった。


「先生?」


静が言った。


「静?」


先生が答えた。


二人の声を聞いて、ようやく俺の中で、別々だった話が一つに繋がった。


「え、この店、来るんですか」


「君こそ」


ほとんど同時に言って、二人とも黙った。


先生の前では、ローズの煙が細く立ち上っていた。


静はそれを見て、目を丸くした。


「先生、ローズ吸うんですか」


「ああ。昔から好きなんだ」


「知らなかった」


静は小さく笑った。


「私も、ローズが一番好きです」


今度は先生が驚く番だった。


「そうなのか」


「はい。先生の真似じゃなくて、自分で好きになりました」


「そうか」


先生はそれだけ言って、少し嬉しそうに笑った。


二人は同じ味を好きだった。


それなのに、その程度のことさえ知らなかった。


恋をしていた時間の長さと、知っていることの数は、必ずしも同じではないらしい。


「隣、座ってもいいですか」


静が尋ねた。


先生は答案用紙を鞄へ戻し、席を空けた。


俺は静の分のホースとマウスピースを用意した。


二人の間に置かれた一台のシーシャから、同じローズを吸った。


しばらくは、昔の話をしていた。


同級生の近況。


卒業式の日に泣いていた教師。


静が進路希望の紙を何度も書き直したこと。


どの話も明るく、よく笑った。


だからこそ、二人が本当に話すべきことだけを避けているのが分かった。


ボウルの上の炭が一つ、小さくなった頃だった。


静が左手をテーブルの上へ置いた。


指輪が、照明を反射した。


「先生。私、結婚します」


先生は指輪を見た。


驚いた顔はしなかった。


「そうか。おめでとう」


「ありがとうございます」


「相手は、どんな人なんだ」


「普通の人です」


静は笑った。


「でも、私が会いたいときに会ってくれて、好きって言ったら、好きって返してくれる人です」


先生は、ゆっくり頷いた。


「いい人なんだな」


「はい。すごく」


「幸せにな」


ありふれた祝福だった。


それでも静は、少しだけ苦しそうに笑った。


「私、先生のことが好きでした」


過去形だった。


先生にも、それは伝わったはずだ。


「知っている」


「三回も告白しましたもんね」


「その節は、申し訳なかった」


「謝らないでください。別に、悪いことじゃないから」


静は笑っていた。


それでも、膝の上では両手を強く握っていた。


「最後に、一つだけ聞いてもいいですか」


先生は答えなかった。


ただ、静の次の言葉を待った。


「一度でも、私を女として見たこと、ありました?」


店内にいたほかの客の笑い声が、遠くなったように感じた。


先生は静を見つめた。


その時間は、ほんの数秒だったと思う。


けれど、一つの人生を選ぶには十分な長さだった。


「ないよ」


先生は言った。


「君は、今までも、これからも、大切な教え子だ」


静は目を伏せた。


「そうですか」


短く息を吐いてから、顔を上げた。


「よかった」


それが本心ではないことくらい、俺にも分かった。


だが、先生は何も言わなかった。


「これで、心置きなく結婚できます」


静は笑った。


泣かなかった。


先生も笑った。


二人とも、最後まで大人の顔を崩さなかった。


しばらくして、静の携帯が鳴った。


「迎えに来たみたいです」


「婚約者が?」


「はい」


静は立ち上がった。


「先生、結婚式、来てくださいね」


「もちろん」


「絶対ですよ」


「教師が教え子との約束を破るわけにはいかないからな」


静は、少しだけ困ったように笑った。


「最後まで、先生ですね」


俺に会釈をして、店を出ていった。


窓の外に、一台の車が停まっていた。


運転席から男が降り、静のために助手席の扉を開けた。


静が何かを話すと、男は笑った。


二人を乗せた車が見えなくなるまで、先生は窓の外を見ていた。


俺は炭を替えた。


先生はローズの煙を吸った。


先ほどより深く、長く。


吐き出した煙で、表情が隠れた。


「好きだったんでしょう」


俺は言った。


先生は否定しなかった。


何度も来ている客の、いつもと違う沈黙だった。


しばらくして、静かに答えた。


「教師は、生徒に嘘をつかないとでも思っていましたか」


「元生徒やろ」


「私にとっては、今でもそうなんです」


「それ、逃げとるだけやないんですか」


失礼な言い方だった。


それでも先生は怒らなかった。


「そうかもしれません」


認めたうえで、ホースを置いた。


「彼女が私を好きだと言うたび、考えました。彼女が見ているのは、一人の男なのか。それとも、かつて自分を助けてくれた教師なのか」


「本人は、一人の男として好きや言うとったよ」


「ええ。信じています」


「なら、なんで」


「私が、自分を信じられなかった」


先生は、ボトルの中で揺れる水を見つめた。


「もし応えてしまえば、彼女の尊敬や、若い頃の弱さにつけ込んだことになるんじゃないか。いつか彼女が後悔したとき、私は自分を許せない。そんなことばかり考えて、答えを先延ばしにしました」


「それで、間に合わんかった?」


先生は頷いた。


「彼女から結婚すると聞いたとき、初めて、失うのだと分かりました」


「今からでも言えばええやないですか」


自分で言いながら、それが正しくないことも分かっていた。


先生は窓の外へ目を向けた。


もう静の乗った車は見えない。


「彼女が一人なら、そうしたかもしれません」


「好きなら、奪いに行くくらいしてもええやろ」


「それは、私の後悔を彼女に背負わせるだけです」


先生の声は穏やかだった。


「彼は、私ができなかったことをした。彼女と同じ時間に立って、彼女の気持ちに答えて、人生を共にすると決めた。今さら私が好きだったと伝えれば、彼女が自分で選んだ未来へ、迷いを置くことになる」


「大人だから、諦めるんですか」


「違います」


先生は、はっきりと言った。


「大人なら、もっと早く答えるべきでした。私はただ、間に合わなかったんです」


炭が赤く光った。


ローズの煙が、先生の周囲をゆっくり漂った。


「間に合わなかった答えを、今さら渡してはいけない。それは告白ではありません。相手の幸せの上に置く、こちらの荷物です」


俺には、反論できなかった。


大人になるとは、正しい答えを選べるようになることだと思っていた。


だが実際には、どの答えを選んでも誰かが傷つくと知ったうえで、その傷をなるべく自分の側へ残すことなのかもしれない。


先生は一人で、ローズを吸い続けた。


静と吸っていたときより、ずっと時間をかけて。


会計を終え、店を出る前に、先生は振り返った。


「静は、いつからローズを?」


「初めて来た日から、ずっと。先生と同じ席で、同じ味を吸ってましたよ」


「そうですか」


先生は、寂しそうに笑った。


「知らないことばかりだな」


扉が閉まり、ベルが鳴った。


テーブルの上には、まだ白い煙が残っていた。


二人は同じ店へ通い、同じ席に座り、同じ煙を好きだった。


互いを想っていた。


それでも、時間だけが合わなかった。


本物の薔薇なら、いつか枯れる。


煙なら、もっと早く消える。


それでも、そこに香りがあったことまで、なかったことにはできない。


ROSE。


煙にした薔薇には、触れられる花びらも、指を刺す棘もない。


それでもあの夜、店にいた誰も、無傷ではいられなかった。

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