第一煙 TWO APPLES
親友が二十歳になった夜、俺たちは林檎とは呼び難い煙を吸った。
日付が変わって十五分ほど経った頃だったと思う。
枕元で震えた携帯を取ると、誕生日を迎えたばかりの親友が、挨拶もなしに言った。
「シーシャ吸いに行こうや」
てっきり酒でも飲みに行くものだと思っていた。
二十歳になった人間が最初にしたがることなど、大抵は酒か煙草だ。少し出来の悪い奴なら、両方を一度にやりたがる。
だが、あいつが選んだのは水煙草だった。
「お前、シーシャって何か知っとんか」
「知っとるわ。煙を水に通すやつやろ」
「それ以上は?」
「知らん」
潔い返事だった。
俺も名前くらいしか知らなかったが、そのことは黙っていた。
「まあ、ええわ。二十歳の誕生日なんやろ。付き合うよ」
「さすが親友」
「金は?」
「誕生日やぞ?」
電話を切って、そのまま迎えに行った。
あの頃の俺たちは、二十歳になれば何かが変わると思っていた。
酒が飲める。煙草が買える。親の許可がなくても、大抵のことは自分で決められる。
それを自由と呼ぶのだと、誰に教わるでもなく信じていた。
自由には値札が付いていて、請求書は忘れた頃に届く。
そんな当たり前のことを、まだ知らなかった。
親友が見つけた店は、繁華街の中心から少し外れた雑居ビルの二階にあった。
派手な看板はなく、階段の途中に小さなランプが灯っているだけだった。
扉を開けた瞬間、甘い匂いがした。
果物とも香水とも違う。焦げた砂糖に、花と木と、知らない国の市場を全部混ぜたような匂いだった。
低いソファ。暗い照明。聞いたことのない音楽。
卓上には、理科室の実験器具にしか見えない細長い道具が置かれていた。
後に何百台と触ることになるそれを、俺はその夜、どうやって吸うのかさえ知らなかった。
「二名、いけますか」
親友が、初めてではないような顔で店員に尋ねた。
店員は俺たちを見て、すぐに初めてだと見抜いたらしい。
「フレーバーは決まってます?」
渡されたメニューには、果物、菓子、花、飲み物の名前が並んでいた。
ピーチ。ミント。レモン。ブルーベリー。バニラ。
どれも知っている言葉なのに、煙になると考えた途端、何ひとつ味が想像できなかった。
親友はしばらく真剣に眺めてから、一つの名前を指差した。
「これにします。ツーアップル」
「初めてでツーアップルですか?」
店員が少し笑った。
「林檎が二倍なんやろ? 絶対うまいやん」
「たぶん、想像してる林檎とは違いますよ」
「二十歳なんで。王道からいきます」
二十歳であることは、フレーバーを選ぶ理由にはならない。
それでも店員はそれ以上止めず、注文を受けた。
やがて、火のついた炭を載せたシーシャが運ばれてきた。
店員がホースを吸うたび、透明なボトルの中で水がごぼごぼと鳴った。
吐き出された煙は、天井の照明を白く曇らせた。
「最初はゆっくり、長めに吸ってください」
親友は頷き、ホースを受け取った。
そして、思い切り吸った。
盛大にむせた。
咳をしながらホースを置く姿がおかしくて、俺は腹を抱えて笑った。
「ゆっくり言われたやろ」
「うるさい。お前も吸え」
俺は同じ失敗をしないよう、慎重に煙を吸い込んだ。
口の中に甘さが広がった。
その直後、鼻の奥を、香辛料のような独特の匂いが抜けた。
林檎飴でも、アップルジュースでもない。
薬草。八角。古い洋菓子屋。知っているものをいくつ並べても、ぴたりとは当てはまらなかった。
「……これ、本当に林檎か?」
「林檎二倍や」
「二倍にした結果、林檎が消えとるやないか」
親友が笑った。
俺も、煙を吐きながら笑った。
白い煙が二人の間でぶつかり、形を失って天井へ昇っていった。
おいしいかと聞かれれば、よく分からなかった。
少なくとも、想像していた味ではなかった。
それでも、もう一度吸いたくなった。
分からないから、確かめたくなる。
最初の一口で理解できないものほど、人間は簡単には手放せない。
シーシャも、女も、人生も、たぶん同じだ。
「二十歳になった感じ、するか?」
しばらくして、俺は尋ねた。
親友はホースを持ったまま、ソファに深く沈み込んだ。
「全然せんな」
「昨日と何も変わらん?」
「変わらん。朝起きたら急に大人になっとると思ったんやけどな」
「二十歳を何やと思っとったんぞ」
「もっと完成しとると思っとった」
その言葉には、少しだけ同意できた。
子供の頃に見た二十歳は、ずっと大人に見えた。
自分の仕事があって、自分の金があって、好きな相手と好きな場所で暮らしている。間違っても自分で責任を取り、困ったときには正しい答えを選べる。
実際に辿り着いてみれば、俺たちは身体だけ大きくなった子供だった。
正しい答えどころか、自分が何を間違えているのかさえ分からない。
「まあ、こんなもんなんやろ」
俺は言った。
「大人になった瞬間なんか、誰にも分からんよ。あとから振り返って、あの辺やったんかなって思うだけで」
「お前、たまに急に爺さんみたいなこと言うよな」
「お前より十五分長く二十歳を経験しとるけんな」
「誕生日、全然違うやろ」
また二人で笑った。
二時間近くかけて、俺たちは一台のシーシャを吸った。
炭を替えるたびに味が戻り、やがて少しずつ薄くなっていった。
その変化が、妙に心地よかった。
酒のように判断を奪わない。煙草のように数分で終わらない。
話すことがなくなれば吸い、煙を吐き、また何かを思い出したら話せばいい。
沈黙さえ、気まずくならなかった。
「なあ」
親友が、天井に溜まった煙を見ながら言った。
「こういう店、ええな」
「何が?」
「何もせんでええやん。酒飲んで騒がんでもええし、ずっと喋らんでもええ。ただ座って煙吸っとったら、ここにおってええ感じがする」
「金は取られとるけどな」
「お前、こういう店やったら?」
俺は笑った。
その頃の俺に、店を持つ金などなかった。
人に話せるような経歴も、胸を張れるような未来もなかった。
あるのは無駄に鍛えた身体と、売っても一円にもならない意地、それから面倒な人間に好かれる才能くらいだった。
「俺が店員やったら、客と喧嘩するぞ」
「でも、お前、最後まで話は聞くやん」
「聞いたあとで喧嘩するんよ」
「なら向いとるわ」
何を根拠にしているのか分からなかった。
俺も本気にはしなかった。
ただ、その言葉だけは、ツーアップルの匂いと一緒に、妙に長く胸の奥へ残った。
やがて炭が小さくなり、ボトルの音も弱くなった。
帰ろうとしたとき、テーブルに伏せていた親友の携帯が震えた。
画面を見たあいつの顔が、分かりやすく緩んだ。
「誰ぞ」
「女」
「見たら分かるわ。どういう女?」
「最近知り合った。めっちゃええ子」
まだ何も聞いていないのに、嫌な予感がした。
俺は昔から、面倒事の匂いだけはよく分かる。
人間を見る目があるわけではない。
自分が何度も面倒事の中へ飛び込んできたから、同じ匂いを嗅ぎ分けられるだけだ。
「やめとけ」
「まだ何も言うてないやろ」
「ツーアップルを林檎二倍やと思う男に、女を見る目があるわけない」
「ひどない?」
笑いながら、親友はメッセージを返した。
画面の光に照らされた横顔は、二十歳になったばかりの男というより、好きな玩具を見つけた子供に見えた。
俺も、それ以上は何も言わなかった。
言ったところで聞かないと分かっていたし、何より、その笑顔を曇らせるほどの根拠を持っていなかった。
店を出ると、夜の空気は冷たかった。
服にも髪にも、甘い煙の匂いが染みついていた。
繁華街の明かりの下を、俺たちは並んで歩いた。
二十歳になった親友と、その横で何者にもなれていなかった俺。
同じ店に入り、同じ台を囲み、同じホースから煙を吸った。
だが、その夜を境に、俺たちの人生は少しずつ違う方向へ流れ始めた。
後に俺は、シーシャ屋を持つことになる。
地方都市の繁華街から少し離れた場所に、どんな人間でも客として迎える、不思議な店を。
店の名前は、OMNIBUS。
開店日をこの店の始まりだと思ったことはない。
OMNIBUSが生まれたのは、看板を掲げた日でも、最初の売上が立った日でもない。
親友と二人、林檎とは呼び難い煙を吸った、あの夜だ。
そして偶然にもその夜は、あいつが一人の女に騙され始めた夜でもあった。
ツーアップル。
二つの林檎という名を持ちながら、林檎とはまるで違う味がする煙。
今にして思えば、俺たちの始まりには、よく似合う味だった。




