第十煙 JASMINE
人は、誰かを救うときまで平等ではない。
大切な人間が崖へ向かえば、腕を掴んででも止めようとする。
だが、よく知らない誰かが同じ方へ歩いていても、その人の選択だと言って見送る。
自由を尊重しているのか。
責任を負いたくないだけなのか。
その違いは、自分でも分からないことがある。
美緒が初めてホストクラブへ行った夜から、十日ほどが経っていた。
連絡が途絶えたわけではない。
俺が飯へ誘えば、勤務表が出たら連絡すると返ってきた。
店はどうだったと聞けば、普通に楽しかったよ、と短い返事が来た。
以前の美緒なら、頼んでもいないのに料理の味や店員の態度まで話した。
楽しかったことほど、黙っていられない女だった。
だから、何も話さないことの方が気になった。
安倍は、帰って来られる席だけ空けておけと言った。
俺はその言葉を守るように、美緒へ何度も連絡することはしなかった。
店を開ければ、いつもの席へ目がいった。
誰も座っていなければ安心し、別の客が座れば少しだけ腹が立った。
席を空けておくというのは、思ったより難しい。
ただ待つだけの人間には、時間が長すぎる。
シナがOMNIBUSへ来たのは、そんな夜だった。
日付が変わる少し前。
階段から、聞き慣れたヒールの音がした。
扉が開き、甘い香水の匂いが入ってくる。
黒い服。
長く巻いた髪。
崩れていない化粧。
以前と同じ姿だった。
だが、頬が少し細くなっていた。
「久しぶり」
「二週間ぶりくらい?」
「数えとったん?」
「常連が来んなったら、店主は気にするよ」
「売上が?」
「それもある」
「正直やね」
シナは笑い、いつものソファへ座った。
大きな鞄を足元へ置き、携帯をテーブルに出す。
あの白い封筒はなかった。
持っていないのか。
鞄の中へ隠したのか。
聞かなかった。
「いつもの」
「今日は違うの吸わん?」
「なんで?」
「新しく入れたけん、感想聞きたい」
俺は棚からJASMINEを取り出した。
「花?」
「夜に香りが強うなる花」
「風俗嬢にぴったりって?」
「そこまで考えてないよ」
「店長、たまに無意識で失礼よね」
「嫌ならLADY KILLERにするけど」
シナは少し考え、首を横へ振った。
「今日は、それでええよ」
俺はJASMINEを単品で作った。
熱を入れすぎると、花の香りがくどくなる。
炭を少し外へ置き、ゆっくり立ち上げた。
水が軽い音を立てるまで吸い、シナの前へ運ぶ。
シナは長く吸い、白い煙を吐いた。
「香水みたい」
「まずい?」
「ううん。嫌いじゃない」
もう一度吸い、今度は鼻から少し煙を抜いた。
「甘いけど、LADY KILLERほど甘ったるくないね」
「たまには、男の名前がついてない味もええやろ」
「花も男から貰うもんやけどね」
そう言って、シナは携帯を触り始めた。
指が迷わず、一人の男の画面を開く。
担当のホストだった。
「見て。今日、髪色変えたんよ」
俺に見せたかったのは、男の新しい髪だった。
金に近い明るい色。
高そうな黒いスーツ。
店の照明を背負い、何人かのホストと並んでいる。
担当は写真の真ん中で笑っていた。
「前と何が違うん?」
「全然違うやん。ちゃんと見て」
「美容師呼んで説明してもらわんと分からん」
「ほんま、見る目ないね」
シナが画面を自分へ戻そうとした。
そのとき、写真の端に見覚えのある顔があった。
「待って」
俺は携帯を持つシナの手を止めた。
「何?」
「その写真、もう一回見せて」
画面を拡大する。
ホストたちの後ろ。
別のテーブルに、女が二人座っていた。
一人は顔の半分しか写っていない。
もう一人は、写真を撮られていることにも気づかず、隣の男を見て笑っていた。
美緒だった。
OMNIBUSへ来た夜とは違う服。
だが、笑うと細くなる目は見間違えようがなかった。
隣には、街で美緒へ声をかけた男がいた。
以前、美緒の携帯で見た顔だった。
「この写真、いつの?」
「昨日。担当がストーリーに上げとったやつ」
「この店、あいつもおるん?」
俺は美緒の隣にいる男を指した。
「おるよ。担当とは別のグループやけど」
「有名なん?」
「最近入った子じゃないかな。街でよく声かけよるって聞いたことある」
シナは俺の顔を見た。
「知り合い?」
「看護学校の親友」
「この女の子が?」
「うん」
写真の美緒は、楽しそうだった。
高い酒が並んでいるわけではない。
泣いても、酔い潰れてもいない。
ただ男の隣で笑っている。
安倍の言葉が頭に浮かんだ。
彼女がしたのは、気になる男の店へ行っただけだ。
危ないと思う理由を伝えろ。
関係を切らずに見ていろ。
帰って来られる席だけ、空けておけ。
正しいと思う。
安倍の言う通りだと思う。
それでも、写真の中で美緒が向けている笑顔を見た瞬間、待てなくなった。
俺は自分の携帯を取り出した。
連絡先を下へ送っていく。
何年もかけて増えた名前の中に、できればもう使いたくなかった番号が残っていた。
俺が看護学校へ入る前、よく一緒にいた後輩。
あの頃は、喧嘩の多いだけの若い男だった。
今は、地元で半グレと呼ばれる人間の一人になっている。
俺が家を出ても、親父と縁を切っても、昔俺を先輩と呼んだ人間まで消えたわけではない。
消したつもりになっていた番号を、俺は消せずにいた。
呼び出し音は、二度鳴った。
『お久しぶりです』
昔より低くなった声がした。
「悪いな、急に」
『先輩から電話くれるなんて、珍しいですね。どうしたんですか』
「頼みがある」
電話の向こうが、一瞬だけ静かになった。
『俺にですか』
「夜の店のことなら、お前の方が話早いやろ」
俺は店と男の名前を伝えた。
看護師の女へ近づいていること。
これ以上、連絡を取らせたくないこと。
『女の人は、先輩の何なんです?』
「親友よ」
『分かりました。話しときます』
「怪我はさせるな。話だけで終わらせて」
『向こうが分かれば、それで終わります』
淡々とした返事だった。
それが、かえって怖かった。
『親父さんの名前、出してもええんですか』
「出すな」
自分でも驚くほど強い声が出た。
「あの人は関係ない。俺の頼みや」
『分かりました。先輩の頼みなら』
電話が切れた。
俺は、自分の手を汚さず、昔の後輩へ汚れ役を渡した。
それを優しさと呼ぶには、使った手が汚すぎた。
だが、美緒を守れるなら、それでもいいと思った。
「店長、そういう電話もできるんやね」
シナが言った。
声から、いつもの軽さが少し消えていた。
「昔の知り合いよ」
「半グレなん?」
「今はな」
「昔は?」
「後輩」
「店長、何者なん」
「看護師兼シーシャ屋」
「それだけの人は、半グレに敬語で喋られんよ」
俺は答えず、JASMINEの炭を動かした。
少し熱が落ちていた。
炭を中央へ寄せると、次に吸った煙はさっきより濃くなった。
シナは黙って何度か吸った。
やがて、美緒が写った画面をもう一度見た。
「美緒ちゃん、真面目そうな子やね」
「真面目よ。俺よりずっと」
「可愛いし」
「笑顔はな」
「そこだけ?」
「褒めすぎたら気持ち悪い言われるけん」
「好きなん?」
「親友よ」
俺はさっき、電話の向こうにも同じように答えた。
それ以上でも、それ以下でもない。
だが、親友という言葉は、半グレを一人動かすには十分だった。
シナは、細い煙を吐いた。
「美緒ちゃんは、ええね」
「何が?」
「壊れる前に、怒ってくれる人がおって」
冗談を言うときと同じ声だった。
口元も笑っていた。
だから、返事が遅れた。
「私にも、そうしてくれる人がおったらな」
胸の奥に、細い針が入った。
「シナの担当にも、同じことしようか」
「私が頼んだら?」
「やめたいなら」
シナは小さく笑った。
「ほらね」
「何が?」
「美緒ちゃんは、頼まんでも助けるんやろ」
何も言えなかった。
「私は、やめたいって言わんと助けてもらえん」
「シナは、自分で分かっとると思ったけん」
「美緒ちゃんも分かっとるんじゃない?」
「あいつはまだ――」
まだ、何だと言うつもりだったのか。
間に合う。
戻れる。
汚れていない。
どの言葉を選んでも、目の前のシナを傷つける気がした。
初めて会った夜、シナは言った。
風俗嬢だと知った瞬間、勝手に不幸にして、勝手に救おうとする男がいる。
救ってほしくないのかと聞いた俺へ、少なくとも会って五分の男にはね、と笑った。
俺はその言葉を尊重しているつもりだった。
だが、何度会っても何もしないための免罪符にしていただけかもしれない。
美緒は親友。
シナは客。
俺は、その名前の違いを、助ける相手を選ぶ理由にしていた。
「別に、店長が悪いって言いよるんじゃないよ」
シナは言った。
「美緒ちゃんには店長がおった。それだけ」
「シナにも、俺がおるやろ」
「遅いよ」
静かな声だった。
責めてはいなかった。
だからこそ、言葉が深く残った。
テーブルの上で、俺の携帯が震えた。
後輩からだった。
――話はつきました。
――向こうも、もう連絡せんと言うてます。
たった二行。
何を言ったのかは書かれていない。
聞かない方がいいと思った。
俺は美緒へ、何も送らなかった。
これで守れたのか。
ただ選ぶ権利を奪ったのか。
答えは分からない。
それでも、そのときの俺は、美緒がこれ以上シナと同じ場所へ進まないことに安堵していた。
「よかったね」
シナが言った。
皮肉ではなかった。
本当に、少し安心した顔をしていた。
そのとき、今度はシナの携帯が震えた。
画面に、担当の名前が映る。
続けて、短いメッセージが届いた。
――今どこ?
――今日きつい。シナに会いたい。
以前にも見た言葉だった。
言葉が同じでも、受け取る人間の胸は毎回新しく痛む。
シナの指が、携帯へ伸びた。
画面を開く。
返事を打とうとして、止まる。
「シナ」
「何?」
「今、おるやろ」
「何が?」
「そうしてくれる人」
シナは俺を見た。
少しだけ困ったように笑った。
「ほんま、遅いよ」
「遅れても、来んよりはええやろ」
シナは何も答えなかった。
携帯を持ったまま、長くJASMINEを吸った。
白い煙を吐き終えると、自分の手で画面を伏せた。
「じゃあ、この一本を吸い終わるまでだけ、助けてもらおうかな」
「何したらええ?」
「ここにおって」
「店主やけん、最初からおるよ」
「それでええ」
それから、シナと俺はほとんど話さなかった。
携帯は何度か震えた。
シナは一度も裏返さなかった。
俺は炭を替えた。
酒を注いだ。
花の香りが薄くなれば、熱を少しだけ上げた。
シナは途中で立たなかった。
誰かに呼ばれても、白い封筒を鞄へ入れて急ぐことはなかった。
一本の煙を、最後まで吸った。
会計を終え、シナは携帯を鞄へ入れた。
「次もJASMINEにするんか?」
俺が聞くと、少し考えた。
「分からん。その日の気分」
「いつものに戻してもええよ」
「うん」
扉を開ける前、シナは振り返った。
「またね」
「また」
どこへ帰ったのかは聞かなかった。
担当の店へ向かったのかもしれない。
一人で家へ帰ったのかもしれない。
一本のシーシャを最後まで吸ったくらいで、人の人生は変わらない。
俺が美緒のために使った昔の人脈も、すべてを解決する魔法ではなかった。
昔の人間へ頼み事をすれば、いつか別の形で返事を求められる。
借りは、金より遅く、金より重く取り立てに来る。
その代価を、俺はまだ知らなかった。
JASMINE。
夜になるほど、強く香る花がある。
暗い場所で咲いたからといって、朝を知らないわけではない。
その夜、シナは一本分だけ、誰かの客でいることをやめた。




