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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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11/16

第十一煙 GRAPEFRUIT MINT

感謝は、嬉しいだけの言葉ではない。


誰かに助けられたと認めることは、自分一人では戻れなかったと認めることでもある。


だから人は、本当に苦しかったときほど、ありがとうを言うまでに時間がかかる。


美緒がOMNIBUSへ来たのは、シナの携帯に写った写真を見た夜から、三週間ほど経った頃だった。


その間、美緒から連絡はなかった。


俺も、送らなかった。


後輩からは、話はついたと聞いていた。


あのホストが美緒へ何を言ったのか。


何も言わず消えたのか。


美緒がどう受け取ったのか。


確かめるのが怖かった。


助けたつもりだった。


だが、腕を掴んで崖から引き戻したのか、歩こうとしていた道を勝手に塞いだのかは、美緒にしか決められない。


店を開けるたび、いつもの席を見た。


空いていれば、安倍の言葉を思い出した。


帰って来られる席だけ、空けておけ。


俺は席を用意した。


そのくせ、自分から帰り道まで塞いだ。


正しいことをした人間は、たぶんもう少し堂々と待てる。


その夜は、平日の早い時間だった。


まだ客は一人もいなかった。


表の通りを走る車の音が、遠く聞こえていた。


俺はカウンターの中で、フレーバーの容器を並べ直していた。


階段を上がってくる足音がした。


ヒールではない。


仕事用の、底の低い靴の音だった。


扉が開く。


美緒が立っていた。


薄い化粧。


肩へ掛けた大きな鞄。


髪は後ろで一つに結んでいる。


看護学校の帰りに飯を食っていた頃と、あまり変わらない姿だった。


元に戻った、とは思わなかった。


濃い化粧も、黒いワンピースも、美緒が自分で選んだものだ。


どちらが本当で、どちらが偽物というわけではない。


ただ、その日の美緒は、俺が一番よく知っている格好をしていた。


「久しぶり」


「生きとったん」


「勝手に殺さんといて」


「連絡ないけん、死んだかと思った」


「あんたからも来んかったやん」


「忙しかったんよ」


「嘘つけ」


美緒はそれ以上言わず、いつもの席へ座った。


鞄を隣に置き、携帯をテーブルへ伏せる。


「グレープフルーツでええ?」


俺が聞くと、美緒は少し考えた。


「ミント、混ぜられる?」


「どれくらい?」


「分からん。辛すぎんくらい」


「任せて」


美緒が、いつもの味へ何かを混ぜてほしいと言ったのは初めてだった。


俺はGRAPEFRUITを多めに取り、MINTは香りが通る程度に抑えた。


ミントは、少しで全体を変える。


入れすぎれば、果物の甘味も苦味も、全部同じ冷たさで覆ってしまう。


美緒が好きなのは、甘いだけではないグレープフルーツだった。


苦味まで消す必要はない。


二つのフレーバーを詰め、炭を載せた。


数分蒸らしてから、ゆっくり吸い出す。


ボトルが低く鳴り、白い煙のあとから柑橘の香りが立った。


最後に、喉の奥へ冷たさが残る。


俺は炭を外側へ少しずらし、美緒の前へ運んだ。


「GRAPEFRUIT MINT」


「そのままやね」


「分かりやすいやろ」


美緒はホースを持ち、長く吸った。


白い煙を吐く。


「思ったよりミント弱い」


「強い方がよかった?」


「ううん。これくらいがええ」


もう一度吸い、目を細めた。


昔、初めてGRAPEFRUITを出したときと同じ顔だった。


「苦いの、ちゃんと残っとる」


「そこが好きなんやろ」


「よう覚えとるね」


「客の好み覚えるんが仕事やけん」


「私は客なん?」


「金払うなら」


「感じ悪」


美緒は笑った。


その笑顔が、誰かへ見せるために作ったものかどうかを考えるのはやめた。


美緒が今、俺の前で笑っている。


それだけでよかった。


しばらく、仕事の話をした。


夜勤で認知症の患者が帰ると言って玄関に座り込んだこと。


新人が点滴の速度を何度も確認しに来たこと。


苦手だった医者が異動し、病棟の空気が少し軽くなったこと。


以前と同じような愚痴だった。


俺も、最近来た面倒な客の話をした。


フレーバーを選ぶのに三十分かけ、最後には最初に勧めたものを頼んだ男。


煙を輪にしようとして、何度も咳き込んだ女。


美緒は笑った。


だが、会話の間に、何度か短い沈黙が入った。


言いたいことがある人間は、話題を増やす。


本題へ近づかないように、どうでもいい話を丁寧に続ける。


看護学校の試験前、美緒が勉強していないと言いながら、教科書の端まで覚えていたときも同じだった。


炭の灰を落とし、位置を少し変えた。


熱が戻ると、グレープフルーツの香りがもう一度濃くなった。


美緒は煙を吐き終え、ホースを膝の上へ置いた。


「ねえ」


「うん」


「あの人、急に連絡くれんなったんよ」


来た、と思った。


「そうなん」


できるだけ普通に答えた。


美緒は俺を見た。


「あんた、驚かんね」


「驚いとるよ」


「嘘」


「なんで」


「ほんまに驚いたとき、あんたは最初に『なんで』って聞くけん」


「今聞いたやろ」


「言われてからやん」


長く一緒にいる人間へ、嘘をつくのは難しい。


表情を隠しても、声を整えても、いつもと違う順番までは直せない。


美緒は看護学校の頃から、俺が寝ていないと言い張れば目の下を見た。


大丈夫だと言えば、飯をどれだけ残したか見た。


言葉より先に、その周りを確かめる女だった。


「何かした?」


静かな声だった。


「何も」


「ほんまに?」


「俺が何できるんぞ」


美緒は、しばらく俺の顔を見た。


何かを探すような目だった。


やがて、視線をシーシャへ戻した。


「そっか」


それ以上は聞かなかった。


俺も、何も言わなかった。


後輩へ電話したこと。


親父の名前は使うなと言ったこと。


話がついたと、二行だけ返事が来たこと。


口にすれば、美緒を守るためだったという言い訳まで一緒に出てきそうだった。


守りたかったのは本当だ。


だが、本当の気持ちが、したことを正しくしてくれるわけではない。


美緒はGRAPEFRUIT MINTを吸った。


煙を吐きながら、テーブルに伏せた携帯を指で軽く叩いた。


「最初は、何かあったんかと思った」


「事故とか?」


「うん。前の日まで普通に連絡しよったけん」


朝の挨拶が来なかった。


昼になっても、既読がつかなかった。


夜になれば仕事が始まるからと、自分へ言い聞かせた。


それでも返事はなかった。


「次の日は、私が何か変なこと言うたんかと思った」


美緒は、自分が送ったメッセージを最初から読み返した。


句読点が多すぎたのか。


返事が早すぎたのか。


店で誰かに失礼なことをしたのか。


思い当たる理由を探し、見つからなければ、自分の性格の中から悪いところを探した。


「三日目は?」


「腹立った」


美緒らしい答えだった。


「一言くらい言えるやろって。もう会わんでも、嫌いでもええけん、何か言えって」


「店には?」


美緒は少し黙った。


「行こうとした」


仕事が終わってから、一度家へ帰った。


化粧を直し、あの夜とは違う服を選んだ。


店へ向かう途中、何度も携帯を見た。


今から行くと送ろうとして、やめた。


店のある通りまで歩いた。


「入らんかったん?」


「入れんかった」


「なんで?」


「怖くなったんよ」


会えなかったらどうしよう。


会えても、冷たい顔をされたらどうしよう。


客として金を払えば、前と同じように笑ってくれるかもしれない。


そう考えた自分が、一番怖かったと言った。


「次行くために、夜勤一回増やしとったんよ」


美緒は、少し恥ずかしそうに笑った。


「まだ二回しか店行ってないのに。次はもう少し使ってあげたいとか考えて。私、馬鹿やろ」


「馬鹿ではないよ」


「馬鹿よ。患者には無理せず休んでくださいって言いながら、自分は男に会うために夜勤増やしよるんやけん」


その言葉は、シナへ何度も言いたかったことと同じだった。


誰の人生に間に合わせようとしているのか。


美緒は、自分で気づいた。


気づいたから戻れたのか。


戻されたから気づけたのか。


順番は分からない。


「一週間くらい、ずっと携帯見よった」


朝起きれば、通知を確認した。


仕事中も、休憩へ入るたび画面を開いた。


夜は、音が聞こえなかった気がして、何度も明るくした。


連絡は来なかった。


「でも、そのうち寝れるようになった」


美緒は言った。


「夜勤明けに携帯握ったまま待たんでも、普通に寝れるようになった。ご飯食べよるときも、画面見ん日が増えた」


テーブルの携帯は、一度も震えていなかった。


美緒も、一度も裏返さなかった。


「今でも、たまに見よるけどね」


「連絡来とらんか?」


「うん」


「来たら?」


美緒はすぐには答えなかった。


ホースを持ち、残った煙を長く吸った。


グレープフルーツの香りは少し弱くなり、ミントの冷たさが前より分かりやすくなっていた。


「分からん」


正直な答えだった。


「また返すかもしれん。もう返さんかもしれん」


「そっか」


「でも、前みたいにすぐには返さんと思う」


それで十分だった。


二度と間違えないと誓う人間より、また間違えるかもしれないと知っている人間の方が、自分の足元をよく見ている。


美緒はホースを置いた。


両手を膝の上で組む。


患者や家族へ大事な話をするときと同じ姿勢だった。


「もし、あんたが何かしたんなら」


「何もしてないよ」


「最後まで聞いて」


「はい」


美緒は一度、息を吐いた。


「勝手なことせんといて」


「何の話?」


「分からん。あんた、何もしてないらしいけん」


「そうよ」


「でも、もし誰かが勝手にあの人との連絡を切らせたんなら、私は嫌やった」


俺は黙って聞いた。


「連絡来んなって、泣いたし。仕事も集中できんかった。自分で終わらせたかったって、今でも思う」


美緒の言う通りだった。


俺は、美緒が選ぶはずだった答えを待たなかった。


自分の嫌な予感を外すために、美緒の物語へ勝手に手を入れた。


安倍なら、怒るだろうか。


たぶん怒鳴りはしない。


選んだことには代価がある、と静かに言うだろう。


「けど」


美緒は続けた。


「助かったのも、ほんま」


顔を上げた。


昔から変わらない目で、俺を見た。


「あのまま毎日連絡来とったら、私、たぶんまた店へ行っとった。夜勤増やして、もっと金使って、それでも自分は大丈夫って言いよったと思う」


嫌だった。


助かった。


どちらか一つを嘘にしなければならない理由はない。


人の気持ちは、正しい答えを一つだけ選ぶ試験ではない。


「じゃあ、何に対してか分からんけど」


美緒は、少しだけ笑った。


「ありがとう」


胸の奥に、温かいものが広がった。


礼が欲しくてしたことではない。


そう言い切れるほど、俺は立派ではなかった。


美緒に恨まれていないと分かって、安心した。


助けになったと言われて、嬉しかった。


だが、美緒のありがとうは、俺がしたことを正しくするための言葉ではない。


美緒が、自分の中でこの話を終えるために選んだ言葉だった。


「礼言われるようなこと、何もしてないよ」


「うん。知っとる」


「なら、会計安くはならんぞ」


「今ので全部台無し」


美緒は笑った。


俺も笑った。


その嬉しさのすぐ隣に、シナの声が浮かんだ。


――私にも、そうしてくれる人がおったらな。


――遅いよ。


美緒のありがとうを受け取るたび、シナへ何もしなかった時間まで消えるわけではない。


救えたかもしれない一人を理由に、見送ってきた誰かを忘れてはいけないと思った。


「あんたが友達でよかった」


美緒が言った。


「今さら気づいたん?」


「調子乗んな」


「俺もよ」


「何が?」


「お前が友達でよかった」


美緒は少し驚いたあと、照れたようにホースを持った。


「今さらすぎるんよ」


昔、笑顔が可愛いと言ったときと同じ返事だった。


俺たちは、そのあと看護学校の頃の話をした。


俺が授業中に寝ていたこと。


美緒のノートがなければ、たぶん何度か留年していたこと。


実習で二人とも教員に怒られ、帰りにその物真似をしたこと。


話している間、美緒は一度も時計を見なかった。


携帯も見なかった。


GRAPEFRUIT MINTを、最後まで吸った。


会計を済ませ、鞄を肩へ掛けた。


「また飯行こうや」


「勤務表出たら連絡する」


「それ、前も聞いたぞ」


「今度はちゃんとするけん」


「期待せんと待っとく」


美緒は扉の前で笑った。


「ありがとう」


二度目は、何に対してか聞かなかった。


「またな」


扉が閉まり、階段を下りる足音が遠ざかった。


いつもの席が空いた。


だが、もう帰りを待つための空席には見えなかった。


自分の足で帰った人間が、また好きなときに座るための席だった。


GRAPEFRUIT MINT。


苦味は消えない。


ただ、冷たい煙が一筋通れば、次の一息は少しだけ吸いやすくなる。


その夜、美緒は一度も携帯を見なかった。

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