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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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12/16

第十二煙 LAVENDER

魔法使いがOMNIBUSへ来た。


箒ではなく、古いギターケースを持っていた。


その夜、店にはタカダさんと先生がいた。


タカダさんはいつもの席で、BLUEBERRY MINTとチェの煙草を交互に吸っていた。


先生は奥のソファへ座り、ROSEの煙を吐きながら、生徒の答案に赤い印をつけていた。


珍しく、二人とも静かだった。


正確に言えば、タカダさんが声を落としていた。


「最近、裏の若いのが変な薬やっとるらしいで」


「薬?」


俺が聞くと、タカダさんはチェの灰を落とした。


「寝んでも平気になるとか、怖いもんがのうなるとか、そがいな話じゃ」


「どこで聞いたん」


「取引先の人間が、飲み屋の裏で見た言うとったんよ。半グレの連中が、何日も寝とらん顔で騒いどったらしい」


先生が答案から顔を上げた。


「噂なら、あまり広げない方がいいでしょう」


「分かっとる。じゃけぇ店名も名前も言うとらんじゃろ」


「噂で終わればいいですけどね」


「終わらん気がするけぇ、話しとるんよ」


タカダさんは煙を吐いた。


白い煙が、低い天井の照明へ上がっていく。


俺は何も言わなかった。


少し前、美緒のことで頼った後輩の顔が浮かんだ。


今は、地元で半グレと呼ばれる人間の一人になっている。


後輩自身の話なのか。


その周りにいる若い連中の話なのか。


ただの噂なのか。


確かめるには、こちらから連絡しなければならない。


俺は一度頼み事をしたばかりだった。


借りを作った相手へ、用もないのに近づく気にはなれなかった。


「まあ、街の夜に変なもんが流行るんは、今に始まったことじゃねぇわ」


タカダさんが言った。


「酒も、女も、賭け事も、みんな明日を忘れるために金払うんじゃけぇ」


「シーシャも入るん?」


「お前の店は、忘れに来た人間に昔の話させるじゃろ。逆じゃ」


「うまいこと言うやん」


「俺は営業じゃけぇの」


そのとき、階段を上がってくる足音がした。


ゆっくりした足取りだった。


一段ずつ、急がず上がってくる。


扉の前で音が止まり、少し間を置いてからベルが鳴った。


入ってきた女は、魔法使いには見えなかった。


長い黒髪。


生成り色のブラウス。


足首まである深い緑のスカート。


耳元に、小さな月の形をした飾りが揺れていた。


肩には、使い込まれた革のギターケースを背負っている。


年齢は、俺と同じくらいにも、少し上にも見えた。


「一人でも、かまん?」


「どうぞ。好きな席へ」


女は店内を見回し、カウンターに近い一人掛けのソファへ座った。


ギターケースは、倒れないよう壁へ丁寧に立てかけた。


俺がメニューを渡すと、開く前に尋ねた。


「紫の煙って、作れる?」


「煙へ色はつけれんけど、紫っぽい味なら」


「どんな味?」


「LAVENDER。花の香り」


女は嬉しそうに目を細めた。


「それがええね。お願いしてもかまん?」


「単品で?」


「混ぜん方が、紫が濁らん気がするんよ」


味ではなく、頭の中の色でフレーバーを選ぶ客は初めてだった。


「名前、聞いてもええ?」


「ルイいうんよ」


「本名?」


「本名かもしれんし、違うかもしれんね」


ルイさんは、穏やかに笑った。


ここでは、ルイと名乗るならルイさんだった。


俺はそれ以上聞かなかった。


LAVENDERをほぐし、ボウルへ詰めた。


花の香りは、熱を強く入れすぎると重たくなる。


炭を外側へ置き、数分蒸らす。


ゆっくり吸い出すと、柔らかな香りが煙の中へ立ち上がった。


状態を確かめてから、ルイさんの前へ運ぶ。


ルイさんはホースを持ち、慣れた様子で長く吸った。


吐き出した白い煙を、目で追う。


「ちゃんと紫やね」


「白にしか見えんけど」


「見ようとするところが違うんよ」


「変わった人やな」


「よう言われる」


気を悪くした様子はなかった。


むしろ、褒め言葉を受け取ったように笑った。


「普段、何しよる人なん?」


俺が尋ねると、ルイさんはギターケースを見た。


「歌を作って、歌いよる」


「シンガーソングライター?」


「それと、魔法使い」


聞き間違えたと思った。


「何使い?」


「魔法使いよ」


声は真面目だった。


冗談を言って笑いを待つ顔ではない。


タカダさんが、こちらを向いた。


「魔法使いなら、うちの会社の売上上げてくれや」


「人の欲を叶えるんは、だいたい魔法やのうて呪いやけん、ようせんのよ」


「使えん魔法使いじゃのう」


「営業さんなら、自分で上げられるやろ」


「それができたら苦労せんわ」


「できる人の言い方やね」


タカダさんは少し黙った。


「お姉さん、営業もできるんじゃねぇか」


先生が、答案を置いた。


「魔法では、何ができるんですか」


ルイさんはROSEの煙越しに先生を見た。


「歌を聴いた人の帰り道を、一本だけ変えられるんよ」


「帰り道?」


「真っ直ぐ帰るつもりやった人が、誰かに電話してみたり。いつもの道を曲がって、見たことない店へ入ってみたり」


「それは、歌を聴いた人が自分で決めることでしょう」


「ええ魔法ほど、かけられた人は自分で選んだと思うもんよ」


先生は、少し考えた。


「なるほど。教師には、耳の痛い話ですね」


「先生なん?」


「ええ。一応」


「なら、毎日ようけ魔法を使いよるね」


「効かない生徒の方が多いですが」


「効くまでに時間のかかる魔法もあるんよ」


先生は、答案へ目を落とした。


少しだけ嬉しそうに見えた。


ルイさんは、またLAVENDERを吸った。


炭の熱が回り、最初より煙が濃くなっていた。


俺は炭を一つ外へ寄せた。


「店長さんも、魔法使いやろ」


「俺は看護師兼シーシャ屋よ」


「葉っぱへ熱を入れて、知らん人に昔の話をさせよる」


「俺が喋らせよるんやない。客が勝手に喋るんよ」


「ほら。自分で選んだと思うとる」


ルイさんは笑った。


「充分、魔法よ」


魔法と呼ぶには、俺のしていることは地味すぎる。


フレーバーを詰める。


炭を替える。


客の話を聞く。


帰りたくなった人へ、会計を出す。


それだけだ。


だが、OMNIBUSへ来なければ出会わなかった人間が、同じ煙の中で話をしている。


スキンヘッドの教師が、チェ・ゲバラみたいな営業マンの隣で答案を採点し、自称魔法使いが二人を見て笑っている。


少なくとも、普通の場所ではなかった。


「今度、ライブするんよ」


ルイさんは鞄から、小さな紙を一枚取り出した。


手書きの月と、ギターの絵。


繁華街の外れにある、小さなライブハウスの名前が書かれていた。


「店長さんも、おいで」


「店あるけん」


「その日は?」


紙に書かれた日付は、OMNIBUSの店休日だった。


「休みやけど」


「ほんなら、来られるね」


「休みは休むためにあるんよ」


「人の話ばっかり聞きよったら、耳まで店のもんになるけん」


ルイさんは、俺の前へ紙を置いた。


「たまには外で使うておいで」


断る理由を探していると、タカダさんが口を挟んだ。


「行ってこいや。休みに一人で店の掃除しょっても、金にはならんぞ」


「俺の休みの過ごし方、決めるなや」


「ほんなら俺が行こうか。魔法で営業成績上げてもらわにゃいけん」


「あんたは出禁にされそうやけん、俺が行く」


「最初から行きてぇんじゃねぇか」


ルイさんが、声を立てずに笑った。


「一人、予約しとくね」


そうして俺は、魔法使いのライブへ行くことになった。


ライブハウスは、雑居ビルの地下にあった。


OMNIBUSより繁華街へ近いが、表通りから細い路地へ入らなければ見つからない。


階段を下りると、低い天井の部屋に三十人ほどの客がいた。


椅子はなく、壁際に小さなテーブルが並んでいる。


酒を一杯受け取り、一番後ろへ立った。


店の照明が落ちた。


小さな拍手の中、ルイさんがステージへ出てきた。


OMNIBUSへ来た夜と、ほとんど同じ格好だった。


違うのは、月の飾りが照明を受けて光っていることだけだった。


「こんばんは。ルイです」


魔法使いとは名乗らなかった。


椅子へ座り、古いギターを膝へ置く。


最初の音が鳴ると、話し声が止まった。


ルイさんの声は、大きくなかった。


客を振り向かせようと追いかける声ではない。


こちらが静かになれば、初めて聞こえる声だった。


帰れん夜には、帰りたい方を覚えとって。


扉が見えんでも、灯りまで消えたわけやない。


そんな歌だった。


俺は、先輩を思い出した。


冬の海へ入り、そのまま帰らなかった人。


親友を思い出した。


悪い女を追って県外へ行き、捨てられて戻ってきた人。


先生と静。


タカダさんと優香。


シナと美緒。


OMNIBUSの扉を開け、煙を吸い、またどこかへ帰っていった人たち。


俺は普段、客が話す人生の途中へ座っている。


自分から誰かの作った時間へ座りに来たのは、久しぶりだった。


三曲目が終わる頃には、手に持った酒はほとんど減っていなかった。


最後の曲が終わり、客が拍手をした。


ルイさんは深く頭を下げた。


顔を上げたとき、客席の後ろにいる俺を見つけた。


ほんの少し、笑ったように見えた。


ライブが終わると、出口の近くでルイさんが客を見送っていた。


「来てくれたんやね」


「予約されたけん」


「魔法、効いた?」


「酒一杯しか飲んでないよ」


「信じん人には、そう見えるんよ」


「便利な言い方やな」


「魔法使いやけん」


ルイさんは、OMNIBUSで吸ったLAVENDERの代金より少し安いCDを一枚、俺へ渡した。


「買えってこと?」


「来てくれたお礼」


「商売下手やな」


「歌は売りよるけど、魔法は売ってないんよ」


紙の袋には、小さな月が手書きされていた。


俺たちは、同じタイミングで店を出た。


夜の空気は少し冷たかった。


表通りへ出るため、細い路地を歩く。


途中、黒い車の横に若い男が三人いた。


一人は、電話した後輩の近くで何度か見た顔だった。


俺に気づくと、慌てたように姿勢を正した。


「お疲れさまです」


俺は短く頷いた。


男は上着一枚で、寒くないのかと思うほど汗をかいていた。


隣の男は、誰も話していないのに笑い続けている。


もう一人は周囲を何度も見回し、車の影へ何かを隠すように手を動かした。


酒に酔っているだけには見えなかった。


看護師として、何人も状態の悪い人間を見てきた。


だが、路地で診察を始めるわけにはいかない。


「何しよるん」


俺が尋ねると、三人とも一瞬黙った。


「ちょっと、遊んでただけです」


汗をかいた男が答えた。


声は妙に明るかった。


「ほどほどにせえよ」


「はい」


素直な返事だった。


素直すぎる返事ほど、何も届いていないことがある。


俺はその場を離れた。


少し歩いてから、ルイさんが振り返った。


「あの人ら、悪い魔法にかかっとるね」


「魔法やないよ」


「名前が違うだけで、帰れんなるものはよう似とるんよ」


「知り合い?」


「俺の知り合いの、知り合い」


「遠そうで、近いね」


「夜の街は狭いけん」


表通りへ出るところで、ルイさんとは別れた。


「今日は、ありがとう」


俺が言うと、ルイさんは少し驚いた顔をした。


「何のお礼?」


「分からん。歌か、魔法か」


「ほんなら、効いたんやね」


「調子乗んな」


ルイさんは上品に笑い、ギターケースを背負い直した。


「また、お店へ行くけん」


「紫、用意しとくよ」


「次は違う色がええかもしれん」


「そのとき決めたらええ」


ルイさんは手を振り、夜の人混みへ消えた。


俺は一人になり、さっきの路地を振り返った。


黒い車は、もうなかった。


タカダさんの噂話が、頭に残っていた。


寝なくても平気になる。


怖いものがなくなる。


明日を忘れるために、金を払う。


俺の携帯が震えた。


画面には、美緒の件で頼った後輩の名前が出ていた。


――先輩、近いうち店へ行ってもええですか。


短いメッセージだった。


俺はすぐには返さなかった。


LAVENDER。


眠りへ連れていく花の煙。


その頃、街では、人を眠れなくする何かが静かに広がり始めていた。

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