第十二煙 LAVENDER
魔法使いがOMNIBUSへ来た。
箒ではなく、古いギターケースを持っていた。
その夜、店にはタカダさんと先生がいた。
タカダさんはいつもの席で、BLUEBERRY MINTとチェの煙草を交互に吸っていた。
先生は奥のソファへ座り、ROSEの煙を吐きながら、生徒の答案に赤い印をつけていた。
珍しく、二人とも静かだった。
正確に言えば、タカダさんが声を落としていた。
「最近、裏の若いのが変な薬やっとるらしいで」
「薬?」
俺が聞くと、タカダさんはチェの灰を落とした。
「寝んでも平気になるとか、怖いもんがのうなるとか、そがいな話じゃ」
「どこで聞いたん」
「取引先の人間が、飲み屋の裏で見た言うとったんよ。半グレの連中が、何日も寝とらん顔で騒いどったらしい」
先生が答案から顔を上げた。
「噂なら、あまり広げない方がいいでしょう」
「分かっとる。じゃけぇ店名も名前も言うとらんじゃろ」
「噂で終わればいいですけどね」
「終わらん気がするけぇ、話しとるんよ」
タカダさんは煙を吐いた。
白い煙が、低い天井の照明へ上がっていく。
俺は何も言わなかった。
少し前、美緒のことで頼った後輩の顔が浮かんだ。
今は、地元で半グレと呼ばれる人間の一人になっている。
後輩自身の話なのか。
その周りにいる若い連中の話なのか。
ただの噂なのか。
確かめるには、こちらから連絡しなければならない。
俺は一度頼み事をしたばかりだった。
借りを作った相手へ、用もないのに近づく気にはなれなかった。
「まあ、街の夜に変なもんが流行るんは、今に始まったことじゃねぇわ」
タカダさんが言った。
「酒も、女も、賭け事も、みんな明日を忘れるために金払うんじゃけぇ」
「シーシャも入るん?」
「お前の店は、忘れに来た人間に昔の話させるじゃろ。逆じゃ」
「うまいこと言うやん」
「俺は営業じゃけぇの」
そのとき、階段を上がってくる足音がした。
ゆっくりした足取りだった。
一段ずつ、急がず上がってくる。
扉の前で音が止まり、少し間を置いてからベルが鳴った。
入ってきた女は、魔法使いには見えなかった。
長い黒髪。
生成り色のブラウス。
足首まである深い緑のスカート。
耳元に、小さな月の形をした飾りが揺れていた。
肩には、使い込まれた革のギターケースを背負っている。
年齢は、俺と同じくらいにも、少し上にも見えた。
「一人でも、かまん?」
「どうぞ。好きな席へ」
女は店内を見回し、カウンターに近い一人掛けのソファへ座った。
ギターケースは、倒れないよう壁へ丁寧に立てかけた。
俺がメニューを渡すと、開く前に尋ねた。
「紫の煙って、作れる?」
「煙へ色はつけれんけど、紫っぽい味なら」
「どんな味?」
「LAVENDER。花の香り」
女は嬉しそうに目を細めた。
「それがええね。お願いしてもかまん?」
「単品で?」
「混ぜん方が、紫が濁らん気がするんよ」
味ではなく、頭の中の色でフレーバーを選ぶ客は初めてだった。
「名前、聞いてもええ?」
「ルイいうんよ」
「本名?」
「本名かもしれんし、違うかもしれんね」
ルイさんは、穏やかに笑った。
ここでは、ルイと名乗るならルイさんだった。
俺はそれ以上聞かなかった。
LAVENDERをほぐし、ボウルへ詰めた。
花の香りは、熱を強く入れすぎると重たくなる。
炭を外側へ置き、数分蒸らす。
ゆっくり吸い出すと、柔らかな香りが煙の中へ立ち上がった。
状態を確かめてから、ルイさんの前へ運ぶ。
ルイさんはホースを持ち、慣れた様子で長く吸った。
吐き出した白い煙を、目で追う。
「ちゃんと紫やね」
「白にしか見えんけど」
「見ようとするところが違うんよ」
「変わった人やな」
「よう言われる」
気を悪くした様子はなかった。
むしろ、褒め言葉を受け取ったように笑った。
「普段、何しよる人なん?」
俺が尋ねると、ルイさんはギターケースを見た。
「歌を作って、歌いよる」
「シンガーソングライター?」
「それと、魔法使い」
聞き間違えたと思った。
「何使い?」
「魔法使いよ」
声は真面目だった。
冗談を言って笑いを待つ顔ではない。
タカダさんが、こちらを向いた。
「魔法使いなら、うちの会社の売上上げてくれや」
「人の欲を叶えるんは、だいたい魔法やのうて呪いやけん、ようせんのよ」
「使えん魔法使いじゃのう」
「営業さんなら、自分で上げられるやろ」
「それができたら苦労せんわ」
「できる人の言い方やね」
タカダさんは少し黙った。
「お姉さん、営業もできるんじゃねぇか」
先生が、答案を置いた。
「魔法では、何ができるんですか」
ルイさんはROSEの煙越しに先生を見た。
「歌を聴いた人の帰り道を、一本だけ変えられるんよ」
「帰り道?」
「真っ直ぐ帰るつもりやった人が、誰かに電話してみたり。いつもの道を曲がって、見たことない店へ入ってみたり」
「それは、歌を聴いた人が自分で決めることでしょう」
「ええ魔法ほど、かけられた人は自分で選んだと思うもんよ」
先生は、少し考えた。
「なるほど。教師には、耳の痛い話ですね」
「先生なん?」
「ええ。一応」
「なら、毎日ようけ魔法を使いよるね」
「効かない生徒の方が多いですが」
「効くまでに時間のかかる魔法もあるんよ」
先生は、答案へ目を落とした。
少しだけ嬉しそうに見えた。
ルイさんは、またLAVENDERを吸った。
炭の熱が回り、最初より煙が濃くなっていた。
俺は炭を一つ外へ寄せた。
「店長さんも、魔法使いやろ」
「俺は看護師兼シーシャ屋よ」
「葉っぱへ熱を入れて、知らん人に昔の話をさせよる」
「俺が喋らせよるんやない。客が勝手に喋るんよ」
「ほら。自分で選んだと思うとる」
ルイさんは笑った。
「充分、魔法よ」
魔法と呼ぶには、俺のしていることは地味すぎる。
フレーバーを詰める。
炭を替える。
客の話を聞く。
帰りたくなった人へ、会計を出す。
それだけだ。
だが、OMNIBUSへ来なければ出会わなかった人間が、同じ煙の中で話をしている。
スキンヘッドの教師が、チェ・ゲバラみたいな営業マンの隣で答案を採点し、自称魔法使いが二人を見て笑っている。
少なくとも、普通の場所ではなかった。
「今度、ライブするんよ」
ルイさんは鞄から、小さな紙を一枚取り出した。
手書きの月と、ギターの絵。
繁華街の外れにある、小さなライブハウスの名前が書かれていた。
「店長さんも、おいで」
「店あるけん」
「その日は?」
紙に書かれた日付は、OMNIBUSの店休日だった。
「休みやけど」
「ほんなら、来られるね」
「休みは休むためにあるんよ」
「人の話ばっかり聞きよったら、耳まで店のもんになるけん」
ルイさんは、俺の前へ紙を置いた。
「たまには外で使うておいで」
断る理由を探していると、タカダさんが口を挟んだ。
「行ってこいや。休みに一人で店の掃除しょっても、金にはならんぞ」
「俺の休みの過ごし方、決めるなや」
「ほんなら俺が行こうか。魔法で営業成績上げてもらわにゃいけん」
「あんたは出禁にされそうやけん、俺が行く」
「最初から行きてぇんじゃねぇか」
ルイさんが、声を立てずに笑った。
「一人、予約しとくね」
そうして俺は、魔法使いのライブへ行くことになった。
ライブハウスは、雑居ビルの地下にあった。
OMNIBUSより繁華街へ近いが、表通りから細い路地へ入らなければ見つからない。
階段を下りると、低い天井の部屋に三十人ほどの客がいた。
椅子はなく、壁際に小さなテーブルが並んでいる。
酒を一杯受け取り、一番後ろへ立った。
店の照明が落ちた。
小さな拍手の中、ルイさんがステージへ出てきた。
OMNIBUSへ来た夜と、ほとんど同じ格好だった。
違うのは、月の飾りが照明を受けて光っていることだけだった。
「こんばんは。ルイです」
魔法使いとは名乗らなかった。
椅子へ座り、古いギターを膝へ置く。
最初の音が鳴ると、話し声が止まった。
ルイさんの声は、大きくなかった。
客を振り向かせようと追いかける声ではない。
こちらが静かになれば、初めて聞こえる声だった。
帰れん夜には、帰りたい方を覚えとって。
扉が見えんでも、灯りまで消えたわけやない。
そんな歌だった。
俺は、先輩を思い出した。
冬の海へ入り、そのまま帰らなかった人。
親友を思い出した。
悪い女を追って県外へ行き、捨てられて戻ってきた人。
先生と静。
タカダさんと優香。
シナと美緒。
OMNIBUSの扉を開け、煙を吸い、またどこかへ帰っていった人たち。
俺は普段、客が話す人生の途中へ座っている。
自分から誰かの作った時間へ座りに来たのは、久しぶりだった。
三曲目が終わる頃には、手に持った酒はほとんど減っていなかった。
最後の曲が終わり、客が拍手をした。
ルイさんは深く頭を下げた。
顔を上げたとき、客席の後ろにいる俺を見つけた。
ほんの少し、笑ったように見えた。
ライブが終わると、出口の近くでルイさんが客を見送っていた。
「来てくれたんやね」
「予約されたけん」
「魔法、効いた?」
「酒一杯しか飲んでないよ」
「信じん人には、そう見えるんよ」
「便利な言い方やな」
「魔法使いやけん」
ルイさんは、OMNIBUSで吸ったLAVENDERの代金より少し安いCDを一枚、俺へ渡した。
「買えってこと?」
「来てくれたお礼」
「商売下手やな」
「歌は売りよるけど、魔法は売ってないんよ」
紙の袋には、小さな月が手書きされていた。
俺たちは、同じタイミングで店を出た。
夜の空気は少し冷たかった。
表通りへ出るため、細い路地を歩く。
途中、黒い車の横に若い男が三人いた。
一人は、電話した後輩の近くで何度か見た顔だった。
俺に気づくと、慌てたように姿勢を正した。
「お疲れさまです」
俺は短く頷いた。
男は上着一枚で、寒くないのかと思うほど汗をかいていた。
隣の男は、誰も話していないのに笑い続けている。
もう一人は周囲を何度も見回し、車の影へ何かを隠すように手を動かした。
酒に酔っているだけには見えなかった。
看護師として、何人も状態の悪い人間を見てきた。
だが、路地で診察を始めるわけにはいかない。
「何しよるん」
俺が尋ねると、三人とも一瞬黙った。
「ちょっと、遊んでただけです」
汗をかいた男が答えた。
声は妙に明るかった。
「ほどほどにせえよ」
「はい」
素直な返事だった。
素直すぎる返事ほど、何も届いていないことがある。
俺はその場を離れた。
少し歩いてから、ルイさんが振り返った。
「あの人ら、悪い魔法にかかっとるね」
「魔法やないよ」
「名前が違うだけで、帰れんなるものはよう似とるんよ」
「知り合い?」
「俺の知り合いの、知り合い」
「遠そうで、近いね」
「夜の街は狭いけん」
表通りへ出るところで、ルイさんとは別れた。
「今日は、ありがとう」
俺が言うと、ルイさんは少し驚いた顔をした。
「何のお礼?」
「分からん。歌か、魔法か」
「ほんなら、効いたんやね」
「調子乗んな」
ルイさんは上品に笑い、ギターケースを背負い直した。
「また、お店へ行くけん」
「紫、用意しとくよ」
「次は違う色がええかもしれん」
「そのとき決めたらええ」
ルイさんは手を振り、夜の人混みへ消えた。
俺は一人になり、さっきの路地を振り返った。
黒い車は、もうなかった。
タカダさんの噂話が、頭に残っていた。
寝なくても平気になる。
怖いものがなくなる。
明日を忘れるために、金を払う。
俺の携帯が震えた。
画面には、美緒の件で頼った後輩の名前が出ていた。
――先輩、近いうち店へ行ってもええですか。
短いメッセージだった。
俺はすぐには返さなかった。
LAVENDER。
眠りへ連れていく花の煙。
その頃、街では、人を眠れなくする何かが静かに広がり始めていた。




