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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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13/16

第十三煙 BAKU NIGHTS

借りは、貸した人間より、借りた人間の方がよく覚えている。


貸した側には、ただの一日だったかもしれない。


だが、借りた側は、その日から返す機会を探し続ける。


返し終わるまで、関係が切れたことにはならないからだ。


ルイさんのライブへ行った夜、携帯に届いたメッセージへ、俺は翌日の昼になってから返事をした。


――店へ来るんはええよ。


――客としてなら。


返事は、すぐに来た。


――ありがとうございます。


それだけだった。


コーセイがOMNIBUSへ来たのは、四日後の夜だった。


閉店まで一時間を切っていた。


最後の客が帰り、俺はテーブルの灰皿を下げていた。


扉のベルが鳴る。


入ってきた男は、店の中へ一歩入ったところで立ち止まった。


客席。


カウンター。


奥へ続く短い通路。


最後に、閉じた扉を振り返る。


初めて来た店を眺めているようにも見えた。


逃げ道を確かめているようにも見えた。


短く整えた黒い髪。


暗い色のジャケット。


飾りのない靴。


指輪も、派手な腕時計もしていない。


街で見かけても、半グレだとは気づかないだろう。


目だけが、昔より静かになっていた。


若い頃のコーセイは、腹が立てば先に身体が動く男だった。


今は、身体を動かす前に、その場にいる全員の顔を見る。


落ち着いたのではない。


先に危険を数えるようになっただけだった。


「お久しぶりです、先輩」


コーセイは頭を下げた。


「久しぶり。座ったら」


「ええんですか」


「客として来たんやろ」


「はい」


コーセイは、入口に一番近いソファへ座った。


壁を背にし、扉が見える位置だった。


「昔から、そこ座るよな」


「そうでしたっけ」


「飯食いに行っても、入口見える席選びよった」


「先輩が、後ろ取られんなって言うたんでしょう」


「お前、いつの話しよるん」


「教えた方は忘れとるもんですよ」


声は穏やかだった。


俺へだけは、昔から敬語を使う。


年齢が上だからではない。


俺の親父を知っているからでもない。


コーセイの中では、俺は今でも、看護師になる前の先輩だった。


「シーシャ、吸うたことある?」


「ないです」


「何が好き?」


「酒なら、甘くないやつ」


「参考にならんな」


「先輩に任せます」


俺は棚から、BAKU NIGHTSを取り出した。


熟したバナナ。


濃いぶどう。


その奥に、ミントの冷たさが混ざったフレーバー。


最初から、いくつもの味が一つになっている。


「甘いやつやないですか」


コーセイが容器を見て言った。


「食わず嫌いすんなや」


「吸うもんでしょう」


「細かいな」


フレーバーを均すようにほぐし、ボウルへ詰める。


炭を載せ、数分蒸らした。


ゆっくり吸い出すと、ぶどうの香りが先に立ち、そのあとから柔らかい甘さと冷たさが残った。


状態を確かめ、コーセイの前へ運ぶ。


「最初は、ゆっくり長めに吸って」


コーセイは、言われた通りにホースを持った。


だが、最初の一吸いは短すぎた。


煙はほとんど出なかった。


「煙草みたいに吸うんやないよ」


「難しいですね」


「お前に難しい言われたら、シーシャ屋も自信なくすわ」


二度目は、ゆっくり吸った。


ボトルが低く鳴る。


コーセイの口から、白い煙が出た。


自分の吐いた量に、少し驚いた顔をした。


「甘いですね」


「やろ」


「先輩が、こんなもん作るようになるとは思わんかったです」


「昔の俺、何作りそうやったん」


「人の顔とか」


「失礼やな」


「冗談です」


コーセイが冗談を言うようになったのも、大人になってからだった。


若い頃は、笑われる前に相手を睨む男だった。


俺の少し後ろを歩き、俺が止まれば同じように止まった。


慕われていたのか。


利用されていたのか。


当時の俺には、区別がついていなかった。


「この前は、ありがとうな」


俺が言うと、コーセイの笑顔が消えた。


「美緒のこと」


「礼はいりません」


「何もなかった?」


「話しただけです」


「ほんまに?」


「怪我させるな言うたんは、先輩でしょう」


「お前、言葉の怪我は数えんけん」


コーセイは少しだけ目を伏せた。


「もう連絡せんと、本人が決めました。店にも話は通しとります。それだけです」


何を言って決めさせたのかは聞かなかった。


聞けば、俺もその言葉へ責任を持たなければならない気がした。


すでに頼んだ時点で、責任から逃げられるわけではない。


それでも、人間は知らない部分を残して、自分だけ少し軽くなろうとする。


「借り、一つ返せました」


コーセイが言った。


「俺、お前に何か貸しとった?」


「覚えてないなら、それでええです」


「気になるやろ」


「先輩には、ただの夜やったんでしょう」


コーセイはBAKU NIGHTSを吸った。


煙を吐き、しばらく眺める。


「俺には、違いましたけど」


十代の頃、コーセイから夜中に電話が来たことがある。


何を言っているのか分からないほど、息が乱れていた。


俺は居場所だけ聞き、迎えに行った。


着いたときには、何人かの男が遠ざかっていくところだった。


コーセイは地面へ座り、口の端から血を流していた。


俺は何があったか聞かなかった。


車へ乗せ、飯を食わせ、朝まで一緒にいた。


俺の記憶では、それだけだ。


殴った相手も、殴られた理由も覚えていない。


「あの夜のこと?」


「覚えとるやないですか」


「今思い出したんよ」


「先輩が来んかったら、俺はあのまま戻って、誰か一人殺しとったと思います」


コーセイの声に、誇張はなかった。


「止めた覚えないぞ」


「止められましたよ。飯食うたら、少しどうでもようなったんで」


「そんなもんで?」


「腹減っとるときの怒りは、信用せん方がええって、先輩が言うたんです」


「俺、ええこと言うやん」


「覚えてないでしょう」


「全然」


コーセイが、初めて声を出して笑った。


笑うと、少しだけ昔の顔へ戻った。


俺が貸したつもりのない夜を、コーセイは何年も借りたまま生きていた。


美緒の件で返したと思えるなら、それでよかった。


だが、借りが消えれば、今度は何のために店へ来たのかが残る。


「それだけ言いに来たん?」


俺が聞くと、コーセイの笑顔が消えた。


ホースをテーブルへ置く。


「先輩、こないだ、うちの若いの見たでしょう」


ライブハウスの裏。


黒い車の横にいた三人。


寒くないのかと思うほど汗をかき、誰も話していないのに笑い続けていた男たち。


「お前の近くにおるやつ?」


「俺の下についてます」


「何しよったん、あいつら」


コーセイはすぐには答えなかった。


扉を見た。


店には、俺たちしかいない。


それでも、声を少し落とした。


「薬です」


タカダさんから聞いた噂が、形を持った。


「違法なやつ?」


コーセイは頷いた。


「止めろや」


「止めてます」


「止まってないやろ」


「俺の言うこと聞くような奴なら、半グレなんかしとらんでしょう」


自分もその一人であることを、他人事のように言った。


薬が、どこから来たのかは分からない。


繁華街にある別の集団が流しているという話もある。


ただ遊ぶために、若い連中が持ち込んだという話もある。


一度使った人間が、次の人間へ渡す。


渡された人間が、自分だけは大丈夫だと言って使う。


誰が最初だったのか分からなくなった頃には、止める人間の方が邪魔になる。


「寝んでも動ける。喧嘩しても怖うない。そがいに言うて、使うやつが増えました」


「強うなった気でおるだけやろ」


「分かっとります」


「お前は?」


「俺はやってません」


俺はコーセイの目を見た。


汗の量。


手の震え。


話す速さ。


少なくとも、その夜のコーセイに、路地で見た若い男たちと同じ異常はなかった。


「疑いますよね」


「看護師やけん」


「先輩は、昔から疑うときだけ目ぇ見ますよ」


「美緒にも同じこと言われたわ」


「昔から変わってないんですね」


「お前に言われたないよ」


俺は炭の灰を落とし、外側へ位置をずらした。


熱が強くなりすぎていた。


ぶどうとバナナの甘さが濃くなり、ミントが少し隠れている。


「喧嘩になるん?」


「まだです」


「まだ、か」


「みんなが武器を持ち始めたら、始まる前も始まったあとも、大して変わらんでしょう」


コーセイは、他人の予定を話すような声で言った。


「抜けたらええやろ」


「俺一人なら」


「若いの置いていけん?」


「俺が連れてきたやつもおります」


自分が引き入れた人間を残して、一人だけ逃げる気にはなれないらしい。


それが責任なのか、共犯なのかは分からない。


たぶん、本人にも分かっていない。


「警察か病院、頼れや」


「頼れるやつは頼らせます」


「頼らんやつは?」


「俺らで何とかします」


「何とかできてないけん、店来たんやないん」


コーセイは黙った。


正論は、言われたくないときほど腹が立つ。


安倍に何度も言われたことを、俺はそのままコーセイへ返していた。


「先輩」


しばらくして、コーセイが言った。


「この店は、誰でも客として入れるんですか」


「金払えばな」


「俺でも?」


「もう座っとるやろ」


コーセイは店内を見回した。


低いソファ。


フレーバーが並ぶ棚。


閉じた扉。


煙の向こうにある、何も知らない人間が見ればただの店。


「もし、俺がここへ逃げて来たら」


コーセイは言った。


「客として、置いてくれますか」


「逃げて来る予定なん?」


「予定通りに逃げられるなら、それは逃げとは言わんでしょう」


冗談のような言い方だった。


だが、目は笑っていなかった。


俺はすぐには答えなかった。


ヤクザも、医者も、詐欺師も、風俗嬢も、ここでは客として煙を吸う。


職業も、過去も、金の稼ぎ方も聞かない。


だが、一人を座らせることで、ほかの客が危険になるなら話は別だ。


帰って来られる席を作ることと、追って来た人間まで店へ入れることは違う。


安倍の声が浮かんだ。


潰れた店は、誰の居場所にもなれない。


「客として来るなら、煙は出す」


俺は言った。


「でも、武器と揉め事は持って来るな。追って来るやつがおるなら、この店を逃げ場所に選ぶな」


「逃げるときに、そこまで選べますかね」


「選べ。選べんなら来るな」


コーセイは俺を見た。


腹を立てるかと思った。


だが、少しだけ笑った。


「昔から、そういう人でしたね」


「どがいな人ぞ」


「助けるくせに、助け方はこっちに選ばせる人です」


「面倒やろ」


「ええ。じゃけど、助かります」


コーセイはホースを持った。


最後の煙を、ゆっくり吸った。


最初より上手くなっていた。


白い煙を吐き終えると、携帯が震えた。


画面を見て、すぐに伏せる。


「帰らんでええん?」


「もう少し、客でおります」


「閉店時間過ぎるぞ」


「延長料金、取ってください」


「安倍が喜ぶわ」


コーセイが少し笑った。


俺は新しい炭へ替え、熱が落ち着くまで外側へ置いた。


コーセイは、それから三十分ほど店にいた。


薬の話も、喧嘩の話もしなかった。


昔通った定食屋がなくなったこと。


俺が看護師になったと聞いたとき、冗談だと思ったこと。


この店の場所が分かりにくすぎること。


どうでもいい話をした。


その間だけ、コーセイは誰かの上に立つ半グレではなかった。


俺の少し後ろを歩いていた、昔の後輩だった。


会計を済ませ、コーセイは立ち上がった。


入口で一度、店内を振り返る。


「また、客として来てもええですか」


「次から聞かんでええよ」


いつか、シナへ言ったのと同じ言葉だった。


コーセイは深く頭を下げた。


「ありがとうございます、先輩」


扉が閉まり、階段を下りる足音が消えた。


その夜、コーセイは武器を持って来なかった。


追って来る人間もいなかった。


最後まで、ただの客として店を出ていった。


次に来るときも、そうである保証はなかった。


BAKU NIGHTS。


バナナとぶどうとミント。


一度混ざった味を、煙の中から一つずつ取り出すことはできない。


忠義と暴力と恐怖を混ぜた夜の中で、コーセイはまだ、自分がどの味なのかを決められずにいた。

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