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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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14/16

第十四煙 ORANGE

離れるというのは、二度と戻らないことではない。


戻る日があっても、戻らなかった夜を一つずつ増やしていく。


人が長くいた場所から離れるときは、たぶん、それくらい遅い。


シナが初めて、日が落ちる前のOMNIBUSへ来た。


開店して間もない時間だった。


窓のない店内に昼も夜もないが、扉が開いた瞬間、階段の向こうから薄い夕方の光が入った。


いつもの細いヒールの音はしなかった。


柔らかい靴底が、静かに階段を上がってくる。


入ってきたシナは、肩の出た黒い服を着ていなかった。


大きめの白いシャツ。


色の薄いデニム。


髪は巻かず、後ろで一つにまとめている。


化粧も、仕事へ行く日より薄かった。


どちらが本当のシナというわけではない。


客の前で笑うシナも、担当の隣で笑うシナも、今ここへ立っているシナも、全部本人だ。


ただ、俺はその格好を初めて見た。


「休み?」


「うん。何で分かったん?」


「仕事の鞄ないし」


「服やないんや」


「それも」


シナは、いつものソファへ座った。


テーブルへ携帯だけを置く。


そのとき、白いシャツの袖が少しずれた。


手首の内側に、細いテープが貼られていた。


端から、新しい傷が見えた。


俺の視線に気づき、シナはすぐ袖を引き下ろした。


「手首、どうしたん」


「見たら分かるやろ」


「いつ?」


「この前」


「手当は済んどる?」


「しとるよ」


「今も、自分を傷つけたい?」


シナは一度、目を逸らした。


「今は大丈夫」


「ほんまに?」


「こんなときだけ看護師になるん、ずるいね」


「こんなときに看護師にならんで、いつなるんぞ」


シナは少し黙ったあと、頷いた。


「今は、ほんまに大丈夫」


俺も、それ以上は追わなかった。


傷は、頑張った証でも、弱かった罰でもない。


その夜、一人では抱えきれなかったものがあったという事実だけが残っていた。


白い封筒はなかった。


「今日は、どこも行かんの?」


「今んところは」


「今んところ?」


「夜は長いやろ」


冗談のように言ったが、目は携帯へ向いていた。


「いつものにする?」


俺が聞くと、シナは少し迷った。


LADY KILLER。


JASMINE。


どちらかを選ぶと思った。


「甘くないの、ある?」


「柑橘は?」


「何があるん?」


「レモン、ライム、グレープフルーツ、オレンジ」


「オレンジ」


「単品?」


「うん。今日は混ぜんでええ」


俺はORANGEを取り出した。


容器を開けると、明るい柑橘の香りがした。


フレーバーをほぐし、ボウルへ詰める。


炭を載せ、数分蒸らした。


ゆっくり吸い出すと、果皮に近い香りが先に立ち、そのあとから柔らかな甘味が広がった。


熱が強くなりすぎないよう、炭を外側へずらす。


シナの前へ運んだ。


「ORANGE」


「見たまんまやね」


「最近、それよく言われるわ」


「誰に?」


「美緒」


美緒の名前を出すと、シナは少しだけ姿勢を正した。


「あの子、どうなったん?」


「落ち着いたよ」


「ホストは?」


「もう連絡取ってない」


何も知らない顔で答えた。


シナは、俺の顔を見た。


何か言いたそうにしたが、聞かなかった。


「そっか」


安心したように息を吐いた。


「よかった」


シナはORANGEを吸った。


最初の煙を、少し驚いたように吐く。


「思ったより甘い」


「果物やけん」


「もっと酸っぱいかと思った」


「シーシャで酸っぱすぎるんも嫌やろ」


もう一度吸い、今度はゆっくり味を確かめた。


「でも、LADY KILLERとは違うね」


「何が?」


「あとに残らん」


オレンジの香りは、煙と一緒に広がり、消えた。


甘さはある。


だが、舌の上へ重たく残らない。


「この前さ」


シナは携帯を指で触りながら言った。


「JASMINE吸った日」


「うん」


「あのあと、家帰ったんよ」


「そうなん」


「驚かんの?」


「帰る言うても、担当の店かもしれんやろ」


「性格悪」


シナは笑った。


その夜、担当から何度も連絡が来た。


電話。


短いメッセージ。


声を聞きたい。


少しだけでいいから会いたい。


今日きつかった。


シナにしか話せない。


いつもなら、どれか一つで立ち上がっていた。


だが、その夜は家へ帰った。


風呂へ入り、化粧を落とし、携帯を枕元へ伏せた。


「寝れたん?」


「全然」


一時間ごとに、画面を見た。


返事を書いては消した。


店へ行けば、まだ間に合う時間を何度も数えた。


朝方になり、ようやく眠った。


「傷は、その夜?」


俺が聞くと、シナは袖の上から手首を押さえた。


「うん」


「死ぬつもりやったん?」


「違う」


答えは早かった。


「ただ、あの夜を早く終わらせたかった」


「つもりと結果は、同じにならんことあるぞ」


「分かっとる」


シナは笑わなかった。


「担当んとこ行かん代わりに、自分へ向けただけ。何の解決にもなってないんは分かっとるよ」


「次、また傷つけそうになったら?」


「店来る」


「開いとったらな」


「閉まっとったら?」


「俺でも、病院でも、誰でもええ。電話せえ。一人で決めるな」


「助けてって言うん、苦手なんよ」


「言わんでええ。ORANGE一つ、って送れ」


シナは俺を見た。


「まだ作ってもないのに?」


「今から作るやろ」


少しだけ、口元が緩んだ。


「分かった」


「でも、行かんかった」


「うん」


「褒めて」


「えらい」


「適当やね」


「頭撫でた方がええ?」


「触ったら殺す」


シナは笑い、ORANGEを吸った。


その笑顔のあと、少しだけ黙った。


「三日、行かんかったんよ」


「連絡も?」


「返した。けど、店には行かんかった」


担当から来る言葉は、日ごとに優しくなった。


最近、冷たいね。


俺、何かした?


シナがおらんと頑張れん。


無理して来なくていいから、顔だけ見せて。


「それ、営業なんは分かっとるんやろ」


「分かっとるよ」


「なら――」


「分かっとるけん、効くんよ」


シナは俺の言葉を止めた。


「私も客に送るもん。最近会えんくて寂しいとか、シナのこと忘れたんとか。相手が何言われたら来るか考えて送るんよ」


「担当と同じやな」


「うん」


「嫌にならんの?」


「ならん。仕事やもん」


自分も同じ仕事をしているから、相手を責められない。


相手の言葉が作られたものだと知っているから、その作り方まで分かる。


それでも、自分へ届けば嬉しい。


嘘だと分かることは、防具にはならない。


むしろ、嘘でも自分のために選ばれた言葉だと思えば、余計に手放しにくくなる。


「四日目に、行った」


シナが言った。


声が少し小さくなった。


「そっか」


「何も言わんの?」


「何て?」


「やっぱり無理やったね、とか」


「三日行かんかったんやろ」


「四日目に行ったやん」


「四日目が、前の三日消すん?」


シナは黙った。


「消さんやろ」


「でも、結局戻った」


「戻ったら、また離れたらええ」


「簡単に言うね」


「簡単やないけん、何回もするんやろ」


自分でも、正しいかは分からなかった。


離れるなら、一度で離れた方がいい。


連絡を断ち、店へ行かず、二度と会わない。


それが一番短い。


だが、短い道を歩けない人間へ、地図を見せ続けても意味はない。


遠回りでも、自分の足で歩ける道を選ぶしかない。


「店長」


「何?」


「私、ちょっと離れようと思う」


初めて、シナの口から出た言葉だった。


やめる、ではない。


忘れる、でもない。


少しだけ、離れる。


今のシナが言える、一番大きな言葉だった。


「嫌いになったん?」


「好きよ」


即答だった。


「今も?」


「好きやけん、離れようと思うんよ」


シナは、白い煙を細く吐いた。


「嫌いになるまでおったら、好きやった時間まで全部嫌いになりそうやろ」


「好きなまま離れれる?」


「分からん。やってみたことないけん」


答えのないことを、答えが出てから始める人間はいない。


シナはようやく、分からないまま動こうとしていた。


「俺に、何してほしい?」


俺が聞くと、シナは少し考えた。


「何もせんといて」


「前と同じやん」


「違うよ」


シナは、カウンターの向こうにいる俺を見た。


「行きそうになったら、店開けといて」


「営業時間ならな」


「閉まっとったら?」


「諦めて家帰れ」


「冷た」


「潰れた店は、誰の居場所にもなれんけん」


安倍の言葉を、そのまま使った。


「誰の言葉?」


「共同経営者」


「店長が言いそうにないもんね」


「失礼やな」


シナは笑った。


「ここ開いとったら、一本作って」


「何味?」


「その日の気分」


「注文多いな」


「客やけん」


「なら、金は取るよ」


「当たり前やろ」


初めて会った夜と、同じ言葉だった。


金を払っている間は、客でいられる。


客は、誰かを喜ばせるために座らなくていい。


自分が吸いたい味を選び、自分が帰りたいときに帰れる。


シナは、ホストクラブではなくOMNIBUSで客になる時間を、少しずつ増やそうとしていた。


テーブルの携帯が震えた。


担当からの着信だった。


シナは画面を見た。


以前のように、俺へ預けようとはしなかった。


自分の手で、通話を切った。


続けて、短いメッセージを打つ。


――今日は行かない。


送信したあと、息を止めたように画面を見た。


すぐに返事が来た。


もう一通。


さらに、着信。


シナの指が、少し動いた。


それでも、携帯を伏せた。


「酒、いる?」


俺が聞くと、首を横へ振った。


「今日は、いらん」


「水かお茶?」


「お茶」


俺は冷たい茶を一杯出した。


シナはORANGEを吸い、茶を飲んだ。


携帯は何度も震えた。


一度も裏返さなかった。


煙を最後まで吸い、会計を済ませた。


「このあと?」


「家帰る」


「寝れる?」


「寝れんかもしれん」


「それでも?」


「家帰る」


言い直した声は、さっきより強かった。


シナは店を出た。


翌朝、短いメッセージが届いた。


――昨日、行かんかったよ。


俺は、拍手の印だけ返した。


その四日後、シナはまたOMNIBUSへ来た。


今度は、日付が変わったあとだった。


細いヒール。


肩の出た黒い服。


巻いた髪。


手首に貼られていたテープは外れていた。


薄い傷は残っていたが、新しいものは増えていなかった。


仕事帰りの姿だった。


「一人、いける?」


「どうぞ」


シナはいつもの席へ座った。


携帯を置き、鞄から白い封筒を出した。


初めて来た夜と同じだった。


「いつもの?」


俺が聞くと、シナは首を横へ振った。


「ORANGE」


それだけが、あの夜とは違った。


俺は同じフレーバーを作った。


炭を載せ、蒸らし、煙の状態を確かめる。


シナの前へ置くと、何も言わずに吸った。


「行ったん?」


「うん」


「担当んとこ?」


「うん」


「楽しかった?」


シナは少し考えた。


「楽しかったよ」


嘘ではない声だった。


「ほんなら、ええやん」


「ええんかな」


「シナが決めることやろ」


シナは白い封筒へ目を落とした。


「でも、これ持って行かんかった」


「何で?」


「家賃払って、残りは別の口座へ入れた」


「自分の?」


「自分の」


「何に使うん?」


「まだ決めてない」


「担当には?」


「今日は金ないって言うた」


「怒られた?」


「優しかった」


シナは、寂しそうに笑った。


怒られた方が、嫌いになれたかもしれない。


金がなくても優しい男でいてくれたから、また好きになった。


営業なのか、本心なのか。


どちらでも、人の心は動く。


「行ってしもたけん、また最初からやね」


「何が?」


「離れるん」


「前は、白い封筒持って行きよったやろ」


「うん」


「今日は持って行かんかった」


「でも会いには行ったよ」


「会いたかったんやろ」


「うん」


「なら、次は行くまでの日を一日延ばしたらええ」


「そんなんでええん?」


「俺に聞くなや」


シナは、少しだけ笑った。


「担当に使わんなったらさ」


「うん」


「私、こんなに出勤せんでもええんよね」


「今気づいたん?」


「ずっと知っとったよ」


シナはORANGEの煙を吐いた。


「知っとるんと、気づくんは違うんよ」


その言葉は、煙と一緒に店へ広がった。


風俗をやめるとは言わなかった。


担当へ二度と会わないとも言わなかった。


ただ、働く日を一日減らしてもいいかもしれないと気づいた。


稼いだ金を、自分の口座へ入れてもいいと知った。


その程度の変化だった。


人の人生が動き出すときは、たいてい、その程度から始まる。


「次、何日空けるん?」


「一週間」


「欲張りすぎやろ」


「三日できたんやけん、次は四日」


「一週間どこ行ったん」


「気持ちは一週間」


「計算苦手なん?」


「看護師に言われたない」


シナは笑った。


携帯が震えた。


今度は画面を見た。


だが、返事はしなかった。


ORANGEを吸い終える方を先に選んだ。


シナはまだ、夜を出ていない。


好きな男も、夜の仕事も、白い封筒も手放していない。


それでも、担当へ行かなかった夜が二つできた。


白い封筒を持って行かなかった夜が一つできた。


自分を傷つけず、朝まで過ごした夜が一つできた。


ORANGE。


夜の店には少し似合わない、朝の色をした煙。


シナはまだ夜の中にいる。


ただ、夜以外の色を一つ覚えた。

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