第十五煙 BLUE HEAVEN
約束は、守られている間だけ境界になる。
ここから先へは入らない。
ここまでは持ち込まない。
互いにそう信じているから、細い線でも人を守れる。
一度踏み越えられたあとは、理由を聞くだけでは足りない。
線のどちら側へ立つのか、自分で決めなければならなくなる。
コーセイから電話が来たのは、金曜の夜だった。
OMNIBUSには、タカダさんと先生がいた。
タカダさんは、いつものようにチェの煙草とシーシャを交互に吸いながら、取引先の社長がいかに話を聞かないかを熱弁していた。
先生は、その隣で小テストの採点をしていた。
赤ペンを動かす手は止めないまま、ときどきタカダさんの愚痴へ相槌を打つ。
「結局な、こっちが三十分説明したあとで、最初に言うたことを向こうの案みてぇに言い出したんじゃ」
「それで、どうしたんですか」
「素晴らしい案ですね言うて、契約取ったったわ」
「敏腕ですね」
「営業は正しさを売る仕事じゃねぇけぇな。相手が自分を賢いと思える時間を売るんじゃ」
「教育現場では、あまり教えたくない考え方です」
「先生も似たようなもんじゃろ。生徒に自分で気づいた思わせるんが仕事じゃ」
「否定しにくいですね」
いつもの夜だった。
カウンターへ置いていた携帯が震えるまでは。
画面に、コーセイの名前が出ていた。
あいつは、用があっても先にメッセージを送る。
電話をかけてくることは、ほとんどない。
俺は手を拭き、通話を取った。
「もしもし」
『先輩』
息が乱れていた。
後ろで、車の走る音がする。
「どうしたん」
『今日、店いますか』
「おるよ」
『開いてますか』
「開いとるけど。お前、今どこ――」
通話が切れた。
かけ直したが、出なかった。
「誰なら」
タカダさんが聞いた。
「後輩」
「女か」
「男よ」
「つまらんのう」
「つまらん電話なら、よかったんやけどね」
俺は携帯をカウンターへ置いた。
三分も経たないうちに、階段を駆け上がる音がした。
一人ではない。
いくつもの靴音が重なり、扉の前で一度止まる。
次の瞬間、ベルが乱暴に鳴った。
コーセイが店へ飛び込んできた。
その後ろに、男が三人いた。
全員、二十代から三十代くらいだった。
一人はパーカーの袖で口元を押さえている。
一人は片腕を抱くように立っている。
もう一人は、扉が閉まるとすぐに鍵の位置を確かめた。
コーセイのジャケットは肩のところが裂け、左の頬が腫れていた。
それでも、店へ入るなり俺へ頭を下げた。
「ダメでした。すいません」
何が駄目だったのか、聞かなくても分かった。
前にこの店で決めたことを、守れなかったのだ。
武器と揉め事は持って来るな。
追われているなら、OMNIBUSを逃げ場所に選ぶな。
コーセイは、その線を三人連れて越えてきた。
「出ていけ」
自分でも驚くほど、すぐに言葉が出た。
「先輩」
「前に言うたやろ。ここは避難所やない」
「分かってます」
「分かっとって来たん?」
「はい」
コーセイは顔を上げなかった。
言い訳をしないことが、余計に腹立たしかった。
「武器は?」
「持ってません」
「全員?」
「はい」
「薬は?」
「誰もやってません。持ってもないです」
俺は後ろの三人を見た。
汗の量。
目の動き。
立ち方。
少なくとも、ルイさんのライブ帰りに見た若い男たちのような異常はなかった。
「口押さえとる人、血ぃ出よる?」
男は袖を離した。
唇が切れていた。
「頭打った? 意識飛んだり、吐いたりは?」
「してないです」
「腕は?」
もう一人へ聞くと、男は右腕を少し動かした。
「ぶつけただけです」
「それを決めるんは自分やない。痛み強うなるなら病院行けよ」
「はい」
追い返そうとしているのに、身体のことを聞いてしまう。
看護師の癖は、店主の都合を待ってくれない。
背後で、椅子を引く音がした。
先生が立ち上がっていた。
タカダさんも、煙草を灰皿へ押しつけている。
「店長、救急車は?」
先生が聞いた。
「今すぐ必要そうな人はおらん。でも、あとで診てもろた方がええ人はおる」
「なんならワシも残るで」
タカダさんが言った。
「残って何するん」
「話なら営業の仕事じゃろ」
「今日は帰って」
「じゃけど、お前――」
「タカダさん」
俺が名前を呼ぶと、タカダさんは黙った。
冗談を挟まず、言葉も柔らげない俺の声で、譲る気がないと分かったのだろう。
「先生も。悪いけど、今日はもう閉める」
先生は、コーセイたちを一度見た。
「警察や病院へ行くべき人を、ここだけで抱え込まないでください」
「分かっとる」
「それなら、帰ります」
答案を揃え、鞄へ入れた。
タカダさんは財布から金を出し、テーブルへ置いた。
「今日はええよ」
「阿呆。吸うたもんは払うわ」
「途中やろ」
「続きは明日吸いに来るけぇ、ちゃんと店開けぇよ」
先生も、会計をきっちり置いた。
「私も、採点の続きを持ってきます」
二人とも、大丈夫かとは聞かなかった。
明日も来ると言って、店を出た。
それが、二人なりの聞き方だった。
俺は入口の札を裏返した。
まだ、臨時休業とは書かなかった。
鍵を閉め、カーテンを引く。
「座って」
コーセイたちは、入口に近いソファへ固まって座った。
以前、コーセイが一人で来たときに選んだ席だった。
壁を背にし、扉が見える場所。
「十分だけ聞く。そのあと出ていって」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
俺は棚からBLUE HEAVENを取り出した。
「今、シーシャですか」
コーセイが顔を上げた。
「息切れたまま話しても、何言いよるか分からんやろ」
「でも」
「昔、腹減っとるときの怒りは信用するなって言うたらしいな」
「覚えてない言うてたでしょう」
「お前が覚えとるけん、俺も覚えたんよ」
容器を開ける。
甘い香りの奥に、冷たさと、花のような匂いがあった。
最初から、いくつもの香りが一つに混ざっている。
考える時間がない夜には、ちょうどよかった。
フレーバーを軽くほぐし、ボウルへ詰める。
炭を外側へ置き、熱が回るのを待った。
急いでいる人間の前でも、シーシャは急いで立ち上がらない。
数分蒸らし、ゆっくり吸い出す。
ボトルが低く鳴った。
甘い煙のあとから、冷たい余韻が残った。
熱の状態を確かめ、コーセイへホースを渡す。
「吸って、最初から話せ」
コーセイは一度だけ長く吸った。
白い煙を吐き、ようやく呼吸を整えた。
「向こうに、やられました」
「向こうって?」
「前から揉めとるグループです」
喧嘩を売られたのだと思った。
どこかへ呼び出され、人数を揃えてぶつかった。
昔の俺なら、そう考えた。
だが、コーセイは首を横へ振った。
「殴り合いなら、まだ分かりやすかったです」
敵対しているグループは、正面からコーセイたちを潰そうとはしなかった。
喧嘩になれば、警察が来る。
どちらにも怪我人が出る。
勝っても、残るものが多すぎる。
だから、内側から崩れるようにした。
中身も出所も分からない、粗悪な違法薬物。
それを、コーセイの周りにいる若い連中へ流した。
最初は、遊びだった。
眠らなくても動ける。
怖いものがなくなる。
嫌なことを考えなくて済む。
そんな言葉で手を出した人間が、次の人間を誘った。
使わない人間を臆病者と笑い、止める人間を敵だと思い始めた。
気づいた頃には、グループの中で疑い合いが始まっていた。
「二人、病院に入ってます。一人は仲間を刺して捕まりました。金持って消えたやつもおる。連絡つかんのも、何人か」
コーセイは、淡々と人数を数えた。
数え方が静かなほど、起きたことの大きさが分かった。
「お前、前から止めよったやろ」
「止めたつもりでした」
「つもり?」
「使ったやつを外して、持ち込んだやつを探して、それで終わると思っとったんです」
一人を外せば、その友人が隠した。
一つを取り上げれば、別のところから入ってきた。
コーセイが強く止めるほど、薬を使った人間たちは、自分たちが排除されると思い込んだ。
敵対していたグループは、その様子を外から見ていた。
コーセイたちが内輪で争い、立っていられなくなるのを待っていた。
「うちが使っとった店も、人も、順番に向こうへ移ってます。薬を流しとった人間と、向こうへ話持っていった人間が繋がっとった。何人かの話を合わせて、やっと分かりました」
「最初から、それが狙いやったって?」
「はい」
「お前らを、勝手に壊れさせるため?」
「はい」
コーセイはBLUE HEAVENを吸った。
冷たい煙の向こうで、腫れた頬だけが赤く見えた。
「ダメでした」
もう一度、同じことを言った。
「俺が連れてきたやつらを、守れませんでした」
誰かに薬を使わせたのは、コーセイではない。
使うと決めたのも、それぞれの人間だ。
それでも、自分の下へ集めた責任だけは手放せないらしい。
「後ろの三人は?」
「まだ、まともな人間です」
俺が睨むと、コーセイは言い直した。
「善人って意味じゃないです。薬に手ぇ出してない。今なら、話が通じるって意味です」
三人は、何も言わなかった。
まともな人間は、自分をまともだと説明しない。
説明が必要になった時点で、いる場所の方がおかしくなっている。
「警察へ行け」
俺は言った。
「病院がいるやつは病院。犯罪の証拠があるなら警察。俺にできることやない」
「分かってます」
「なら、何で来たん」
「ほかに、残ってないからです」
コーセイは頭を下げた。
「今夜だけ、こいつらを置いてください。俺は出ていきます」
「無理」
「金は払います」
「そういう話やない」
「分かってます」
「分かってますばっかり言うなや」
思わず声が大きくなった。
テーブルの煙が、少し揺れた。
「ここには、何も知らん客が来るんよ。先生も、タカダさんも、シナも、美緒も。お前らを置いたせいで誰か一人でも巻き込まれたら、俺は何のために店しよるんぞ」
「はい」
「お前に言うたよな。潰れた店は、誰の逃げ場所にもならん」
「はい」
「やけん、出ていけ」
コーセイは、ゆっくり立ち上がった。
後ろの三人も、続いて立つ。
止めてくれとは言わなかった。
コーセイは、俺の言葉を守ろうとした。
一度破った約束を、これ以上壊さないために。
一番若そうな男が、テーブルに置かれたBLUE HEAVENを見た。
まだ、二口しか吸われていない。
「すいませんでした」
その声は、半グレの声には聞こえなかった。
そんなものに共通の声があるわけではない。
ただ、行く場所をなくした若い男の声だった。
十代の頃のコーセイも、同じ声をしていた。
夜中に俺へ電話をかけてきたとき。
地面へ座り、口の端から血を流しながら、それでも助けてとは言わなかったとき。
俺は、あの日も事情を聞かなかった。
車へ乗せ、飯を食わせ、朝まで隣にいただけだった。
それだけで、コーセイは誰かを殺さずに済んだと言った。
もし、今ここで四人を外へ出せば。
今夜、誰が誰を傷つけるのか。
明日、何人が薬へ手を出すのか。
俺には分からない。
分からないまま、店を守ったと言えるのか。
携帯を取り、安倍へ電話をかけた。
三回目の呼び出しで出た。
『何だ』
「今から店、来れる?」
『売上の話か』
「違う」
『設備か』
「それも違う」
少しの沈黙があった。
『事故か』
「まだ、事故にはなってない」
『その答えが一番嫌いだ』
「十五分で来て」
『命令するな』
通話が切れた。
来るという意味だった。
「座っとって」
俺が言うと、コーセイは立ったまま俺を見た。
「先輩」
「まだ、追い出すんやめたとは言うてない」
俺は炭の灰を落とし、外側へ位置をずらした。
熱が回り、甘い香りがさっきより濃くなっていた。
コーセイたちは、もう一度座った。
安倍は、十二分で来た。
扉を叩く音がして、俺が鍵を開ける。
暗い色のコート。
仕事用の鞄。
店へ入るなり、ソファに座る四人と、割れた唇と、裂けたジャケットを順に見た。
「客か」
安倍が聞いた。
「今はね」
「今は、という答えも嫌いだ」
俺は、コーセイから聞いた話を短く説明した。
安倍は途中で口を挟まなかった。
聞き終えると、最初にコーセイへ言った。
「警察へ行け」
「はい」
「今夜、具合が悪くなった人間がいれば救急を呼ぶ。店の中でも同じだ」
「分かりました」
それから、俺を見た。
「それで、俺を呼んだ理由は?」
「この三人と店、見とって」
「お前は?」
「コーセイと、話つけに行く」
安倍の眉が、わずかに動いた。
「誰と、何の話をする」
「薬流した側と、これで終わりにする話」
「お前が行く理由になっていない」
「もう店まで来られた。ここで止めんと、次は客がおる時間に来るかもしれん」
「警察へ任せろ」
「任せる部分は任せる。でも、あいつらが警察の前でしか話を聞かん人間なら、最初からこんなことになってない」
安倍は、俺の顔を見たまま黙った。
俺が何を使って話をするつもりなのか、分かったのだろう。
地元では、俺の親父の名前を知らない人間の方が少ない。
縁を切ったつもりでも、親子ではないと言い切っても、名字までは捨てていない。
両親が店へ来た夜、最後に言った言葉を思い出した。
――その方がお前にとって都合のいいこともある。
認めたくはなかった。
だが、その都合を使えば、殴り合うより先に座らせられる人間がいる。
「その名前を使えば、向こうもお前を店主としては見なくなる」
安倍が言った。
「分かっとる」
「一度で済む保証はない」
「やけん、これが最後よ」
自分へ言い聞かせるように答えた。
コーセイが立ち上がった。
「先輩、やっぱりええです。俺が何とかします」
「何とかできんかった言うて、店へ来たんやろ」
「でも、先輩まで戻る必要はないです」
「戻るんやない」
俺はコーセイを見た。
「終わらせに行くんよ」
「俺らも行きます」
後ろの男が言った。
「来んでええ。人数連れて行ったら、話し合いにならんやろ」
「でも」
「店におって。安倍の言うこと聞け。具合悪うなったら隠さんと病院行け」
三人は納得していない顔をした。
それでも、コーセイが頷くと座り直した。
安倍は鞄をカウンターへ置いた。
「一時間半だ」
「何が?」
「それまでに連絡がなければ、俺が警察を呼ぶ」
「二時間にしてや」
「一時間半だ」
「鑑定士は交渉下手やな」
「今のは通知であって、交渉ではない」
こんなときまで、安倍は安倍だった。
それが、少しだけありがたかった。
俺はBLUE HEAVENの炭を火消し壺へ移した。
まだ吸える煙だった。
だが、店主がいないまま火だけを残すわけにはいかない。
甘い香りと、冷たい余韻が、途中で途切れた。
入口の札を外し、裏に太いペンで文字を書いた。
――本日、臨時休業。
扉の外へ掛け、鍵を安倍へ渡す。
コートを羽織った。
携帯と財布だけを持つ。
「先輩、何も持っていかんのですか」
コーセイが聞いた。
「人を殴りに行くんやないぞ」
「じゃあ、何しに行くんですか」
「話をつけに行くんよ」
俺は扉を開けた。
「案内せえ、コーセイ」
階段の下から、繁華街の明かりが細く差し込んでいた。
OMNIBUSの店主として上ってきた階段を、その夜だけ、俺は親父の息子として降りていった。




