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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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16/21

第十六煙 WHITE MUSK KASHMIR

争いは、嫌いな人間同士で始まるとは限らない。


近かった人間ほど、裏切られたとき、相手の痛い場所をよく知っている。


最初から敵だった相手より、昨日まで隣にいた相手の方が、上手に人を壊せる。


背後で、OMNIBUSの扉が閉まった。


階段を下り、通りへ出る。


夜風に当たると、コートに残っていたBLUE HEAVENの甘い香りが薄くなった。


繁華街の明かりは、いつもと変わらない。


客を待つタクシー。


酔って肩を組む男たち。


店の前で携帯を見ながら、誰かを待っている女。


この街で一つのグループが壊れかけていても、知らない人間の夜は普通に続いていた。


安倍に言われた一時間半は、もう始まっている。


「案内せえ言うたけど、向こうの頭がどこにおるか知っとん?」


俺が聞くと、コーセイは携帯を出した。


「直接は知りません。連絡つけます」


「つかんかったら?」


「向こうから来ます」


「人気者やな」


「嫌われとるだけです」


コーセイは誰かへ短いメッセージを送った。


返事は来ない。


俺たちは通りを歩いた。


コーセイは半歩前を歩き、何度も店と店の隙間へ目を向けている。


頬は腫れたままだった。


裂けたジャケットの肩から、黒いシャツが見えている。


「一つ聞いてええ?」


「はい」


「お前ら、何で敵対しとるん」


コーセイが振り返った。


「今、聞きますか」


「知らん相手と話つけに行きよるんぞ。今以外、いつ聞くん」


「それもそうですね」


歩く速度が、少し落ちた。


「最初は、仲よかったんです」


コーセイたちと、今は敵対しているグループ。


昔は、境目らしい境目もなかった。


同じ店で酒を飲み、同じ女の誕生日に呼ばれ、片方が揉めれば、もう片方が人数を連れてきた。


仕事を回すこともあった。


金を貸すこともあった。


誰がどちらの人間なのか、本人たちでさえ曖昧だった。


それぞれに人が増え、周りから別のグループとして呼ばれるようになっても、しばらくは上手くやっていた。


「ほんなら、何があったん」


コーセイは、すぐには答えなかった。


前から来る酔客を避け、細い路地へ曲がる。


「うちの一人が、向こうの若いのにシンナーを売りつけたんです」


「お前の指示?」


「違います」


「ほんまに?」


「そこは嘘つきません」


コーセイの下にいた男が、勝手に始めたことだった。


金に困っていたのか。


自分の力を見せたかったのか。


理由は、本人にしか分からない。


ただ、売るときにコーセイの名前を使った。


自分の後ろにはグループがいる。


だから安全だと信じさせた。


相手側では何人かが手を出し、一人が病院へ運ばれた。


それまで一緒に笑っていた人間の間に、初めてはっきりとした線が引かれた。


「売ったやつ、どうしたん」


「追い出しました。向こうにも、俺の指示じゃないと話しました」


「それで終わり?」


「治療代も、こっちで持つ言いました」


「金払うたら、なかったことになるん?」


「なりません」


「向こうからしたら、お前の名前で毒売られて、お前は知らんかった言いよるだけやろ」


「はい」


コーセイは言い返さなかった。


「売った本人を渡せ言われました。でも、追い出したあと、そいつは街から消えたんです」


「逃がしたと思われた?」


「そうです」


実際に逃がしたのか。


本当に勝手に消えたのか。


今となっては、どちらでも同じだった。


一度疑い始めた人間は、事実よりも、自分が裏切られた証拠を探す。


店で鉢合わせれば、以前なら笑って済ませた視線が喧嘩になった。


仕事を一つ取れば、奪ったと言われた。


片方の人間が殴られれば、翌日には倍の人数で殴り返した。


「最初に薬で人を壊したんは、お前らの方やったんやな」


俺が言うと、コーセイは足を止めた。


「はい」


「それ、店では言わんかったよな」


「言うたら、先輩は来てくれんと思ったんで」


「正解」


「すいません」


「謝る相手も違うやろ」


コーセイは、何も言わなかった。


向こうが粗悪な違法薬物を流したのは事実だ。


コーセイの人間を壊し、グループを内側から潰そうとした。


だが、何もない場所へ突然落ちた火ではなかった。


最初の火をつけた人間が、どちら側にいたのか。


その話だけで、正義と悪の席は簡単に入れ替わる。


「どっちも、薬で相手壊しよるだけやないか」


「分かってます」


「分かっとる人間が、一番同じこと繰り返すんよ」


「先輩」


コーセイが、俺ではなく、その向こうを見た。


前から歩いてきた男が二人。


後ろから、足音が三つ。


路地の出口に停まっていた車から、さらに三人が降りた。


合わせて八人。


偶然、同じ場所へ集まった人数ではなかった。


一人が金属バットを肩へ載せている。


一人は短い鉄パイプ。


ほかの男たちも、上着の下や袖から、棒や工具のようなものを出した。


安倍に、携帯と財布しか持っていないことを見せてきたのを少し後悔した。


「向こうから来る言うたん、当たったな」


「先輩、下がってください」


コーセイが、俺の前へ出た。


「八人相手に格好つけんなや」


「俺を狙って来たんです」


「俺も一緒におるやろ」


バットを持った男が、地面へ唾を吐いた。


「コーセイ。もう終わりじゃ言うたやろ」


「頭と話させてくれ」


コーセイが言った。


「話すことなんかない」


「俺はある」


俺が、コーセイの横へ出た。


八人の視線が集まる。


「お前、誰ぞ」


「シーシャ屋」


「は?」


「お前らの頭と話がしたい。案内して」


何人かが笑った。


武器を持った人間は、持っていない人間が怖がることを前提にしている。


怖がらなければ、今度は馬鹿にされたと思う。


「帰れや、おっさん」


「二十七捕まえて、おっさん言うなや」


鉄パイプを持った男が近づいてきた。


「帰りたいけん、話しに来たんよ」


「なら、先に寝かしたるわ」


男が鉄パイプを振り上げた。


話し合いに来た。


人を殴りに来たわけではない。


それは、殴られるまで立っているという意味ではなかった。


男が振り下ろすより先に、距離を潰した。


身体が触れた瞬間、頭より先に、昔の俺が動いた。


男の足が地面から離れる。


視界の端で、コートの裾が大きく回った。


次の瞬間、男の背中が路面へ落ちた。


乾いた音。


肺から空気を全部押し出されたような声。


鉄パイプが転がり、側溝の手前で止まった。


男は起き上がろうとしたが、身体に力が入らず、そのまま仰向けになった。


八人の笑い声が消えた。


「死んでないよ」


俺は言った。


「次、誰なら」


若い頃なら、そこで自分から前へ出ていた。


相手が怯んだ瞬間は、数を減らす機会だと思っていた。


今は違う。


倒れた男へ目を向ける。


呼吸はある。


意識も切れていない。


痛みで動けないだけだった。


それを確かめている自分が、少し可笑しかった。


「やれ!」


誰かが叫んだ。


残った男たちが、一斉に間合いを詰めた。


その中の一人が、街灯の下で俺の顔を見た。


持っていたバットが、ゆっくり下がる。


「待て」


「何なら」


「待てって!」


男の声に、聞き覚えがあった。


髪は短くなっていた。


身体も、昔より一回り大きい。


眉の上に、知らない傷が増えている。


それでも、声だけは変わっていなかった。


十代の頃、俺の後ろを歩いていた後輩の一人だった。


「……先輩?」


男が言った。


「お前、シオリか」


シオリ。


男なのに女みたいな名前で、一度聞けば忘れない。


「お前、何しよん」


「やっぱり、先輩ですよね」


「質問に答えや」


男はバットを地面へ置いた。


ほかの男たちへ両手を広げる。


「下げろ! この人に手ぇ出すな!」


「誰なんぞ」


「ええけん、下げろ!」


男たちは納得していなかった。


だが、倒れている仲間と俺を見比べ、少しずつ武器を下ろした。


シオリは俺の前へ来ると、深く頭を下げた。


「すんません。先輩とは知らんかったんです」


「俺やなくて、親父に謝りよる顔やな」


「違います」


答えは早かった。


「先輩にです」


俺の後ろで、コーセイが息を吐いた。


「お前、こっちにおったんか」


コーセイの言葉で、シオリも初めてまともに顔を見た。


「コーセイ」


「残念そうやな」


「お互い様やろ」


二人は、昔から知っているようだった。


俺の後ろを歩いていた人間が、それぞれ別の集団へ入り、今は武器を持って向かい合っている。


先輩として何かを教えた覚えはない。


それでも、背中を見せた責任だけはあるのかもしれなかった。


「向こうの頭に会いたい」


俺が言うと、シオリの顔が固くなった。


「先輩、やめた方がええです」


「さっきまで八人で襲うとった人間が、急に心配すんなや」


「でも」


「案内して。話するだけよ」


シオリは、コーセイを見た。


「こいつが何したか、聞きました?」


「シンナーの話なら聞いた」


「それでも行くんですか」


「聞いたけん行くんよ。片方の話だけ聞いて帰れんやろ」


しばらく迷ったあと、シオリは頷いた。


倒れていた男は、仲間に肩を貸されて立ち上がった。


自分で歩けることを確認してから、俺はシオリの車へ乗った。


運転席にシオリ。


助手席にコーセイ。


俺は後ろへ座った。


車内に会話はなかった。


走り始めてすぐ、携帯が震えた。


安倍からだった。


――あと六十五分。


時計だけ送れば済むことを、わざわざ文字にする男だった。


俺は短く返した。


――分かっとる。


すぐに返事が来る。


――分かっていない人間が使う返事だ。


携帯を伏せた。


「安倍さんですか」


コーセイが聞いた。


「保護者」


「先輩の?」


「店の」


車は繁華街を離れ、港の方へ向かった。


建物が低くなり、人通りが消えていく。


窓を閉めていても、海と油の混ざったような匂いがした。


着いたのは、港にあるコンテナパークだった。


背の高いフェンスの向こうに、色の褪せたコンテナが積まれている。


一定の間隔で並ぶ照明が、広い敷地を白く切り分けていた。


昼間なら仕事の場所に見えるのだろう。


夜は、人よりも影の方が多かった。


シオリの車が、一番奥に停まっている黒いアルファードへ近づいた。


エンジンはかかったまま。


窓は黒く、中の様子は見えない。


少し離れたところにも車が二台あり、何人かがこちらを見ていた。


「あれです」


シオリが言った。


「お前も来るん?」


「入口までは」


「怖いん?」


「先輩が何言うか分からん方が怖いです」


「昔から失礼なやつやな」


三人で車を降りた。


アルファードへ近づくと、後ろのスライドドアが音もなく開いた。


二列目のシートに、男が一人座っていた。


三十代半ばくらい。


短い黒髪。


暗い色のニットに、飾りのない腕時計。


太い金の鎖も、刺青も見えない。


経営者と言われれば経営者に見える。


子供を迎えに来た父親と言われても、疑わないだろう。


八人へ武器を持たせた人間には見えなかった。


「ご苦労さん」


男がシオリへ言った。


「すんません。途中で――」


「見たら分かる」


男は、シオリではなく俺を見ていた。


「乗ってください。外、寒いでしょう」


「ここでええよ」


「一時間半しかないんでしょう」


俺は、まだ携帯を見せていない。


コーセイが男を見る。


シオリは、目を逸らした。


「俺のこと、知っとん?」


「ええ」


男は、隣の空いているシートへ手を向けた。


俺が先に乗った。


コーセイも続く。


シオリは外に残り、スライドドアが閉まった。


車内は静かだった。


前の運転席には一人いるが、こちらを振り返らない。


「お前が頭?」


「そう呼ぶ人もいます」


「なら、話早いな。薬、止めろ」


男が少し笑った。


「いきなりですね」


「店閉めて来とんよ。ゆっくりする時間ないけん」


「OMNIBUSは、話を急がせない店だと思ってました」


店の名前が出た。


「やっぱり、俺を知っとんやな」


「知ってますよ。シーシャ屋の店長さん」


「客で来たことある?」


「一度だけ」


男は、俺の目を見たまま言った。


「WHITE MUSKとKASHMIR」


その組み合わせで、思い出した。


春先の雨が降っていた夜。


帽子を深く被った男が、一人でOMNIBUSへ来た。


入口が見える席へ座り、メニューをほとんど見ずに二つのフレーバーを指定した。


LIRRAのWHITE MUSK。


DOZAJのKASHMIR。


ほのかな甘さのある、柔らかな香り。


その奥へ、花といくつものスパイスが重なる。


香りを飛ばさないよう、急に熱を入れず、ゆっくり立ち上げた。


WHITE MUSKが先に広がり、煙を吐き終える頃にKASHMIRの華やかさとスパイスが残った。


男は二時間近く吸った。


ほとんど話さず、酒も頼まなかった。


会計のとき、また来ますと言った。


顔は、はっきり覚えていなかった。


だが、低い声には覚えがあった。


「あんたやったん」


「美味しかったですよ」


「礼言うために、コーセイの人間へ薬流したん?」


男は、笑わなかった。


「コーセイ君。シンナーの話はしましたか」


「しました」


「なら、こっちに理由がないとは思わんでしょう」


「理由があったら、何人壊してもええん?」


俺が聞くと、男は初めて少しだけ目を細めた。


「店のときと、話し方が同じですね」


「店主やめて来たつもりやったんやけどね」


「親父さんの名前を使うために?」


車の中の空気が変わった。


コーセイが、隣で身じろぎする。


「そこまで知っとん」


「地元で、あの人のことを知らない方が難しいでしょう」


「俺は縁切っとるよ」


「あなたは、そう思ってる」


「何が言いたいん」


男は窓の外を見た。


白い照明の下に、コンテナの影が長く伸びている。


「コーセイ君のグループを潰した理由は、三つあります」


「一つは、シンナーの仕返し?」


「それと、商売の邪魔だったからです」


「もう一つは?」


男が、もう一度俺を見た。


春先にOMNIBUSへ来た客の顔ではなかった。


最初から、俺がここへ来ることを待っていた人間の目だった。


「あなたを、店の外へ出すためですよ」

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