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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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31/32

第三十一煙 Earl Gray

店主は、自分の店では客になれない。


休みの日にカウンターへ座っても、扉が開けば顔を上げる。


グラスが空けば気になる。


炭の灰が伸びれば、頼まれてもいないのにトングへ手が伸びる。


自分で作ったシーシャを、自分で吸うことはできる。


だが、誰かに全部を任せ、何も考えず煙だけ吸う時間は持てない。


店主が客になるには、よその店へ行くしかない。


牧田冬司がOMNIBUSへ来たのは、平日の遅い時間だった。


会うのは初めてではない。


同じ街で店をしていれば、イベントや業者の集まりで顔を合わせることがある。


昼は整体師をしていること。


夜は、この辺りで一番大きいシーシャ屋を経営していること。


名前と、それくらいは知っていた。


まともに話したことはない。


牧田は、階段を上がってきただけなのに、少し疲れた顔をしていた。


「一人、いけますか」


「どうぞ。珍しいね」


「そうですね」


空いていたカウンターを示す。


牧田は座る前に、店内へ小さく頭を下げた。


客は誰も見ていなかった。


頭を下げなくてもいい相手にまで頭を下げる人間は、下げなければならないときに、どこまで下げればいいのか分からなくなる。


「仕事終わり?」


「はい。今日は整体院だけです」


「PERIODは?」


「シミに任せています」


名前だけは知っていた。


元ホストで、牧田の古い友人。


PERIODの店長。


その男とも、きちんと話したことはない。


「任せられる人おったら、楽でええね」


「そうですね」


牧田は笑った。


楽そうには見えなかった。


メニューを渡すと、最初の頁から一つずつ見た。


レオとは正反対だった。


あいつはメニューを開かず、棚と俺の手元ばかり見ていた。


「レオ、来たよ」


俺が言うと、牧田の指が止まった。


「すみませんでした」


「何で牧田さんが謝るん」


「失礼なことを言いませんでしたか」


「言うたね」


牧田は、メニューを閉じた。


「本当に、すみません」


「本人から金もろうたけん。牧田さんが頭下げることやないよ」


「でも、うちのスタッフですから」


「俺の店に来たときは、ただの客よ」


牧田は何か言おうとして、やめた。


誰かの問題を、自分のところまで運んでくる癖があるらしい。


「何にする?」


俺が聞くと、牧田は棚を見た。


「EARL GREY、ありますか」


「あるよ。単体?」


「はい。単体でお願いします」


言い方に、少しだけ力が入っていた。


「分かった」


理由は聞かなかった。


EARL GREYだけを棚から出す。


紅茶の渋み。


ベルガモットの香り。


甘い果物のように、最初から分かりやすい味ではない。


熱が馴染むほど、香りの角が取れ、遅れて丸さが出てくる。


葉をほぐし、空気の通り道を残してボウルへ詰めた。


牧田は、俺の手元を見なかった。


カウンターに置いた自分の手を見ている。


整体師の手だった。


指が太いわけではない。


節が目立つわけでもない。


ただ、何度も洗い、人の身体へ触れてきた手に見えた。


「手、疲れん?」


「慣れました」


「店もあるやろ」


「シーシャを作るときは、使う場所が違うので」


「そういうもん?」


「人の身体は、力を入れる場所より、抜く場所の方が難しいです」


「人間も一緒やね」


牧田が顔を上げた。


「そう思いますか」


「知らん。整体師やないけん」


牧田は、少しだけ笑った。


炭を置き、時間を測る。


「レオは、何を話しました?」


「牧田さんが重いって」


「そうですか」


否定しなかった。


「あとは、自分が一番美味いって」


「それは、いつも言っています」


「ほんまに一番なん?」


「調子がいい日は、悔しいですけど美味しいですよ」


「なら、ええやん」


「よくはないです。注文と違うものを出すことがあるので」


「うちでも、人のシーシャ勝手に変えよったよ」


「すみません」


「また謝った」


牧田は口を閉じた。


「俺、あいつに店やったらええって言うたよ」


伝えると、牧田の顔が曇った。


「どうしてですか」


「やりたいみたいやったけん」


「失敗すると思いませんか」


「思うよ」


「だったら、止めた方が」


「止めたら、失敗せんの?」


「少なくとも、今すぐは」


「その代わり、辞めたかった店に残るんやろ」


「次が決まってからでもいいと思います」


「それは牧田さんの順番よね」


「普通は、そうじゃないですか」


「普通ができるやつは、学ぶことない言うて仕事辞めんよ」


牧田は黙った。


少し強く言いすぎたかもしれない。


だが、訂正はしなかった。


「レオ、ここで働きたいって言いましたか」


「聞かれたよ」


「何て?」


「断った」


「どうして」


「募集してないし、客の嫌を聞かん人は台作らせんけん」


牧田は、目を伏せた。


「僕も、同じようなことを言いました」


「聞かんかった?」


「聞きませんでした」


「なら、牧田さんが悪いんやなくて、聞かんかったレオが悪いんやない」


「でも、聞かせられなかった僕にも責任はあります」


「面倒くさいね」


思ったまま言うと、牧田は驚いた顔をした。


「本人が聞かんかった話を、聞かせられんかった自分の責任にしたら、何でも牧田さんのせいになるやろ」


「店の中で起きたことは、オーナーの責任です」


「店の外へ出たあとの人生まで?」


返事はなかった。


EARL GREYへ熱が入った。


最初の煙は、紅茶の渋みが先に立つ。


ベルガモットの香りが、その後ろから細く抜けた。


「EARL GREY。何も足してないよ」


俺は牧田の前へ台を置いた。


新しいマウスピースを渡す。


牧田は一口吸い、白い煙をゆっくり吐いた。


目を閉じる。


「どう?」


「同じ味です」


「何と?」


「うちで出したものと」


「ほんなら、うち来た意味ないね」


「同じでよかったんです」


牧田はもう一度吸った。


知らない味を求めて来たわけではないらしい。


自分の知っているものが、よその店でも同じ名前で出てくることを確かめたかったのかもしれない。


扉のベルが鳴った。


「一人?」


顔を上げながら聞いた。


「うん」


シナだった。


大きめのパーカー。


低い靴。


夜を辞めてから、以前より少しだけ昼の人間に近い服を選ぶようになった。


それでも名前は、まだシナのままだった。


シナはカウンターを見て、足を止めた。


牧田も、ホースを持ったまま動かなかった。


「牧田さん」


シナが先に名前を呼んだ。


「こんばんは」


牧田は、客へ挨拶するように頭を下げた。


「知り合い?」


俺が聞くと、二人ともすぐには答えなかった。


「うちの店へ、何度か」


牧田が言った。


「そうなん。シナ、PERIODも行きよったん?」


「最近ね」


シナは牧田の隣ではなく、入口に近いソファへ座った。


普段なら、カウンターの空いている席を選ぶ。


「何にする?」


「今日は、ええわ」


「吸わんの?」


「ちょっと顔出しただけやけん」


目が、牧田の方を見ていた。


「何。俺に言えん話?」


「そんなんやないよ」


返事が早かった。


シナは携帯を取り出し、画面を確認した。


通知は来ていないようだった。


「美緒、来てない?」


「今日は来てないよ」


「じゃあ、帰る」


「来たばっかりやん」


「用事思い出した」


「分かりやすい嘘つくね」


「店長、今日うざい」


立ち上がったシナへ、牧田が声を掛けた。


「シナさん」


シナの肩が止まる。


「この前は、すみませんでした」


「何が?」


「僕が、部屋を」


「あたしが頼んだんよ」


「でも」


「牧田さんは悪くないけん」


シナは笑った。


「シミにも言うといて。今日は、もう連絡せんでええって」


店の中が静かになった。


流れている音楽は止まっていない。


ボトルの水も鳴っている。


それでも、その名前だけが、ほかの音から浮いて聞こえた。


シミ。


PERIODの店長。


元ホスト。


既婚者。


シナが夜を辞めるきっかけになった男。


俺は牧田を見た。


牧田は、自分が何を明かしたのか分かった顔をしていた。


正確には、明かしたのはシナだった。


だが、二人が知り合いだと教え、名前を呼び止めたのは牧田だった。


「シナ」


俺が呼ぶと、扉へ伸ばした手が止まった。


「今、幸せ?」


前にも、同じことを聞いた。


あの夜、シナは迷わず、今は幸せだと答えた。


シナは背中を向けたまま、少し考えた。


「分からん」


初めて、答えが変わった。


「でも、好きよ」


扉が開く。


シナは階段を下りていった。


追いかけなかった。


牧田も、追いかけなかった。


しばらく、どちらも話さなかった。


EARL GREYのボトルだけが、牧田の呼吸に合わせて鳴る。


「知らなかったんですか」


牧田が聞いた。


「相手がシーシャ屋で、元ホストで、結婚しとることまでは聞いとった」


「名前は」


「今知った」


牧田は、両手で顔を覆った。


「すみません」


「俺に謝ってどうするん」


「シナさんにも」


「なら、今度会ったとき自分で言いや」


「追いかけた方がよかったでしょうか」


「追いかけて、何言うん?」


「分かりません」


「ほんなら、今は行かんでよかったね」


牧田は、顔から手を離した。


「僕は、二人に店を使わせました」


「勝手に使われたん?」


「最初は、シミに頼まれました」


「次は?」


「僕が開けました」


「ほんなら、牧田さんの問題でもあるね」


「やっぱり、そうですよね」


「嬉しそうにせんといて」


「嬉しくはないです」


「責任見つけた顔しとるよ」


牧田は、また黙った。


この男は、自分に責任があると分かった方が安心するらしい。


自分の問題なら、自分が苦しめば解決できると思える。


他人が勝手に選び、自分にはどうにもできない方が耐えられない。


「どうすればいいと思いますか」


「知らん」


牧田が顔を上げた。


「知らないんですか」


「俺、PERIODのオーナーやないもん」


「そういう意味じゃなくて」


「シナに不倫やめろって言うたら、やめると思う?」


「言わないよりは」


「もう間違っとるとは言うたよ」


「それでも、止めなかったんですか」


「止めてやめるなら、とっくに夜もホストもやめとる」


「でも、放っておくわけには」


「放ってはないよ」


「じゃあ、何をしたんですか」


「話聞いて、間違っとる言うて、それでも来たら一台出した」


「それだけ?」


「それ以上、何するん」


牧田は答えなかった。


たぶん、答えはいくつも考えていた。


シミと話す。


シナを説得する。


奥さんへ伝える。


三人が傷つかない方法を探す。


そんなものはないと分かっていても、この男なら探す。


「僕は、人を助けたいだけなんです」


牧田が言った。


「知っとるよ」


「それが、そんなに悪いことですか」


「悪ないよ」


「じゃあ」


「助けられんのに、助けた顔するんが危ないんよ」


牧田の目が、少しだけ細くなった。


「僕が、そう見えますか」


「まだ、助けた顔はしとらん」


俺は言った。


「溺れよる三人見つけて、自分も飛び込もうとしよる顔」


「見ているだけよりは、いいでしょう」


「泳げるん?」


返事はなかった。


俺だって泳げるわけではない。


不倫で家庭を壊した。


誰かを救うつもりで、余計に傷つけたこともある。


正しい人間だから、シナへ間違っていると言ったわけではない。


間違った側にいたから、その先に何があるか知っていただけだ。


「俺も、不倫で離婚しとるよ」


牧田は、驚いた顔をした。


「だから、止めないんですか」


「逆。止めたいよ」


「なら」


「俺がやったことやけん、シナだけ殴るみたいに正論言えんのよ」


「同じ間違いをしたからこそ、言えることもあると思います」


「言うたよ。間違っとるって」


「その先は」


「シナが決める」


牧田は、納得していない顔だった。


「答えを渡さないんですね」


「答え持ってないやつが、人の答案書いたらいかんやろ」


「それでも、聞かれたら」


「一緒に考えたらええ。代わりに決めんかったら」


先生がいれば、何と言っただろう。


答案には正解がある。


人間には、たぶんない。


少なくとも、誰も傷つかない答えは残っていなかった。


「牧田さん」


「はい」


「シナとシミがどうするかは、二人が決めることよ」


「奥さんもいます」


「そうやね。せやから二人だけで決めてええ話でもない」


「じゃあ、僕は」


「誰をVIPへ入れるかは、牧田さんが決めること」


牧田の手が、ホースの上で止まった。


「俺に決めてほしい?」


「できれば」


「嫌よ。俺の店やないけん」


「冷たいですね」


「牧田さんが、自分で冷たくならんでええようにしよるだけやろ」


言葉が強すぎた。


今度は、少しだけ後悔した。


牧田は怒らなかった。


怒る代わりに、自分の中へ言葉を持って帰るような顔をした。


「そうかもしれません」


「全部、自分が悪いって意味やないよ」


「分かっています」


「分かってない顔しとるけど」


「よく言われます」


少しだけ、笑った。


EARL GREYの炭を交換した。


新しい熱が入り、細くなっていたベルガモットの香りが戻る。


何も足していない。


甘さで渋みを隠さず、MINTで後味を消さない。


牧田が注文した通り、最後まで単体だった。


「これ、いくらですか」


「普通の値段よ」


「VIPの相談料は」


「取った方がよかった?」


「その方が、少し楽です」


「ほんなら、次から倍ね」


「次も来ていいんですか」


「客ならね」


「レオにも、同じことを言ったんですか」


「言うたよ」


「不思議な店ですね」


「一番よく言われる」


会計を済ませ、牧田は立ち上がった。


店を出る前に、一度振り返る。


「シナさんが来たら」


「来たら?」


「今日のこと、謝っていたと伝えてください」


「自分で言いや」


牧田は困ったように笑った。


「そうします」


階段を下りる足音が、少しずつ遠ざかった。


牧田冬司は、答えを求めてOMNIBUSへ来た。


俺が出したのは、EARL GREYだけだった。


紅茶の渋みと、ベルガモットの香り。


何も混ぜず、何も隠さず、頼まれた通りの一台。


その味をどうするかまでは、客の仕事だった。

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