↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/32

第三十煙 VIP

扉は、閉めれば中が見えなくなる。


音も、表情も、そこで交わされた言葉も、外にいる人間には分からない。


見えないことと、なかったことは同じではない。


それでも人は、見えなくなったものを、なかったことにしてしまう。


PERIODのVIPルームは、そのために作った部屋ではなかった。


周りを気にせず話したい客。


誕生日を祝いたい客。


人目に触れたくない仕事の相談。


金を払えば、誰でも扉を閉められる。


何を話しているのか、僕たちは聞かない。


秘密を守ることも、店が売っている時間の一部だった。


ただ、その秘密に店の人間が入っていくと、話は少し変わる。


レオがOMNIBUSへ行った夜、PERIODにはシミがいた。


レオは休みだった。


夕方、業務連絡へ一言だけ送ってきた。


――他店の勉強してきます。


どこへ行くのかは書いていなかった。


シミはその画面を見て、鼻で笑った。


「何がおかしいの」


僕が聞くと、携帯をポケットへ戻した。


「あいつ、勉強しに行く顔しとらんやろ」


「顔で決めるのはよくないよ」


「ほんなら、何しに行くと思う?」


「自分の店との違いを見るとか」


「自分の方が上手いって確認しに行くんよ」


否定はできなかった。


レオが辞めるまで、あと三週間。


引き止める条件を、僕はまだ考えていた。


シーシャだけに集中できる時間を作る。


新しいフレーバーの選定を任せる。


歩合を付ける。


前より少しだけ、自分が何をしているのかは分かっていた。


それでも、考えることまでは止められなかった。


「今日、奥の一部屋空けといて」


シミが言った。


「予約入った?」


「知り合い来るけん」


「何時?」


「たぶん十二時くらい」


「たぶんで一部屋止めるの?」


「今日は平日やし、ええやろ」


「予約を断ることになるかもしれないよ」


「来たら俺が言う」


シミはそれ以上説明しなかった。


昔から、こういう頼み方をする。


僕が最後には断れないと知っている人間の頼み方だった。


「十二時半までね」


僕は言った。


「分かった」


たぶん、分かってはいなかった。


午後十一時を過ぎると、メインフロアの席が埋まり始めた。


ミズキが注文を取り、シミが会計と客の案内をする。


僕は作業台で、並んだ伝票を順番に処理した。


二名。


四名。


一名。


VIPルームを希望する三名客から問い合わせがあった。


「奥、一部屋空いてます?」


電話を受けたミズキが、僕へ聞いた。


「一時からなら」


答えると、シミがこちらを見た。


何も言わなかった。


ミズキも、何も聞かなかった。


十二時十八分。


入口の扉が開いた。


灰色の大きなパーカー。


黒いパンツ。


踵の低い靴。


薄い化粧。


夜の店へ来る格好には見えなかった。


女は店内へ一歩入り、すぐにシミを見つけた。


その瞬間、顔が変わった。


それまで何かを警戒するように細めていた目が、少しだけ柔らかくなる。


「遅い」


シミが言った。


「返事くれんかった人に言われたくない」


「仕事しよったんよ」


「知っとる」


「ほんなら怒るなや」


「怒ってないし」


女はそう言いながら、笑っていた。


数日前、シミの携帯に表示された名前を思い出した。


シナ。


「こっち」


シミは、空けていたVIPルームの扉を開いた。


「メインでええよ」


シナが言う。


「今日は人多いけん、奥の方がゆっくりできる」


「あたし一人やけど」


「あとで行くけん」


その言葉に、シナは何も返さなかった。


ただ、シミの横を通り、VIPルームへ入った。


扉が閉まる。


「知り合い?」


僕は聞いた。


「うん」


「料金は?」


「普通にもらうよ」


「そうじゃなくて、VIPの」


「俺が払う」


「何でシミが」


「ええやろ、別に」


よくはなかった。


店長が知り合いのために部屋を押さえ、料金を自分で払う。


禁止しているわけではない。


だが、理由の説明がつかないことは、大抵、説明したくない理由を持っている。


「注文聞いてきて」


僕が言うと、シミは首を横へ振った。


「JASMINE MINT」


「もう聞いたの?」


「いつもそれやけん」


「いつも?」


シミは、答えなかった。


僕は棚からJASMINEとMINTを取り出した。


花の香りを中心に、MINTは弱め。


注文を確認していない以上、配分が分からない。


シミへ聞こうとすると、別の客に呼ばれていた。


仕方なく、自分の知っている割合で作った。


炭を外側へ置き、ゆっくり熱を入れる。


JASMINEは、熱が強すぎると花の甘さが重くなる。


MINTを増やせば軽くはなるが、花そのものまで消えてしまう。


何かを隠すために冷たさを足すのではなく、残したい香りのために少しだけ合わせる。


出来上がった一台を持ち、VIPルームの扉を叩いた。


返事が聞こえてから開ける。


シナは広いソファの中央ではなく、端へ座っていた。


六人座れる部屋に、一人。


テーブルには、携帯と水のグラスだけが置かれている。


「お待たせしました」


僕が台を置くと、シナは頭を下げた。


「オーナーさん?」


「はい。牧田です」


「シナです」


知っていた。


それでも、初めて聞いたように頭を下げた。


「MINT、花が消えないくらいにしたんですけど」


「ちょうどええです。あたし、強いん苦手やけん」


「よかった」


シナは自分のマウスピースを付け、長く吸った。


白い煙を吐く。


「うん。好きな味」


その言葉に、少し安心した。


「シミとは、昔からの知り合いなんですか」


聞いてから、店員がする質問ではなかったと思った。


「最近です」


シナは答えた。


「あの人、誰にでもあんな感じですか」


「あんな感じ、というと」


「優しい感じ」


すぐには答えられなかった。


シミは、誰にでも優しい。


客にも、スタッフにも、道で困っている人にも、欲しい言葉を自然に渡せる。


それが本心ではないという意味ではない。


相手に合わせた言葉も、その瞬間に相手を思って選んだのなら、嘘と呼べないことがある。


ただ、シミ自身が何を感じているのか、僕にも分からない。


「昔から、ああいう人です」


結局、そう答えた。


「そうですか」


シナは、少しだけ目を伏せた。


安心したのか、不安になったのかは分からなかった。


部屋を出ようとすると、シナが呼び止めた。


「牧田さん」


「はい」


「あの人、ここでは店長なんですよね」


「そうです」


「頼りになります?」


「なりますよ」


それだけは、迷わず答えられた。


「僕より、ずっと」


シナは笑った。


「やっぱり」


好きな男を褒められた人間の笑顔だった。


僕は、扉を閉めた。


一時を過ぎ、予約していた三人組が来た。


もう一つのVIPルームへ案内する。


一部屋をシナが一人で使い、もう一部屋を三人が使う。


メインフロアには、空席を待つ客がいた。


シミは受付で頭を下げ、待ち時間を説明している。


その姿を見ながら、矛盾していると思った。


店を回す能力がある。


客を待たせることが嫌いで、誰より先に空いた席を片づける。


なのに、自分の知り合いのためには、一部屋を平気で空けておける。


「シミさん、奥の炭交換まだです」


ミズキが言った。


「俺、行く」


シミは新しい炭を皿へ載せた。


「シナさんの方?」


「うん」


ミズキはそれ以上聞かなかった。


シミがVIPルームへ入り、扉が閉まる。


五分。


十分。


炭交換にしては長かった。


「オーナー」


ミズキが小さな声で呼んだ。


「何」


「一番テーブル、会計です」


「分かった」


ミズキが何を聞こうとしたのかは、分かっていた。


僕は答えを持っていなかった。


その夜、シナは閉店近くまでVIPルームにいた。


シミは店へ呼ばれるたび外へ出て、手が空けばまた戻った。


二人が同じ部屋にいた時間は、合わせれば一時間にも満たなかったと思う。


それでもシナは帰らなかった。


一人でJASMINE MINTを吸い、携帯を見て、扉が開くたび顔を上げる。


会える時間より、待っている時間の方が長い。


それを不満そうには見せなかった。


以前から、男を待つことに慣れている人なのかもしれない。


最後の客を送り出したのは、午前三時前だった。


メインフロアの照明を明るくする。


ミズキは先に上がらせた。


ほかのアルバイトも帰り、店には僕とシミとシナだけが残った。


VIPルームの扉が開く。


シナが先に出てきた。


「長居してすみません」


「大丈夫ですよ」


反射的に答えた。


大丈夫かどうかを考える前に、口から出ていた。


「今日、泊まれる?」


シナがシミへ聞いた。


声は小さかった。


聞こうとしなくても、ほかに音のない店では聞こえた。


「今日は無理」


「奥さん?」


シミは、短く頷いた。


シナは、一度だけ唇を噛んだ。


すぐに笑う。


「そら仕方ないね」


「明日、連絡するけん」


「明日って、昼?」


「起きたら」


「何時に起きるん」


「分からん」


「じゃあ明日やないやん」


「起きた日が明日よ」


「適当」


そう言いながら、シナは嬉しそうだった。


シミが、シナの頭へ軽く手を置いた。


恋人に触れる手だった。


シナは、その手を避けなかった。


「タクシー呼ぼか」


「歩けるよ」


「送る」


「片づけあるやろ」


「すぐ戻るけん」


シミは僕を見た。


頼む、とは言わなかった。


言わなくても、僕が残ると知っている顔だった。


「送ってきて」


僕は言った。


「片づけは、僕がやるから」


シナが頭を下げた。


「ありがとうございます」


二人が店を出る。


扉が閉まり、僕だけが残った。


広い店だった。


空いたグラス。


灰の落ちた皿。


火力の消えた何台ものシーシャ。


一人で片づけるには、広すぎた。


僕はVIPルームへ入った。


JASMINE MINTの香りが残っている。


テーブルの下には、シミが座っていた側へ、椅子が少しだけ近づけられていた。


使い終えた二本のマウスピース。


一台を、二人で吸っていた。


見えなかっただけで、なかったことにはならない。


シミが戻ったのは、三十分ほどあとだった。


「遅くなった」


「家まで送ったの?」


「途中まで」


「奥さん、いるんだよね」


シミの足が止まった。


「聞こえとった?」


「聞こえるよ」


「悪い」


謝る場所が違うと思った。


「シナさんとは、付き合ってるの」


「うん」


否定しなかった。


「奥さんは知ってる?」


「知るわけないやろ」


「別れるの?」


シミは、カウンターへ置かれた灰皿を持ち上げた。


「分からん」


「シナさんには?」


「別れるかもしれんとは言うた」


「かもしれない?」


「嘘は言うてない」


「本当のことも言ってないだろ」


声が少し強くなった。


シミは、こちらを見なかった。


灰皿をシンクへ置き、水を流す。


「冬司には関係ない」


「僕の店を使った」


「金は払う」


「金の話じゃない」


「じゃあ、何」


すぐに答えられなかった。


不倫が間違っていること。


シナが傷つくかもしれないこと。


奥さんが知らないところで、生活を削られていること。


シミがいつか全部を失うかもしれないこと。


どれから言えばいいのか分からない。


全員を助ける言葉など、最初からない。


「シナさんのこと、好きなの」


僕は聞いた。


「好きよ」


「奥さんは」


「大事よ」


「それ、おかしいよ」


「知っとる」


「知ってるなら、どちらかを選ばないと」


「何で」


シミは、ようやく僕を見た。


「どっちかを選んだら、正しいん?」


「少なくとも、今よりは」


「奥さん選んで、シナを捨てたら正しい?」


「そういう言い方をしてるんじゃない」


「シナ選んで、奥さん傷つけたら?」


「だから、その前に」


「もう前やないんよ」


シミの声は静かだった。


「もう始まっとる。今さら誰も傷つかん答えなんかない」


それは、たぶん本当だった。


本当だからといって、このままでいい理由にはならない。


「いつから?」


「少し前」


「シナさん、夜の仕事を辞めたのは、シミが理由?」


「俺だけやない」


「でも、きっかけではあるんだろ」


シミは答えなかった。


沈黙が、答えだった。


「なら、ちゃんとしないと」


「ちゃんとって何」


「責任を取るとか」


「何の責任?」


「シナさんの人生の」


言った瞬間、違うと思った。


シナの人生は、シナのものだ。


シミが夜から連れ出したからといって、シミのものになるわけではない。


つい先日、ミズキへ言ったばかりだった。


必要とすることと、全部を渡してもらうことは違う。


助けた人間が、その先まで所有することはできない。


シミは、小さく息を吐いた。


「お前、また人の人生背負おうとしよるやろ」


「僕じゃない。シミの話だよ」


「俺にも背負わせようとしよる」


「関係を持ったなら、背負うものはあるだろ」


「それは俺が決める」


「奥さんとシナさんが決めることでもある」


「せやから、冬司には関係ない」


「困ってる人がいる」


「誰が、冬司に困っとるって言うたん」


言葉に詰まった。


シナは幸せそうに笑っていた。


奥さんは、何も知らない。


目の前のシミは、困っていない。


助けを求めている人間は、一人もいなかった。


だからといって、何も起きていないわけではない。


「困ってない人が、一番人を困らせることもあるよ」


僕が言うと、シミは少しだけ笑った。


「それ、冬司が言う?」


「どういう意味」


「そのまま」


腹が立った。


意味も分かった。


僕も、自分が困っているとは言わない。


眠れない日が続いても、予定を増やした。


身体が動かなくなっても、返事だけは大丈夫と打った。


最後には、僕を助けようとした人間まで一緒に疲れさせた。


そのことを知っているのは、シミだった。


「もう、店では会わないで」


ようやく言った。


シミは、返事をしなかった。


「少なくとも、VIPを隠すためには使わせない」


「分かった」


簡単に答えた。


その言葉が本当かどうかは分からない。


けれど、僕はそれ以上言えなかった。


シミを辞めさせることも、奥さんへ伝えることも、シナへ別れろと言うこともできない。


できたのは、店の扉を使わせないと決めることだけだった。


一週間後、シナは一人でPERIODへ来た。


シミは、まだ出勤していなかった。


その日のメインフロアは混んでいた。


入口の近くには、シナと同じ夜を知っていそうな女たちが座っていた。


シナは店内を見て、一歩だけ後ろへ下がった。


「シミ、まだですよね」


「あと三十分くらいです」


「待ってもええですか」


断るべきだった。


店では会わせないと決めた。


シミも、分かったと言った。


「メインなら、一席空いてます」


僕が示すと、シナは入口側の女たちを見た。


「あそこは、ちょっと」


誰なのかは聞かなかった。


昔の同僚かもしれない。


客だった人間かもしれない。


夜を辞めたことを知られたくない相手なのかもしれない。


困っている。


そう見えた。


「じゃあ、奥へ」


気づいたときには、VIPルームの扉を開けていた。


「ありがとうございます」


シナは頭を下げ、部屋へ入った。


シミに頼まれたわけではない。


料金を払うと言われたわけでもない。


今度は、僕が自分で開けた。


外で会うより、店の中の方が安全だと思った。


自分の目が届くところなら、何かあったときに止められるとも思った。


断って、シナが昔の知り合いと顔を合わせる方が悪い結果になるかもしれない。


理由はいくつも浮かんだ。


どれも、扉を開けてから考えたものだった。


「ご注文は?」


僕が聞くと、シナは少し笑った。


「JASMINE MINT。花が消えんくらいで」


「分かりました」


僕は扉を閉めた。


OMNIBUSで、その味はシナの夜を終わらせた。


PERIODで、同じ味が別の夜を隠した。


MINTが終わらせたのは、仕事だけだった。


人間の夜は、フレーバーほど綺麗には終わらない。


閉じた扉の向こうで、ボトルの水が鳴り始めた。


音だけは、外まで聞こえていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。