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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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第三十二煙 COLA

人の顔は、案外忘れる。


輪郭も、目の形も、髪型も、時間が経てば別のものになる。十年以上も会っていなければ、街ですれ違ったところで気づかないことの方が多いだろう。


けれど声は、身体のどこかに残るらしい。


その男が入口で、


「四人なんですけど、入れます?」


と言ったとき、僕の肩は先に固まった。


店内には空席がいくつもあった。


PERIODは、この街では大きい方の店だ。カウンターだけでなく、低いソファを囲む席がいくつもあり、廊下の先には扉で仕切ったVIPルームまである。週末の深い時間なら満席になることもあるが、平日の二十二時過ぎ、四人を通せない理由はなかった。


それでも僕は、すぐに答えられなかった。


「……はい。大丈夫です」


口が勝手に笑った。


営業用の笑顔とは少し違う。もっと古くて、もっとみっともない笑い方だった。相手の機嫌を損ねないために、何を言われたのか分からなくても、とりあえず口角だけを上げる。


僕が最初に覚えた接客は、学校の教室だったのかもしれない。


男は僕を見なかった。


後ろの三人へ手を振り、靴を脱ぐよう促した。スーツが二人、襟のついたシャツが一人、男だけが会社名の入った作業着を羽織っていた。仕事終わりらしく、全員が少し酒臭い。


「すげえ、こんな店あったんじゃ」


「VIPあるやん。杉原さん、VIP取ってくださいよ」


「四人でVIPはもったいないじゃろ」


杉原。


名前を聞いて、顔の中に昔の顔が重なった。


丸かった頬は痩せ、短かった髪には整髪料がついている。けれど笑うと片方の犬歯が少しだけ見えた。


あの歯を、僕は覚えていた。


「こちらへどうぞ」


僕は一番広いソファ席へ案内した。


四人が席へ着くまでに、三度頭を下げた。誰にも求められていないのに、何度も、何度も。


カウンターへ戻ると、シミが僕を見ていた。


「トウジ」


「何?」


「俺、あれら帰らすけど」


小さな声だった。


シミは伝票を持ったまま、笑っていなかった。客の前では大抵愛想がいい。ホストを辞めて随分経つのに、人の目を見て笑うことだけは身体から抜けていない。


そのシミが、あからさまに客へ背を向けていた。


「知ってるの」


「お前より先に気づいとるわ」


そうだった。


シミも同じ中学校だった。


同じ教室ではなかった時期まで、僕に何が起きているのかを知っていた。


「今は、ただのお客さんだから」


「客なら何してもええんか」


「まだ何もしてないよ」


「昔しとる」


僕は手元のメニューを揃えた。角は最初から揃っていたのに、何度も指で押した。


「今日はしてない」


シミが短く息を吐いた。


「お前を人として扱わんかったやつまで、客として扱わんでええやろ」


正しい言葉だと思った。


同時に、聞けない言葉でもあった。


僕は人を客にしてしまえば、平等に扱える。名前も過去も知らないふりをして、注文を取り、煙を作り、会計をする。客という役割は、僕と誰かの間へ置ける薄い壁だった。


その壁をシミに取られたら、杉原はまた、ただ僕をいじめていた人に戻る。


「僕が行くよ」


「無理しとるじゃろ」


「してない」


また口が笑った。


シミはそれ以上止めなかった。ただ、僕の手からメニューを一冊抜き取り、自分もついてきた。


注文はビールが三つと、ハイボールが一つだった。


「シーシャ、何がええん?」


杉原がメニューを開かずに聞いた。


「甘いもの、さっぱりしたもの、煙が重いもの。好みを聞いてお作りできます」


「俺、初めてなんよ。みんなは?」


「俺もです」


「任せますよ、杉原さん」


部下らしい三人は、何を言っても楽しそうに笑った。


杉原はテーブルのメニューを指先で回した。昔、僕の消しゴムを机の上で弾いていた手より、指が太くなっていた。左手の薬指には指輪があった。


「コーラとかある?」


「あります」


「じゃ、それで。なんか懐かしいし」


胸の奥で、小さな音がした。


懐かしい。


杉原にとって、昔はそう呼べる場所にあるらしい。


「COLA、一台ですね」


聞き返す必要のない注文を復唱した。


「一台で足りる?」


声が遠かった。


僕はもう一度、


「一台でよろしいですか」


と聞いた。


「え?」


「いえ。少々お待ちください」


聞き返された瞬間、喉が閉じた。


教室で、何度もそういうことがあった。


小さな声で何かを言われ、聞こえなかった僕が聞き返すと、杉原は周りを見て笑った。


――牧田、もう一回言うてって。


――え、聞きたいん?


何を言われたかは、ほとんど覚えていない。


笑い声だけが残っている。


カウンターの奥へ戻り、僕はCOLAの葉をボウルへ詰めた。黒く湿った葉から、駄菓子のような甘い香りが立つ。スパイスの輪郭を持った、誰もが一度は知っている味だ。


指先に力が入りすぎた。


「押しすぎ」


隣からシミが手を出した。


僕の詰めた葉をほぐし、空気の通り道を作る。責める言い方ではなかった。


「ごめん」


「俺が持ってく」


「僕が行く」


「トウジ」


「僕の店だよ」


言ってから、少し違うと思った。


僕たちの店だった。


けれど、その訂正をする余裕はなかった。


炭を置き、熱が回るのを待つ。ホースを引くと、甘さの奥から香辛料の刺激が喉へ触れた。知っているコーラより輪郭が濃く、炭酸の代わりに煙が舌へ残った。


僕の手が震えているのを、ミズキが見つけた。


グラスを拭いていた手を止め、何か言おうとした。僕が首を振ると、彼は黙って新しい炭を用意した。


レオなら、火を触ろうとしたかもしれない。


もう彼はここにいなかった。


「お待たせしました」


テーブルの中央へ台を置いた。


最初にホースを渡したのは杉原だった。彼は吸い口を咥え、長く吸った。吐いた煙を見て、子供みたいに目を細めた。


「おお。ほんまにコーラじゃ」


三人が笑った。


「杉原さん、煙うま」


「昔からこういうん得意なんよ」


何が、こういうものに含まれるのかは分からなかった。


僕は笑って頭を下げた。


「ごゆっくりどうぞ」


離れようとしたとき、杉原が僕の名札を見た。


PERIODでは、混雑する日だけスタッフが小さな名札をつける。整体の仕事を終えてそのまま店へ来た僕は、外すのを忘れていた。


「牧田?」


足が止まった。


杉原は僕の顔を下から覗き込んだ。


「え、お前、牧田?」


三人の視線が、一斉に僕へ集まった。


「……はい」


「うわ、マジか。全然分からんかった」


大きな声だった。


店内の何人かがこちらを見た。


「同級生なんですか」


「中学一緒。こいつ昔、めっちゃおとなしかったんよ」


杉原は僕の腕を軽く叩いた。


触れられた場所から、皮膚が遅れて硬くなった。


「懐かし。昔よう遊んだよな、俺ら」


僕は杉原を見た。


机を教室の後ろへ運ばれた日があった。


上履きを隠された日もあった。


僕が教室へ入ると、誰かが僕につけた呼び名を唱え、みんなが笑った。先生はじゃれ合いだと思っていたし、僕もそうだと言った。


遊んだ記憶など、一つもなかった。


けれど、杉原の中では、同じ時間がそういう名前で保存されている。


「覚えています」


僕は言った。


それしか言えなかった。


「じゃろ。いやあ、こんな店やりよったんか。すごいやん」


杉原は何も気づかず笑った。


たぶん、本当に覚えていないのだ。


僕の机を誰が最初に動かしたのかも、僕がどんな顔で探していたのかも、そのあと誰と笑ったのかも。


忘れたふりではない。


忘れられる程度のことだった。


杉原は部下へ、僕が昔から真面目だったことを話した。僕が頼まれたら何でもやる人間だったことを、面白い思い出のように話した。


どれも嘘ではなかった。


嘘ではないから、訂正する言葉が見つからなかった。


「今度、同窓会ここでやろうや。VIPあるんじゃろ?」


「……そうですね」


「同級生割引してよ」


「できますよ」


考えるより先に答えていた。


「できません」


隣に立ったシミが言った。


杉原が初めて、シミを正面から見た。


「あれ。お前も、もしかして」


「シミじゃ。久しぶり」


声は平らだった。


「うわ、シミ! お前は変わらんなあ。相変わらず男前じゃん」


杉原は立ち上がり、シミの肩を抱こうとした。


シミは半歩だけ下がった。


その半歩を杉原は見なかったことにして、笑った。


「同級生二人で店やりよん?」


「割引はないけどな」


「堅いなあ」


「店じゃけん」


「まあええわ。また来るけん、そのとき頼むわ」


「普通に金払うなら来たらええ」


空気が一瞬だけ止まった。


杉原の部下たちが、冗談かどうかを測るようにシミを見た。


僕は笑おうとした。


シミは僕を見ずに、テーブルの炭を一つ動かした。


「熱、これでええ?」


「うん」


「なら戻るで」


僕たちは並んでカウンターへ戻った。


「割引くらい、よかったのに」


「よくない」


「また来てくれるかもしれないし」


「来んでええ」


「お客さんを選んでいたら、大きい店にはできないよ」


「大きくするために、お前を小さくせんでええ」


シミはそう言って、空いたグラスを洗い始めた。


僕は返事ができなかった。


その夜、杉原たちは二時間近くいた。


酒を追加し、COLAの煙を回し、仕事の愚痴と上司の悪口で何度も笑った。杉原は部下から慕われているように見えた。会計はまとめて自分が払い、若い一人へ、終電に間に合うかと聞いていた。


きっと今の杉原を知る人に、彼は悪い人ではない。


人は変わる。


それは僕が信じたいことの一つだった。


人は変われるから、学校へ行けなくなった子も、病気になった人間も、仕事を辞めたホストも、大学を休んだ若者も、どこかからやり直せる。


杉原だけが変わらないと決めつけることは、僕の信じたいものと矛盾していた。


けれど、変わったことと、なかったことになることは違う。


それを僕は、同じ箱へ入れようとしていた。


午前一時前、四人は上機嫌で立ち上がった。


「牧田、またな」


杉原は僕へ手を上げた。


「はい。ありがとうございました」


最後まで、僕は客へ向ける角度で頭を下げた。


扉が閉まり、階段を降りていく声が消えた。


店にはまだ二組残っていた。ミズキが空いたテーブルを片づけようとしたが、シミが止めた。


「そこ、俺やるけん」


「でも」


「ええよ。別の方お願い」


ミズキは僕を見たあと、何も聞かずに頷いた。


シミは四人分のグラスを盆へ載せた。吸い終わったCOLAのボウルには、熱の落ちた炭が残っている。


僕はソファの前に立ったまま、それを見ていた。


「シミ」


「ん」


「どうして、あの頃、僕を助けたの?」


シミの手が止まった。


「急になん」


「聞いたことなかったから」


あの日の昼休みを覚えている。


教室で弁当を食べる場所がなくなり、僕は校舎と体育館の間にある階段へ座っていた。隠れていたつもりだった。


シミが隣へ来て、何も聞かずにパンの袋を開けた。


次の日も来た。


その次の日は、僕を教室から連れ出した。


杉原たちは、シミが隣にいる僕を前ほど笑わなくなった。やがて僕だけを探して遊ぶことに飽きた。


僕はずっと、シミに救われたのだと思っていた。


だから、いつか返さなければならないと思っていた。


シミが間違えたときも、離れなかった。離れることは恩を踏みにじることだと思っていた。


「助けたつもりないけど」


シミは灰受けから炭を外した。


「でも、毎日、あそこへ来たじゃない」


「お前と飯食いたかっただけじゃ」


「僕と?」


「うん」


シミは当然のことのように言った。


「俺も一人で食うん、嫌じゃったし」


それだけだった。


正義感でも、同情でもなかった。


可哀想な僕を救うためではなく、シミは僕と昼飯を食べたかった。


僕は長い間、その時間に勝手な値段をつけていた。


返し切れないほど高い恩にして、返し続けることを友情だと思っていた。


けれどシミは、最初から請求書など出していなかった。


「何で泣きそうになっとん」


「なってないよ」


「なっとるが」


「煙が目に入っただけ」


「もう煙出てないけど」


シミが笑った。


今夜初めて見る、いつもの笑い方だった。


「トウジ」


「何?」


「友達じゃけんって、何でも許さんでええけんな」


僕はすぐには答えなかった。


それが杉原のことなのか、シミ自身のことなのか、たぶん両方だった。


「分かってる」


「絶対分かってない言い方じゃん」


「少しずつ分かるよ」


僕が言うと、シミは空になったボウルを持ち上げた。


「じゃあ、これは定価で」


「もう払ってるよ」


「同級生割引なしでな」


「うん」


杉原はきちんと、伝票どおりの金額を払っていた。


僕が差し出そうとしたものを受け取らず、何も知らないまま帰った。


それでよかったのだと思う。


許したわけではない。


追い出せなかったことが、優しさだったとも思わない。


僕はただ、過去を前にして、昔と同じ笑い方をした。


それでも最後に、僕の隣にはシミがいた。


あの頃と同じように。


違うのは、もう僕たちが子供ではないことと、隣にいる理由を初めて聞けたことだった。


懐かしいと言えるのは、その過去から無事に帰ってきた人間だけだ。


僕にとってCOLAは、まだ少し、喉が痛かった。

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