第二十八煙 WHITE PEACH
拾った、という言葉が嫌いだった。
シミは、僕とミズキのことを話すとき、ときどきそう言う。
冬司が拾ってきた。
冬司に拾われた。
冗談なのは分かっている。
けれど、人は物ではない。
道端へ落ちているわけでも、誰かの持ち物になるわけでもない。
それに、拾われたと思った人間は、いつまで拾った人間へ恩を返せばいいのか分からなくなる。
そのことを僕は、ミズキを雇ってから知った。
レオが辞めると言った翌日、ミズキは開店の二時間前にPERIODへ来た。
出勤予定は午後六時だった。
時計は、まだ四時を少し過ぎたところを指している。
「早いね」
僕が言うと、ミズキは掃除道具を持ったまま頭を下げた。
「すみません」
「怒ってないよ。どうしたの」
「昨日、片づけ途中で帰ったんで」
「シミが帰っていいと言ったんだろ」
「でも、オーナーたちに残ってもらったじゃないですか」
「僕たちは経営者だから」
「俺もスタッフです」
間違ったことは言っていない。
ミズキはモップを床へ滑らせた。
昨日、満席だった店の床には、照明を明るくして初めて見える汚れが残っている。
ソファの下。
テーブルの脚の裏。
VIPルームへ続く廊下の隅。
大きな店は、掃除をしても掃除をしても、誰かのいた痕跡が見つかる。
「レオさんのシフト、俺が出ます」
ミズキは床を見たまま言った。
「全部?」
「出られます」
「大学は」
「今、休学中なんで」
「復学するかもしれないだろ」
「まだ決めてません」
「だからこそ、空けておいた方がいいよ」
「でも、店困りますよね」
「困るね」
否定すると嘘になる。
レオの勤務は多かった。
シーシャを作れるスタッフの穴は、ドリンクだけを担当する人間の欠勤より大きい。
新しい人間を募集し、教え、一人で任せられるようになるまでには時間がかかる。
「だったら、俺が出ます」
「ミズキが全部出たら、今度はミズキが困るよ」
「俺は大丈夫です」
大丈夫。
シミがよく使う言葉だった。
大丈夫なときも、大丈夫ではないときも、同じように使う。
気づけば、ミズキまで覚えていた。
「それに、俺、オーナーに助けてもらったんで」
モップが止まった。
本人は、ただ事実を言ったつもりだったのだと思う。
僕には、請求書を差し出されたように聞こえた。
金額の書かれていない請求書。
僕が助けたと言い続ける限り、ミズキが払い終えることのできないもの。
「あのとき」の話を、ミズキはほとんどしない。
僕も、普段は思い出さないようにしている。
あれは一年前、雨の多い時期だった。
PERIODを開けて、まだ半年も経っていなかった。
今ほどスタッフはいなかった。
VIPルームも一室だけで、メインフロアの壁には、埋められない空白がいくつもあった。
店が大きいということは、客が少ない日に、その少なさまで大きく見えるということだった。
雨が三日続いた夜、客は一人も来なかった。
シミはカウンターで売上表を眺め、僕は使う予定のない炭へ火をつけていた。
「今日、閉める?」
僕が聞くと、シミは時計を見た。
「まだ九時やぞ」
「でも、この雨だし」
「お前が開ける言うた店やろ。営業時間くらい守れや」
「電気代もかかるよ」
「客来てから点けるんか。怖いやろ」
「そういう意味じゃない」
「知っとる」
シミは売上表を閉じた。
「暇なら一台作って」
「何がいい?」
「任せる」
「一番困る注文だね」
「オーナーやろ」
棚を眺めて、WHITE PEACHを取り出した。
入荷したばかりで、まだ客へ出したことのないフレーバーだった。
白桃の柔らかな甘さ。
皮の近くにある薄い酸味。
単体でどこまで輪郭が出るのか、試してみたかった。
ボウルへ詰め始めたところで、入口の扉が開いた。
先に入ってきたのは、雨の匂いだった。
次に、濡れたスニーカー。
最後に、傘を持っていない若い男が立っていた。
前髪から水が落ちている。
薄いパーカーは肩まで色が変わり、背負ったリュックの底からも水が垂れていた。
「まだ、やってますか」
「やってますよ」
僕が答えるより先に、シミが立ち上がった。
「タオル使う?」
差し出されたタオルを、男はしばらく見た。
「金、あんまりないんですけど」
「タオル代は取らんよ」
シミが笑った。
「シーシャ吸わなくても、雨宿りだけでいいですよ」
僕が言うと、シミがこちらを見た。
余計なことを言うな、という顔だった。
若い男は入口へ立ったまま、店内を見回した。
客のいない広いフロア。
まだ何も置かれていない棚。
二人しかいない店員。
雨宿りを断るほど繁盛していないことは、一目で分かったと思う。
「一番安いの、いくらですか」
「シーシャなら――」
シミが料金を説明する。
男は濡れたポケットから財布を出し、中を見た。
「じゃあ、それで」
「無理に頼まなくていいよ」
僕が言うと、男は少し眉を寄せた。
「客じゃないと、ここにいたら駄目なんですよね」
「そんなことは」
「冬司」
シミに名前を呼ばれ、僕は黙った。
「初めて?」
シミが聞いた。
「はい」
「ほんなら、味選ぼか。甘いんと、さっぱりしたん、どっちがええ?」
「分かりません」
「果物は?」
「桃なら」
シミが、僕の手元を見た。
「ちょうどええやん」
作りかけていたWHITE PEACHを、僕は新しいボウルへ詰め直した。
客へ出すものと、自分たちで試すものは分けたかった。
男はカウンターの端へ座った。
渡されたタオルで髪を拭いても、前髪からはまだ水が落ちている。
「大学生?」
僕が聞くと、一瞬だけ手が止まった。
「一応」
「近くの?」
「はい」
「今日は遅くまで授業?」
「別に」
会話はそこで切れた。
聞いてはいけない場所を押したのだと、遅れて気づいた。
僕はそれ以上聞かず、ボウルへ炭を置いた。
急がず、外側から熱を入れる。
白桃の香りは、最初から強く出るわけではない。
温度が馴染むにつれて、薄い甘さが少しずつ丸くなる。
男は、吸い方の説明を黙って聞いた。
最初の一口で、少しだけ咳をした。
シミは笑わなかった。
僕も笑わなかった。
二口目。
今度は、白い煙が細く吐き出された。
「どう?」
「桃です」
「それはよかった」
「でも、食べる桃とは違いますね」
「煙だからね」
「当たり前のこと言いますね」
シミが吹き出した。
男は、なぜ笑われたのか分からない顔をした。
それが、ミズキとの最初の会話だった。
その夜、雨は閉店まで止まなかった。
ミズキはWHITE PEACHを吸い終えても、席を立たなかった。
帰れとは言えなかった。
僕たちは片づけを始めた。
シミがボトルを洗い、僕がテーブルを拭く。
ミズキはしばらく眺めていたが、やがて空いたグラスを二つ持ってカウンターへ運んだ。
「そこ置いていいですか」
「ありがとう」
次は灰皿を運んだ。
頼んではいなかった。
それでも、止めなかった。
「雨、弱くなるまでおってええよ」
シミが言った。
「朝まで降るみたいです」
「家、近いん?」
「歩いて一時間くらい」
「傘は」
「なくしました」
「買えばええやん」
「さっきので、金ほとんどないんで」
ミズキは、空になったシーシャを見た。
シミが僕を睨んだ。
だから無理に注文させるなと言っただろう、という意味なら、僕は最初から無理に頼まなくていいと言っている。
そう説明しようとしたが、やめた。
「傘、持って帰っていいよ」
僕は従業員用の傘立てから、ビニール傘を一本抜いた。
「返せないかもしれません」
「安いやつだから」
「そういうの、嫌なんで」
ミズキは受け取らなかった。
「借りたままになるのが?」
「はい」
「じゃあ、返しに来ればいいよ」
「いつまでに」
「いつでも」
「いつでもが、一番困ります」
その言葉の意味を、当時の僕はよく考えなかった。
期限のない親切は、受け取る側へ期限を決めさせる。
返せる日まで、ずっと借りたままになる。
「次の金曜」
シミが言った。
「俺、次の金曜おるけん。それまでに返して」
「分かりました」
ミズキは、ようやく傘を受け取った。
次の金曜日、ミズキは本当に来た。
雨は降っていなかった。
借りたビニール傘を、丁寧に畳んで持っていた。
「ありがとうございました」
「わざわざ返しに来たん?」
「次の金曜って言われたんで」
シミは僕を見た。
ほらな、と言いたそうな顔だった。
その日はシーシャを頼まなかった。
金がないから、入口で傘を返して帰るつもりだったらしい。
ちょうど、フレーバーの段ボールが届いたところだった。
「よかったら、運ぶの手伝ってくれない?」
僕は言った。
「冬司」
「手伝ってもらった分は払うよ」
「そういう問題やない」
シミの制止を無視し、ミズキへ段ボールを一つ渡した。
大きさのわりに、中身は軽い。
ミズキは一箱運ぶと、次の箱へ手を伸ばした。
全部を棚へ入れ終えるまで、帰らなかった。
その日の給料として、僕は予定していたより多い金額を渡した。
ミズキは受け取らなかった。
「こんなにもらえません」
「助かったから」
「でも、一時間もやってないです」
「夜だし」
「夜でも多いです」
押し問答の末、シミが間へ入った。
「ほんなら、次も働いて返したらええ」
「それ、返すことになる?」
僕が聞くと、シミは僕を無視した。
「今、バイトしよる?」
ミズキは答えなかった。
沈黙が、答えだった。
「大学は?」
「行ってません」
「いつから」
「半年くらい」
「休学?」
「まだ、手続きしてないです」
「親は知っとる?」
「たぶん、知らないです」
一つ聞くたび、ミズキの立っている場所が見えなくなっていった。
大学へ行くために近県から出てきた。
けれど、大学へは行っていない。
前のアルバイトは、連絡を返せなくなって辞めた。
親からの電話も取っていない。
家賃を払えば、食費がほとんど残らない。
それでも、地元へ帰るとは言えない。
この街にいる理由はなくなりかけているのに、この街から出る理由も決められない。
「ここで働く?」
僕は聞いた。
シミが目を閉じた。
「俺、シーシャ作れません」
「最初は誰でもそうだよ」
「接客も、得意じゃないです」
「覚えればいい」
「また来なくなるかもしれません」
「来られなくなったら、連絡して」
「連絡もできなくなったら」
「僕から連絡する」
ミズキは俯いた。
助けを求めている顔に見えた。
今思えば、そう見たかっただけかもしれない。
誰かの役に立てる自分でいたかった。
目の前にいる若い男を助けることが、過去のどこかにいた自分を助けることにもなる気がした。
僕にも、行かなければならない場所へ行けなかった時期がある。
携帯が鳴るほど、画面を伏せた。
返事をしなければならない相手が増えるほど、誰にも返せなくなった。
今日は休んでもいいと言われても、明日も動ける保証にはならなかった。
その話を、ミズキにはしなかった。
ただ、働かないかと繰り返した。
「やります」
ミズキが言った。
僕は安心した。
その安心が、誰のためのものだったのかは分からない。
ミズキが初めて出勤した日、僕は新しい靴と制服を用意した。
交通費は先に渡した。
食事をしていないと言えば、賄いではなく僕の財布から食べさせた。
家賃が危ないと知ると、一か月分を貸した。
ミズキが断るたび、働いて返せばいいと言った。
返すものが増えるほど、ミズキは休まなくなった。
熱があっても出勤しようとした。
僕が昼の仕事で来られない日は、頼んでいない時間まで店へ残った。
遅刻をしない。
無断で休まない。
分からないことは聞く。
レオのように一度で美味しい台を作ることはなかったが、同じ味を何度も練習した。
少しずつ、任せられる仕事が増えた。
僕は、ミズキが立ち直っているのだと思った。
シミは、違うものを見ていた。
「あいつ、休みの日まで来よるぞ」
「仕事を覚えたいんだろ」
「借り返したいだけや」
「給料から少しずつでいいと言ってるよ」
「金の話だけしよんやない」
「じゃあ、何」
「冬司に捨てられんようにしよんよ」
その言葉には腹が立った。
僕はミズキを捨てるつもりなどない。
一度もない。
そう言うと、シミは煙草へ火をつけながら答えた。
「せやからやろ」
意味が分からなかった。
捨てないと約束することの、何が悪いのか。
居場所を用意することの、何が間違っているのか。
当時の僕には、本当に分からなかった。
回想から戻ると、ミズキはまだ床を磨いていた。
同じ場所を、何度も往復している。
もう汚れは落ちていた。
「ミズキ」
「はい」
「そこ、もう綺麗だよ」
「でも」
「大丈夫」
言ってから、昨日までと同じ言葉を使ったことに気づいた。
「いや」
僕は言い直した。
「今日は、そこまでで終わりにして」
ミズキがモップを止めた。
大丈夫と言われれば、自分で続けることもできる。
終わりと言われれば、やめるしかない。
僕は初めて、曖昧に安心させるのではなく、終わる場所を決めた。
「レオのシフトは、全部入らなくていい」
「でも、店が」
「二日だけお願いする。残りは僕とシミで分けて、新しいスタッフも探す」
「オーナー、昼もあるじゃないですか」
「だから僕も、全部は入らない」
自分で言いながら、本当にできるのかと思った。
空いたシフトを見ると、全部に自分の名前を書きたくなる。
誰かが困るくらいなら、自分が困ればいい。
その考えを、僕は優しさだと思ってきた。
「ミズキが大学へ戻るか、辞めるか。それはミズキが決めることだよ」
「はい」
「でも、PERIODが忙しいからという理由で決めないでほしい」
「俺がいないと困るんですよね」
「困る」
ミズキの顔が曇った。
「でも、困るのは僕たちの仕事だ。ミズキの人生で埋める穴じゃない」
言葉にすると、ずいぶん冷たく聞こえた。
それでも、言い直さなかった。
助けることは、いつも温かい言葉を渡すことではないのかもしれない。
「俺、いらないってことですか」
「違う」
否定が早くなった。
また、安心させるために何でも言いそうになる。
一度息を吐いた。
「必要だよ。でも、必要とすることと、全部を渡してもらうことは違う」
ミズキは何も言わなかった。
うまく伝わったかは分からない。
僕自身、今まで分けて考えたことがなかった。
必要な人には、必要なだけいてほしい。
それを愛情と呼び、親切と呼び、雇用と呼んできた。
相手に残るものまで考えたことはなかった。
入口の扉が開いた。
シミが、コンビニの袋を提げて入ってきた。
「何しよん。まだ開店前やぞ」
「掃除です」
ミズキが答えた。
「見たら分かるわ。なんで二時間前からおるん」
「昨日、途中で帰ったんで」
「帰れ言うたん俺やろ」
「はい」
シミは僕を見た。
僕がまた何かを背負わせたと思ったのだろう。
「レオのシフト、二日だけミズキに頼むことにした」
「二日?」
「残りは分ける。募集も出す」
シミは一度だけ瞬きをした。
「冬司が?」
「僕が」
「熱ある?」
「ないよ」
「昨日、頭打った?」
「打ってない」
シミはコンビニの袋をカウンターへ置いた。
「やっとオーナーみたいなこと言うやん」
「今までもオーナーだったよ」
「人助けしよる人かと思っとった」
「店もやってたよ」
「そういうことにしとくわ」
袋の中には、おにぎりが三つ入っていた。
以前なら、僕はミズキへ先に選ばせたと思う。
足りなければ、自分が食べなければいい。
その日は、一つずつカウンターへ並べた。
「三人分?」
僕が聞くと、シミは頷いた。
「今日は最初から三人おる予定やったから」
ミズキはモップを片づけ、カウンターへ座った。
僕も隣へ座る。
誰か一人が我慢しなくても、最初から三人分あった。
開店まで、まだ一時間半ある。
ミズキが、おにぎりの包みを開きながら言った。
「オーナー」
「何」
「大学のこと、今度話してもいいですか」
「もちろん」
答えかけて、少し止まった。
「僕に決めてほしい?」
ミズキは首を振った。
「聞くだけでいいです」
「分かった。聞くだけにする」
できるかどうかは、まだ分からなかった。
それでも、約束した。
開店後、最初に入った注文はWHITE PEACHだった。
ミズキが伝票を持ってきた。
「単体です」
「作ってみる?」
「俺がですか」
「うん」
「オーナー、見ててください」
「必要なところだけね」
ミズキはフレーバーを量り、葉をほぐした。
一年前より、手つきはずっと慣れている。
それでも、表面を整える指には少し力が入っていた。
「押しすぎなくていいよ」
僕が言うと、ミズキは指を止めた。
「どのくらいですか」
「葉が潰れないくらい」
「曖昧ですね」
「そうだね」
身体も、人間も、フレーバーも、教科書どおりの力では扱えない。
触れてみなければ分からない。
ただ、強く押せばいいわけではない。
ミズキが作ったWHITE PEACHへ、ゆっくり熱が入った。
最初は薄かった香りが、時間とともに丸くなる。
白桃は、柔らかい。
指で押せば、熟しているかは分かる。
けれど、確かめるために何度も押せば、その場所から傷んでいく。
人を助けようとする手も、同じなのかもしれない。
離せば、見捨てた気がした。
握れば、守った気になれた。
その間に、力を抜いて触れるという選択があることを、僕はまだ覚え始めたばかりだった。




