第二十七煙 VIOLET CANE
沈黙には、一人分の沈黙と、二人分の沈黙がある。
一人で黙っているだけなら、誰にも気を遣わなくていい。
二人で黙ると、途端に理由が必要になる。
怒っているのか。
退屈しているのか。
話題がないのか。
それとも、何も話さなくても平気なのか。
最後の沈黙を一緒に持てる相手は、案外少ない。
その夜、OMNIBUSにはシナがいた。
カウンターの端へ座り、JASMINE MINTを吸っている。
仕事を辞めてから、服装は少しずつ変わった。
身体の線を見せる服が減り、大きめのパーカーや、踵の低い靴を選ぶようになった。
化粧も薄くなった。
それでも、携帯を伏せて置く癖だけは変わらない。
「今日、一人なん?」
俺が聞くと、シナはホースを持ったまま顔を上げた。
「見たら分かるやろ」
「あとから誰か来る?」
「来んよ」
「待ちよる顔しとるけど」
「どんな顔よ」
「携帯、三十秒おきに見る顔」
シナは携帯へ伸ばしかけた手を止めた。
「仕事中なんよ」
「シナが?」
「違う。向こうが」
誰のことかは、聞かなくても分かった。
シーシャ屋で働いている、元ホストの男。
結婚している男。
シナが夜を辞めるきっかけになった男。
名前までは知らない。
どこの店かも、シナは言わなかった。
俺も、無理には聞かなかった。
「忙しい店なん?」
「店長しよるけん、忙しいんやない」
「ほんなら、忙しいんやろ」
「やろ?」
シナは、自分へ言い聞かせるように笑った。
「忙しいだけよ」
「俺も、そう言うたよ」
「店長は余計な言い方するけん嫌い」
そう言いながら、また携帯を見た。
通知は来ていなかった。
階段の下から、ぺた、ぺた、と乾いた音が聞こえた。
「坊さん来た」
シナが言った。
「坊さんやないよ」
「知っとる。工場の人やろ」
扉が開く。
紺色の作務衣に、雪駄。
ボッさんだった。
「こんばんは」
「いらっしゃい。今日は朝礼の愚痴?」
「今日は特にありません」
「ええことやね」
「話すことがないという意味です」
ボッさんは店の奥へ座った。
注文は、聞く前から分かっていた。
「CANE MINT?」
「はい。強めで」
「これ以上強くしたら、鼻なくなるよ」
「なくなったら、マスクが楽になります」
「工場で怒られん?」
「鼻があることは、就業規則に書いていません」
シナが吹き出した。
ボッさんは、自分が笑わせたことに気づいていない顔で、水のグラスへ口をつけた。
CANE MINTの準備を始めたところで、扉のベルが鳴った。
黒いレース。
編み上げの厚底靴。
腕へ下げた布袋には、前に見たものとは違うバンド名が印刷されている。
顔より先に服で分かる。
ジェーンちゃんだった。
「こんばんは」
「ライブ帰り?」
「はい。ルイさんを見てきました」
「どうやった?」
「事前に音源を聴いていなかったので、知らない曲ばかりでした」
「初めてなら、そらそうやろ」
「でも、三曲目が好きでした。曲名を聞き忘れたので、次に会ったら確認します」
もう次に会うことは決まっているらしい。
好きなものが、十二組へ増えるのも時間の問題だった。
店内には席が余っていた。
カウンターにも、入口側のソファにも座れる。
ジェーンちゃんは一度見回し、店の奥へ歩いた。
ボッさんから、一人分だけ空けた席へ座る。
ボッさんが、小さく頭を下げた。
ジェーンちゃんも同じように頭を下げた。
「今日は作務衣ですね」
「今日もです」
「前も作務衣でした」
「はい」
「いつも作務衣なんですか」
「だいたい」
「では、作務衣の人ですね」
「ボッさんでええよ」
俺が口を挟むと、ジェーンちゃんはボッさんを見た。
「ボッさん」
「はい」
「本名ですか」
「違います」
「私もジェーンは本名ではありません」
「そうですか」
「ジェーン・ドウのジェーンです。身元の分からない女性につける名前です」
「縁起が悪いですね」
ジェーンちゃんが、少し目を開いた。
前にも誰かに同じことを言われたのを思い出したのかもしれない。
「でも、覚えやすいでしょう」
「はい」
「私は何と呼べばいいですか」
「ボッさんで」
「分かりました、ボッさん」
本名ではない名前同士で、二人は名乗り合った。
俺はジェーンちゃんの注文を聞いた。
「今日もVIOLET?」
「はい。ライブで知らないものをたくさん聴いたので、知っている味がいいです」
「バンドは増やすのに、味は戻るんやね」
「好きなものへ新しいものが加わるのと、好きだったものが要らなくなるのは別です」
相変わらず、好きなものを減らすつもりはないらしい。
俺は二つのボウルを並べた。
一つへVIOLET。
もう一つへCANE MINT。
花は急に熱を入れると、香りが重くなる。
CANE MINTは、詰め方と火入れを誤れば、冷たさだけが喉へ刺さる。
性格の違う二台へ、それぞれの時間で熱を入れる。
待っている間、ジェーンちゃんは布袋からフライヤーを何枚も取り出した。
「今日、ルイさん以外にも二組出ていました」
ボッさんの前へ並べる。
「この人たちは三人組です。以前は四人だったらしいです。ギターが抜けた理由は発表されていません。でも、五年前の投稿を見ると、たぶんボーカルとの方向性の違いです」
「そうですか」
「こちらは二人組です。曲は好きでしたが、物販の説明が少し長かったです。あと、ドラムの人は以前別のバンドにいました」
「詳しいですね」
「今日知りました」
「今日」
「ライブ中に調べたので」
ジェーンちゃんの話には、聞く側の現在地がなかった。
知らないバンドの知らないメンバーが、説明もなく現れては消える。
俺なら、五分で道を見失う。
ボッさんは、時々、そうですかと答えた。
相槌の間隔は長い。
だが、携帯を触ることも、ほかの方を見ることもなかった。
十分ほど話したところで、ジェーンちゃんが口を止めた。
「興味、ありませんか」
「バンドですか」
「はい」
「あまり聴きません」
「では、なぜ聞いているんですか」
ボッさんは、少し考えた。
「話しかけられたので」
以前、タカダさんにも同じことを言っていた。
ボッさんにとっては、話しかけられたから聞く。それ以上でも、それ以下でもない。
「迷惑なら言ってください」
ジェーンちゃんが言った。
「言います」
「今は?」
「まだ大丈夫です」
愛想のない答えだった。
それでもジェーンちゃんは、少しだけ笑った。
嫌われていないと想像する必要も、好かれていると疑う必要もない。
大丈夫だと言われた間だけ、ここにいればいい。
人と近づくのが怖い女にとって、その狭い範囲は居心地がよかったのかもしれない。
俺は二台を立ち上げた。
先にCANE MINTをボッさんへ出す。
白い煙を吐いたボッさんが、小さく頷いた。
「今日は甘いです」
「冷たさは?」
「鼻は残りそうです」
「就業規則守れるね」
「書いてませんけどね」
続いて、VIOLETをジェーンちゃんへ出した。
柔らかな花の香りが、黒い服の周りへ広がる。
ジェーンちゃんは一口吸い、安心したように息を吐いた。
「知っている味です」
「そら、いつものやけん」
「今日は、知っていることが少なかったので」
ライブで新しい音をいくつも浴びて、少し疲れていたらしい。
好きなものが増えることにも、体力は要る。
カウンターで、シナの携帯が震えた。
シナはすぐに画面を見る。
「来た?」
俺が聞くと、携帯を伏せた。
「違った。店の子」
「残念やね」
「別に」
返事が早かった。
シナはJASMINE MINTを深く吸った。
花の香りのあとから、細い冷たさが残る。
終わったはずの話にも、待っている時間はあった。
奥の席では、ジェーンちゃんがボッさんの煙を見ていた。
「そちらは何ですか」
「CANE MINTです」
「冷たいですか」
「かなり」
「一口もらえますか」
ボッさんの手が、ホースの上で止まった。
ジェーンちゃんは自分の鞄から、個包装のマウスピースを取り出した。
「嫌なら言ってください」
「大丈夫です」
ボッさんはホースを差し出した。
ジェーンちゃんは自分のマウスピースを付け、慎重に吸った。
次の瞬間、特徴のない顔が、はっきりと歪んだ。
「冷たいです」
「かなり、と言いました」
「歯磨き粉より冷たいです」
「歯磨き粉ではないので」
「歯磨き粉ではないのに、歯磨き粉より冷たいんですね」
「はい」
ボッさんは真面目に答えた。
ジェーンちゃんはもう一度だけ吸った。
今度は、さっきより短い。
「嫌い?」
俺が聞くと、しばらく口の中に残った冷たさを確かめた。
「単体では、少し怖いです」
「味に怖いってあるん?」
「近づきすぎる感じがします」
ジェーンちゃんらしい感想だった。
「VIOLETと混ぜられますか」
「花が負けるかもしれんよ」
「負けないくらいにしてください」
「今のVIOLET、まだあるけど」
「次の台で」
一度気になれば、確かめずには帰れないらしい。
ジェーンちゃんはボッさんを見た。
「一緒に吸いますか」
「俺はCANE MINTがあります」
「二台なくなるまでいるんですか」
「そのつもりです」
「では、三台目もいけますね」
「そういう計算ですか」
「一人では多いので、手伝ってください」
ボッさんは黙った。
断る理由を探しているようにも、引き受ける言葉を探しているようにも見えた。
「嫌なら言ってください」
ジェーンちゃんが、もう一度言った。
「嫌ではないです」
それが、ボッさんなりの承諾だった。
俺は新しいボウルへ、VIOLETを多めに詰めた。
CANE MINTは、花を消さない程度に少しだけ。
二つを完全には混ぜず、吸うたびに香りの順番がわずかに変わるよう、場所を分けて置いた。
VIOLET CANE。
メニューにはない一台だった。
シナは、その台が立ち上がる前に席を立った。
「もう帰るん?」
「うん。明日、朝から用事あるけん」
「迎えは?」
「来んよ」
言い切ったあと、少しだけ携帯を見た。
「仕事中やから」
会計を済ませ、シナは階段を下りていった。
階段の下で、シナが誰かへメッセージを送っていたことを、俺は知らなかった。
――まだ仕事?
その名前が、別のシーシャ屋のカウンターで、一瞬だけ光ったことも知らなかった。
VIOLET CANEへ熱が入った。
最初に出たのは、すみれの柔らかな香りだった。
その後ろから、CANE MINTの冷たさが細く抜ける。
強い方を少なくしたからといって、存在まで消えるわけではない。
花は花のまま残り、冷たさも冷たさのまま残った。
俺は一口味を確認し、二人の間へ置いた。
「VIOLET CANE。花が負けんくらい」
ジェーンちゃんが先に吸った。
煙を吐き、しばらく黙る。
「どう?」
「知らない味です」
初めて来た夜と、同じ答えだった。
「でも、嫌いではありません」
ホースを、ボッさんへ渡す。
ボッさんは自分のマウスピースへ差し込み、長く吸った。
「どうですか」
ジェーンちゃんが聞く。
「花です」
「冷たくないですか」
「いつものよりは、だいぶ甘いです」
「嫌ですか」
「嫌ではないです」
二人の感想は、それ以上増えなかった。
ジェーンちゃんはフライヤーを鞄へ戻した。
ボッさんは空になったグラスを端へ寄せた。
同じ台から別々のマウスピースで煙を吸い、二人とも黙った。
一分。
二分。
ジェーンちゃんは、次のバンドの話を始めなかった。
ボッさんも、帰るとは言わなかった。
俺はカウンターの中でグラスを拭いた。
気まずい沈黙なら、どちらかが携帯を見る。
どちらも見なかった。
しばらくして、ジェーンちゃんが言った。
「次は、いつ来ますか」
ボッさんが顔を上げる。
「まだ決めてません」
「そうですか」
「たぶん、金曜か土曜です」
「分かりました」
「合わせなくていいですよ」
「合わせるとは言っていません」
「はい」
「ただ、私も金曜か土曜に来るかもしれません」
「そうですか」
会話は、そこで終わった。
約束はしていない。
連絡先も聞かなかった。
互いの本名さえ知らない。
ただ、次に来るかもしれない日だけを知った。
最初に会った夜、二人は別々の時間に帰った。
その夜も、ジェーンちゃんが先に席を立った。
「お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
ボッさんは、追いかけなかった。
ジェーンちゃんも、待たなかった。
扉が閉まり、厚底靴の音が階段を下りていく。
ボッさんは残ったVIOLET CANEを一口吸った。
「花、嫌いやった?」
俺が聞く。
「嫌ではないです」
「そればっかりやね」
「嫌ではないので」
それ以上は聞かなかった。
VIOLET CANE。
花の甘さへ、強い冷たさが少しだけ混ざる。
近づけば、どちらかの味が消えるとは限らない。
混ざったことで、初めて分かる味もある。
ボッさんは、その台が終わるまで店にいた。
次の金曜日、二人は別々の時間にOMNIBUSへ来た。
偶然だったのか、どちらかが少しだけ合わせたのか。
俺は聞かなかった。
聞かない方がいいことまで聞かないのも、店主の仕事だった。




