第二十六煙 EARL GREY
人の身体には、押していい場所と、押してはいけない場所がある。
同じ腰痛でも、原因が腰にあるとは限らない。
肩が痛いと言う人の首を触ることもあれば、背中が重いと言う人の足をほぐすこともある。
痛みのある場所だけを強く押せば、一時的には効いたような気がする。
けれど、翌日には余計に痛くなることがある。
人間も、たぶん似ている。
困っている場所と、本当に手を入れなければならない場所は、いつも同じではない。
僕は昼間、整体師をしている。
それなのに人間のことになると、どこを押せばいいのか、いまだによく分からなかった。
最後の患者を送り出したのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。
六十代の女性で、右肩が上がらないと言って二か月前から通っている。
施術台から起き上がると、壁へ向かってゆっくり腕を上げた。
耳の横まで届いたところで、鏡越しに笑った。
「先生、上がるようになりました」
「まだ無理はしないでくださいね。痛みが戻ったら、上げる角度を少し下げて」
「先生のおかげです」
その言葉を聞くと、いつも少し困る。
僕がしたのは、筋肉をほぐし、関節が動きやすいよう手を添えただけだ。
上がるところまで毎日腕を動かしたのは、この人自身だった。
それでも、ありがとうございますと頭を下げられると、僕は自分にも誰かを治せる力があるような気がした。
その感覚が、嫌いではなかった。
たぶん、好きすぎたのだと思う。
患者を見送り、入口の札を裏返した。
タオルを洗濯機へ入れ、施術台を消毒する。
レジを締めて携帯を見ると、PERIODの業務連絡に二十七件の通知が溜まっていた。
予約が二組。
飛び込みが重なって、メインフロアはほぼ満席。
VIPルームが一室延長。
欠勤者が一人。
グラスが足りない。
ミズキから、どうしましょう、というメッセージが三回来ていた。
そのすべてに、店長のシミが返事をしていた。
――大丈夫。回す。
短い一文だった。
昔から、あいつは大抵のことを大丈夫の一言で済ませる。
本当に大丈夫なときも、大丈夫ではないときも、同じ調子で言う。
僕は整体院の照明を落とし、車へ乗った。
昼の仕事を終えたあと、夜の店へ向かう。
それが僕の日常だった。
PERIODは、繁華街の中心にある。
この街にあるシーシャ屋の中では、席数も、従業員の数も一番多い。
広いメインフロアのほかに、扉で区切られたVIPルームがある。
大人数の宴会にも対応できるし、一人で来た客をカウンターへ通すこともできる。
初めてシーシャを吸う人が、検索して最初に見つける店。
どこへ行けばいいか分からない観光客が、タクシーの運転手に名前を告げられる店。
少なくとも、そういう店にはなった。
僕一人の力ではない。
むしろ、僕が昼の整体院にいる間、店を店として成立させているのは従業員たちだった。
午後九時半。
PERIODの扉を開けると、最初に複数のボトルが鳴る音が聞こえた。
低い音楽。
客の笑い声。
炭を運ぶトングが皿へ触れる金属音。
甘い果物と花と菓子の匂いが、冷房の風に混ざって流れてくる。
受付に立っていたシミが、僕を見るなり眉を寄せた。
「来たん」
「人が足りないんだろ」
「回すって送ったやん」
「見たよ。だから来た」
「意味分からんわ」
シミはそう言いながら、入口で待っていた二人組へ笑顔を向けた。
「お待たせしました。お席、いま作りますね」
声の高さが一つ上がる。
柔らかい目。
相手の方へ身体を向け、ここにいる数秒だけは、あなたたち以外を見ていませんという顔をする。
元ホストだったと聞けば、大抵の人は納得する。
ただ、僕にとっては昔からこういう男だった。
顔がよくて、相手の欲しい言葉を見つけるのが早い。
そのくせ、自分が何を欲しがっているのかは、本人にもよく分かっていない。
「オーナー」
奥からミズキが、小走りで近づいてきた。
両手に空いたグラスを四つ持っている。
「すみません、一人休みになって。俺がもっと早く動けたら」
「休んだのはミズキじゃないだろ」
「そうですけど」
「グラス、洗うよ。テーブル見てきて」
「でも、オーナー昼も仕事だったんですよね」
「僕の店でもあるから」
ミズキは何か言いたそうにしたが、メインフロアから呼ばれて戻っていった。
近県から大学へ通うため、この街へ来た子だった。
正確には、今は通っていない。
大学を休学し、辞めるとも戻るとも決められないまま、しばらく街を歩いていた。
拾った、という言い方をシミはする。
僕は好きではなかった。
働かないかと声を掛けたのは僕だが、ここへ残ると決めたのはミズキ自身だ。
人間は物ではない。
拾うことも、拾われることも、本当はできない。
カウンターへ入り、腕まくりをした。
整体院では人の身体へ触れていた手で、今度はグラスを洗う。
シンクへ六つ目のグラスを置いたところで、VIPルームの扉が開いた。
レオが出てきた。
「オーナー、来たんすか」
「うん。どう?」
「余裕っすよ」
手には交換した炭が載った皿を持っている。
余裕だと言う人間ほど、本当に余裕があるか確かめた方がいい。
「五番テーブル、さっきから煙弱いって」
僕が言うと、レオはメインフロアの方を見た。
「あれ、最初に甘めがいいって言われたんで、熱ゆっくり入れてます」
「もう出して二十分経ってるよ」
「でも俺の作り方なら、あとから伸びるんで」
「一度、声掛けてきて」
「今VIP見てるんすよ」
「VIPは僕が行くから」
レオは少しだけ不満そうな顔をした。
それでも、分かりましたと言って五番テーブルへ向かった。
見栄っ張りで、適当で、自分のシーシャが店で一番美味しいと信じている。
困ったことに、実際に美味しい日がある。
飛び抜けて美味しい一台を作る夜があるから、遅刻も、発注忘れも、掃除の雑さも、僕はそのたびに大目に見てきた。
才能のある人間は、苦手なことを誰かに補ってもらえばいい。
僕はそう思っていた。
誰が補うのかまでは、深く考えなかった。
VIPルームへ入ると、六人の客が二台のシーシャを囲んでいた。
テーブルには、空いたグラスとボトルが並んでいる。
一台はよく煙が出ていた。
もう一台は、吸うたびにボトルが鳴るだけで、吐き出される煙が薄い。
「お待たせしてすみません。こちら、火力を調整しますね」
炭の位置を変え、味を確認する。
熱が足りていない。
客は怒っていなかった。
それでも僕は、追加のドリンクを一杯ずつサービスした。
部屋を出ると、シミが壁にもたれて待っていた。
「また無料にしたん」
「待たせたから」
「向こう、何も言うてなかったやろ」
「言わないだけで、不満だったかもしれない」
「不満やったかもしれん客全員にサービスしよったら、店潰れるぞ」
「今日は一人休んだから、店側の事情だよ」
「客には関係ない。せやから普通に直したらええ。無料にするんは、そのあとでも間に合う」
「でも」
「冬司」
名前を呼ばれて、言葉が止まった。
店では、シミも僕をオーナーと呼ぶ。
昔からの名前で呼ぶのは、僕が言い訳を始めたときだけだった。
「とりあえず飯食え。今日、昼から何も食ってないやろ」
「どうして分かるの」
「分かるわ」
「患者さんの合間に食べようとは思ってた」
「思っただけやろ」
シミはカウンターの下から、コンビニのおにぎりを二つ出した。
僕が来ると分かる前から買っていたらしい。
愛することも、愛されることもよく分からない男が、ときどきこういうことをする。
だから余計に、本人も周りも分からなくなる。
営業は、午前一時を過ぎるまで途切れなかった。
ミズキが注文を取り、僕がドリンクを作る。
シミは入口と会計を見ながら、遅れているテーブルへ先回りして声を掛けた。
レオはシーシャを作った。
一台を除けば、どれも注文どおりによくできていた。
その一台は、一人で来た女性客が注文したEARL GREYだった。
「単体でお願いします」
注文を受けたミズキが、伝票にもそう書いていた。
けれど運ばれたシーシャを吸った客は、首を傾げた。
「これ、何か混ざってます?」
僕はホースへ自分のマウスピースを付け、味を確認した。
紅茶の渋みと、ベルガモットの香り。
その後ろに、はっきりと柑橘の甘さがあった。
「少しお待ちください。作り直します」
「不味いわけじゃないんです。ただ、前に吸った単体が好きで」
「分かりました。今度は単体でお作りします」
作業台へ戻り、レオへ聞いた。
「EARL GREY、何か入れた?」
「ちょっとだけオレンジ足しました」
悪びれる様子はなかった。
「単体って書いてあるよ」
「単体より、こっちの方が美味いんで」
「あのお客さんは単体が好きなんだ」
「でも、俺のやつ吸んだら絶対こっちの方がいいってなりますよ」
「ならなかったよ」
レオの口元から、笑みが消えた。
「オーナー、もう味見したんすか」
「した。美味しかった」
「じゃあ、いいじゃないすか」
「美味しいけど、注文された味じゃない」
「そんな細かいこと気にします?」
「気にするよ」
僕は新しいボウルを出し、EARL GREYだけを詰めた。
レオの一台は、本当に美味しかった。
香りの広がりもよく、柑橘の甘さが紅茶の渋みを丸くしていた。
メニューへ載せてもいいと思える味だった。
それでも、今あの客が頼んだものではない。
新しく作った一台を持っていくと、客は一口吸って頷いた。
「これです」
その一言で十分だった。
カウンターへ戻ると、レオはもう別のボウルを作っていた。
僕は注意の続きを言えなかった。
忙しかったからだ。
少なくとも、そのときはそう思った。
最後の客が帰ったのは、午前二時半だった。
照明を少し明るくすると、営業中には見えなかった汚れが浮かび上がった。
テーブルの水滴。
ソファの隙間へ落ちたマウスピースの袋。
床に散った灰。
満席だった店は、客が帰ると急に広くなる。
OMNIBUSという小さな店の店主が、以前そんなことを言っていた気がする。
あの店とは、広さも客層も、営業のやり方も違う。
僕はまだ、あの店のことをよく知らなかった。
「オーナー、話あるんすけど」
レオが、作業台の前で言った。
ミズキはグラスを拭く手を止めた。
シミだけは、驚いた顔をしなかった。
「どうしたの」
「俺、今月で辞めるんで」
あまりに軽い声だった。
明日の出勤時間を変えてほしいとでも言うような調子だった。
「急だね」
「一応、月末までは出ますよ」
「何かあった?」
「別に」
レオは、洗い終えたシーシャのステムを布で拭いていた。
いつもなら水滴を残したまま片づけるのに、その夜に限って丁寧だった。
「店に不満があるなら、聞くよ。給料のこと? シフト?」
「そういうんじゃないっす」
「昼の時間を増やしたいなら調整できるし、作る方へ集中したいなら――」
「冬司」
シミが、二度目に名前を呼んだ。
「まだ何も聞いてないやろ」
「だから、聞こうとしてる」
「お前が今しよるんは、聞くことやなくて条件出すことや」
僕は口を閉じた。
レオは少し笑った。
「俺、ここにおっても、もう学ぶことないんすよ」
ミズキがレオを見た。
「どういう意味ですか」
「そのまま。俺より美味いシーシャ作れる奴、ここにおらんやろ」
「シミさんも、オーナーもいるじゃないですか」
「店回すんが上手いんと、シーシャ美味いんは別やけん」
レオは僕を見た。
「さっきのEARL GREYだって、俺の方が美味かったでしょ」
「味だけならね」
「ほら」
「でも、頼まれたものではなかった」
「俺、その細かいのがもう面倒なんすよ」
シミは何も言わなかった。
ミズキは、手に持ったグラスを強く握っていた。
「次は決まってるの?」
僕は聞いた。
「まだっす」
「だったら、決まるまでいてもいいんじゃないかな」
「そういうの、いらないっす」
「でも、仕事がなくなるだろ」
「どうにかしますよ」
「生活は?」
「オーナーには関係ないでしょ」
その通りだった。
それでも、そうだねとは言えなかった。
困ると分かっている人間を、そのまま行かせることができない。
昔からそうだった。
僕が何かをしなければ、この人はもっと悪くなる。
そう思った瞬間には、相手が頼んでいないものまで差し出してしまう。
レオは鞄を肩へ掛けた。
「俺がおらんなったら、ここのシーシャ、レベル落ちますよ」
「レオさん」
ミズキが呼び止めた。
レオは振り返らなかった。
従業員用の扉が閉まる。
店内には、洗浄機の低い音だけが残った。
僕は追いかけようとした。
シミが、僕の腕を掴んだ。
「今日はやめとけ」
「でも」
「あいつ、自分で辞める言うたんやろ」
「次も決まってないんだよ」
「それも自分で決めたことや」
「放っておけってこと?」
「違う」
シミは僕の腕を離した。
「助けるんと、相手の足まで代わりに動かすんは違うって言いよる」
「そんなつもりはないよ」
「お前はいつも、そんなつもりないままやるんよ」
言い返せなかった。
シミは自分の携帯をカウンターへ置いた。
伏せる直前、画面が光った。
表示された名前が、一瞬だけ見えた。
シナ。
僕の知らない名前だった。
シミは通知を開かず、携帯を裏返した。
「ミズキ。今日はもう上がってええよ」
「でも、片づけが」
「俺らでやる」
ミズキはしばらく迷ってから、頭を下げた。
「お疲れさまでした」
「お疲れさま」
着替えを済ませ、ミズキも店を出ていった。
扉が閉まると、PERIODには僕とシミだけが残った。
「あの子、誰?」
僕は聞かなかった。
従業員の私生活へ踏み込むべきではないと思ったからだ。
レオを追いかけようとした人間が考えることではなかった。
カウンターの端に、作り直したEARL GREYが残っていた。
レオがオレンジを足した方ではない。
僕が単体で作り直し、客が吸い終えた一台だった。
新しいマウスピースを付け、残った煙を吸った。
熱はもう落ちている。
紅茶の渋みが先に立ち、ベルガモットの香りは細くなっていた。
甘さはほとんど残っていない。
それでも、注文した客が欲しかったのは、この味だった。
美味しいものを差し出すことと、欲しいものを差し出すことは、同じではない。
正しいものを与えることと、その人を助けることも、きっと同じではない。
僕はその違いを、分かっているつもりだった。
分かっているだけで、できてはいなかった。
店の名前を決めたのは、僕だった。
PERIOD。
終止符。
何かを終えた人間が、次の一文を始めるまで休める場所にしたかった。
けれど僕は昔から、終わらせることが苦手だった。
帰ろうとする人間を引き止める。
壊れかけた関係を繋ぎ止める。
もう持てないものまで、両手へ抱え込む。
どこに終止符を打てばいいのか分からない男が、終止符という名前の店を作った。
レオがいなくなるまで、あと一か月。
その一か月で僕に何ができるのかを、もう考え始めていた。
シミは、伏せた携帯を一度だけ見た。
画面はもう、光っていなかった。
僕たちの店は、街で一番大きかった。
だから僕は、少しくらい多く抱えても大丈夫だと思っていた。
大きな店ほど、沈み始めたことに気づくのが遅い。




