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OMNIBUS SMOKE  作者: gongon


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25/27

第二十五煙 MOSAIC

満席になる店には、二種類ある。


椅子が足りない店と、居場所が足りない店だ。


その夜のOMNIBUSは、椅子だけが足りなかった。


記念日ではない。


イベントもしていない。


誰かが声を掛けたわけでも、示し合わせたわけでもなかった。


ただ、普段は別々の時間に来る常連たちが、その日に限って同じ夜を選んだ。


最初にいたのは、安倍だった。


カウンターの端へ帳簿を広げ、売上と経費の数字を見比べている。


注文は、いつものBERGAMOT。


「まだ開けたばっかりやのに、もう吸うん?」


「客が来る前に飲食しないと、今日は食べる暇がなくなるかもしれない」


「予約、入ってないよ」


「予約がないことと、客が来ないことは同じじゃない」


「今日は来ると思う?」


「分からない。だから帳簿を見ている」


未来を予測できない人間が、過去の数字へ逃げたときの言い方だった。


俺はBERGAMOTを一台立ち上げ、安倍の前へ置いた。


一口目を吸うより先に、扉のベルが鳴った。


タカダさんだった。


BLUEBERRY MINTとチェの煙草。


聞く前から注文は決まっている。


そのすぐあとに、先生が来た。


スキンヘッドを照明へ光らせ、いつもの鞄を抱えている。


「今日は採点なし?」


「答案はありますが、今日は持って上がらないことにしました」


「珍しいね」


「この前、タカダさんに生徒の誤答を営業へ使われましたから」


「使うたんやのうて、参考にしただけじゃ」


「同じことです」


先生の注文はROSE。


安倍のBERGAMOTを出したばかりで、二台目のボウルを作り始める。


タカダさんは、まだ自分の台が出ていないのにチェの煙草へ火をつけた。


「ワシが先じゃろ」


「先生の方が静かに待てるけん」


「待てん客を先に出すんが商売じゃねえんか」


「待てん客に待つことを教えるんも、店主の仕事よ」


「お前、看護師んときも患者にそがいなこと言うとんか」


「病院ではちゃんと優しいよ」


「ここでも優しゅうせえや」


先生が笑った。


まだ、このときは余裕があった。


三人目は、静だった。


扉を開け、先生の姿を見つけると、ほんの少しだけ足を止めた。


先生も静を見る。


「こんばんは」


「こんばんは」


二人は、それだけ言った。


静は先生の隣ではなく、向かいのソファへ座った。


「何にする?」


「ROSE」


先生と同じ注文だった。


俺は伝票へ、ROSEともう一つ書いた。


同じ花でも、別々のボウルへ詰める。


二人は互いを見ないまま、タカダさんの営業の話を聞いていた。


それでよかった。


言わなければならないことを言い終えた人間は、同じ場所へいても、無理に続きを話さなくていい。


四人目と五人目は、一緒に来た。


美緒とシナだった。


「めっちゃおるやん」


美緒が店内を見回した。


「帰る?」


シナが聞く。


「帰らんでええよ。まだ席あるけん」


「店長、顔がもう忙しいよ」


「生まれつきよ」


「前より険しくなっとるけど」


二人は静の横へ詰めて座った。


美緒はGRAPEFRUIT MINT。


シナはJASMINE MINT。


伝票へ書く注文が、少しずつこの店の目次みたいになっていった。


BERGAMOT。


BLUEBERRY MINT。


ROSEが二台。


GRAPEFRUIT MINT。


JASMINE MINT。


一つずつなら、ただの味だった。


だが、誰が頼んだかまで分かれば、その後ろに一つずつ話がある。


俺はボウルを作り、炭を置き、タイマーを並べた。


安倍が帳簿を閉じた。


「グラスは俺がやる」


「助かる」


「シーシャは?」


「俺がやる」


「全部か」


「店主やけんね」


「共同経営者も店主だろう」


「ほんなら、タカダさんのお願い」


安倍はタカダさんを見た。


「断る」


「店主やないやん」


結局、安倍は飲み物と会計を受け持った。


俺は熱の入り方が違う六台を、順番に立ち上げていった。


炭を置いた時刻を確かめる。


早いものから吸い出し、味を見て、外側の炭を少し動かす。


客が増えても、火入れの時間までは急いでくれない。


待たせたくないと焦れば、結局、雑な一台を出すことになる。


「今日は遅いのう」


タカダさんが言った。


「いらんのなら、先生に二台吸ってもらうよ」


「誰がいらん言うたんなら。丁寧に作れ」


「急かしたん、そっちやろ」


「急げとは言うたが、雑にせえとは言うとらん」


「営業マンって便利やな」


「言葉で飯食うとるけぇのう」


ようやくBLUEBERRY MINTを出した頃、またベルが鳴った。


森岡だった。


私服姿で入ってきた警察官は、満席に近い店内を見て、一度だけ目を細めた。


「今日は、本当に店だったんですね」


「普段は何やと思っとん」


「何度来ても、営業しているのか会合をしているのか分かりません」


「今日は客ばっかりよ」


「その言い方だと、普段は違う人がいるみたいですね」


「休みの日まで仕事せんでええやろ」


空いていた一人掛けへ森岡を案内した。


注文はBLACK CURRANT。


初めて来た夜と同じだった。


「もう吸い方、分かる?」


「前よりは」


「咳したら逮捕な」


「何の罪ですか」


「初心者隠した罪」


「あなたの店でしか通用しませんよ」


BLACK CURRANTのボウルを作り始めたところで、もう一度ベルが鳴った。


ゴトウだった。


暗い色のジャケット。


手に持っているのは、携帯だけ。


森岡の姿を見つけても、以前のようには足を止めなかった。


「こんばんは」


ゴトウが言う。


「こんばんは」


森岡も返した。


警察官と半グレの頭は、今では店で会えば挨拶をする程度の仲になっていた。


仲がよくなったわけではない。


互いを知らないふりをすることに、慣れただけだった。


「今日は混んでいますね」


ゴトウが俺へ言った。


「見たら分かるやろ」


「騒ぎは起こしませんよ」


「誰も聞いてないのに言うと、逆に怖いけんやめて」


ゴトウは笑った。


空いている席は、森岡の横しかなかった。


「こちらで?」


「嫌なら帰ってもええよ」


「店長が決めた座席でしょう。従います」


森岡は何も言わなかった。


少しだけ身体を横へ寄せた。


ゴトウの注文は、WHITE MUSK KASHMIR。


伝票の空いているところが、少なくなってきた。


次に聞こえたのは、ベルより先に雪駄の音だった。


ぺた、ぺた、と階段を上がってくる。


ボッさんが扉を開けた。


いつもの作務衣。


店内を見て、静かに扉を閉めようとした。


「帰らんでええよ」


俺が止めた。


「今日は無理でしょう」


「一人なら入れる」


「どこにですか」


確かに、椅子は埋まっていた。


安倍が倉庫から折り畳み椅子を持ってきた。


「一席増えた」


「こういう店でしたっけ」


「今日だけね」


ボッさんは折り畳み椅子へ座った。


作務衣に雪駄で、教室に追加された保護者席のように見えた。


注文はCANE MINT。


「朝礼、どうなったんなら」


タカダさんが聞いた。


「この前、CANE MINTを吸って美味しかったですと言いました」


「一分あったんか」


「残りは黙りました」


「感想は?」


「誰も何も言いませんでした」


「成功じゃねえか」


「はい。少し嬉しかったです」


「次の朝礼で使えるのう」


「もう話しません」


ボッさんは、それだけ言うと黙った。


愚痴を一台分吐いた夜から、職場は何も変わっていないらしい。


それでも、あの日の愚痴はあの日で終わっていた。


ボッさんが来てから十分もしないうちに、扉がまた開いた。


黒いレース。


膨らんだスカート。


編み上げの厚底靴。


顔より先に服装で分かる。


ジェーンちゃんだった。


「混んでいますね」


「今日はおかしいんよ」


「帰った方がいいですか」


「いや、もう一人くらいなら」


「どこへ座るんですか」


今日、二度目の質問だった。


安倍がボッさんの折り畳み椅子を、少し横へ動かした。


ソファとの間に、一人分の隙間ができる。


「そこ」


ジェーンちゃんは迷わず座った。


隣のボッさんを、上から下まで見る。


「その服、バンドの衣装ですか」


「作務衣です」


「バンドは?」


「してません」


「そうですか」


会話は、それで終わった。


俺は次のボウルへ手を伸ばした。


タカダさんは先生へ何かを話し、シナと美緒は静の婚約指輪を見せてもらっている。


森岡とゴトウは、互いがいないように同じテーブルを使っていた。


安倍はグラスを洗っている。


誰も、作務衣の男と黒い服の女を気に留めなかった。


本人たちも、隣に座った相手へ興味があるようには見えなかった。


ジェーンちゃんの注文はVIOLET。


これで十台になった。


「ほんまに全部作るんか」


安倍が小さな声で聞いた。


「注文受けたけんね」


「待ち時間は伝えろ」


「もう伝えた」


「これ以上は入れるなよ」


「俺に言わんと、客に言ってや」


言った直後、扉のベルが鳴った。


安倍が俺を睨んだ。


「俺は呼んでないよ」


入ってきたのは、ルイさんだった。


肩に古いギターケースを背負っている。


店の中を見回し、目を丸くした。


「今日は、えらい賑やかやね」


「座るとこないけど、一台いく?」


「今日はええんよ。これから歌いに行くけん」


ルイさんは鞄から、何枚かのフライヤーを取り出した。


「次のライブのやつ。置かせてもろてもかまん?」


「カウンターの端なら」


「ありがと」


「魔法使いさんじゃ」


タカダさんが声を上げた。


ルイさんは、そちらへ小さく手を振った。


「今日は、よその店で魔法使うてくるんよ」


「売上上げる魔法、まだ覚えとらんのか」


「営業さんがおるうちは、うちが覚えんでもええやろ」


二人が話している間に、ジェーンちゃんがフライヤーを一枚取った。


表と裏を見て、ルイさんを見る。


「出演者は、ルイさんだけですか」


「ほかにも二組おるよ」


「持ち時間は」


「四十分くらい」


「物販はありますか。音源は。取り置きはどこへ連絡すればいいですか。今日のライブにも今から入れますか」


「いっぺんにようけ聞くねえ」


「全部知りたいので」


「今日のは、まだ間に合うよ。けど初めてやろ。無理して来んでも――」


「行きます」


答えが早かった。


ルイさんが俺を見た。


「この子、誰なん?」


「ジェーンちゃん。ハマりやすい人」


ジェーンちゃんは、フライヤーを大事そうに鞄へ入れた。


ルイさんが、くしゃっと笑う。


「好いてもらえるんは嬉しいけど、この子の好きは、ちょっと長そうやね」


「長いです」


ジェーンちゃんは真顔で答えた。


ルイさんは時計を見た。


「ほんなら、先に行って待っとるね」


「VIOLETが出たら向かうん?」


俺が聞くと、ジェーンちゃんは頷いた。


「急いで吸います」


「シーシャは急いで吸うもんやないよ」


「では、ライブへ遅れます」


「今日は諦めたら?」


「それは無理です」


ルイさんが、もう一度笑った。


「間に合わんかったら、次もあるけん。歌は逃げんよ」


そう言い残し、ギターケースと一緒に店を出ていった。


店へいた時間は、五分もなかった。


それでも、魔法使いが通ったあとのように、ジェーンちゃんの帰り道だけは変わっていた。


その直後、俺の携帯が震えた。


――先輩、今日、客一人いけますか。


コーセイだった。


県外へ引っ越してから、こちらへ戻るたびに届く連絡。


俺は店内を見た。


椅子はない。


ボウルを置く場所も、ほとんどない。


――立ちでもええなら。


返すと、一分もしないうちに扉が開いた。


「もう下まで来とったんか」


「断られたら、帰ろうと思ってました」


コーセイは店へ入り、すぐにゴトウを見つけた。


表情が少し固くなる。


ゴトウも、コーセイを見た。


「お久しぶりです」


先に言ったのはゴトウだった。


「……お久しぶりです」


「元気そうで何よりです」


「おかげさまで」


どちらも、本心をすべて言っているようには聞こえなかった。


だが、嘘とも言い切れなかった。


コーセイは半グレを辞め、県外で彼女と暮らしている。


ゴトウは、もう元コーセイのグループへ手を出さないと約束した。


店の中で、二人が確かめることはそれ以上なかった。


安倍が、倉庫から小さな丸椅子を持ってきた。


「これが最後だ」


「消防法に怒られん?」


俺が聞くと、安倍は真顔で答えた。


「だから最後だと言っている」


コーセイは丸椅子へ座った。


「PINE MINT、いけますか」


「時間かかるよ」


「待ちます。もう追われてないんで」


コーセイが笑った。


ゴトウは何も言わず、WHITE MUSK KASHMIRを吸った。


俺はPINE MINTを伝票の最後へ書いた。


注文をすべて並べる。


BERGAMOT。


BLUEBERRY MINT。


ROSEが二台。


GRAPEFRUIT MINT。


JASMINE MINT。


BLACK CURRANT。


WHITE MUSK KASHMIR。


CANE MINT。


VIOLET。


PINE MINT。


これまで店で聞いた話が、味の名前になって一枚の伝票へ並んでいた。


その夜、誰も自分の過去を話さなかった。


話す必要がなかった。


タカダさんが笑い、先生がそれをたしなめる。


静と美緒とシナが、結婚式の料理について話している。


森岡とゴトウは、互いのホースが絡まないよう、足元だけは静かに譲り合っていた。


コーセイは彼女から来たメッセージへ返事をしている。


ボッさんは黙ってCANE MINTを吸う。


ジェーンちゃんはVIOLETを吸いながら、ルイさんのフライヤーを何度も見直している。


安倍は洗ったグラスを並べ、俺は炭の灰を落として回った。


ヤクザの息子も、半グレの頭も、警察官も、教師も、風俗を辞めた女も、看護師も、営業マンも、不動産鑑定士も、工場で働く男も、バンドを追いかける女もいた。


だが、その夜の店にいたのは、客と店主だけだった。


誰が昼の人間で、誰が夜の人間か。


誰が正しくて、誰が間違っているか。


煙の中では、輪郭だけが少しぼやけていた。


「せっかくなら、あれ開けたらどうだ」


安倍が、棚の上を指した。


少し前に入れたばかりのMOSAIC。


いくつもの果物が最初から一つになった、出来上がったミックスフレーバーだった。


「まだ台増やすん?」


「試す人数が多い方が、商品の判断はしやすい」


「原価計算しよん?」


「店から出す。全員で試せばいい」


「急に気前ええやん」


「一人分の台を十一人で吸わせるんだ。経営としては悪くない」


「やっぱりケチやな」


安倍は否定しなかった。


俺は棚からMOSAICを下ろした。


容器を開ける。


最初に甘い果物の香りが立ち、その奥から、少し酸味のある香りが重なった。


何の果物か一つずつ当てようとすると、別の香りが前へ出てくる。


葉を軽くほぐし、ボウルへ均一に詰めた。


炭を外側へ置く。


これだけ台数があっても、最後の一台だけ特別に急がせることはできない。


ほかの台の火力を見ながら、MOSAICへゆっくり熱を入れた。


煙が立ち上がったところで、状態を確かめる。


甘い。


だが、甘いだけではない。


熟した果物の奥へ、舌の端に残る軽い酸味があった。


一口目と、吐き終えたあとの印象が少し違う。


炭の位置を整え、店の中央へ置いた。


「MOSAIC。店から」


「珍しいのう」


タカダさんが最初にホースを取った。


自分のマウスピースへ差し込み、長く吸う。


「ベリーじゃな」


「柑橘もおるやろ」


美緒が言った。


「甘い方が強くない?」


シナが吸う。


「花は入っていませんね」


ジェーンちゃんが言った。


「果物ですから」


先生が答えた。


「果物ですね」


ボッさんも言った。


「それは全員分かっとる」


タカダさんが笑った。


ホースは、マウスピースを替えながら店を一周した。


先生から静へ。


静から美緒へ。


美緒からシナへ。


シナからジェーンちゃんへ。


ジェーンちゃんは一口吸うと、何も言わずボッさんへ渡した。


「どうぞ」


「ありがとうございます」


そのとき交わした言葉も、それだけだった。


ボッさんからコーセイへ。


コーセイからゴトウへ。


ゴトウは自分のマウスピースをつけ、森岡を見た。


「吸いますか」


「いただきます」


警察官が、半グレの頭からホースを受け取った。


二人の間にあったものが消えたわけではない。


ただ、その瞬間だけは、次に渡す人間がほかにいなかった。


森岡からタカダさんへ戻り、最後に安倍が吸った。


「どう?」


俺が聞く。


安倍は煙を吐き、少し考えた。


「売れる」


「味の感想は?」


「その意味も含んでいる」


「やっぱり仕事しよるやん」


「共同経営者だからな」


全員が吸ったのに、何の果物が中心なのか、最後まで意見は揃わなかった。


揃える必要もなかった。


MOSAICは、最初から一つの果物へ戻るための味ではない。


いくつもの甘さと酸味が、何か一つに決められないまま、一台の煙になっていた。


最初に帰ったのは、ジェーンちゃんだった。


「ライブ、間に合わんよ」


俺が言うと、残ったVIOLETを名残惜しそうに吸った。


「また続きから吸えますか」


「シーシャは待ってくれんね」


「では、今日はライブを諦めます」


「さっきはライブを諦めれん言うたやん」


「今はVIOLETも好きなので」


好きなものが、また一つ増えてしまったらしい。


結局、ルイさんの言葉を信じ、次のライブへ行くことにした。


ジェーンちゃんは一人で店を出た。


ボッさんは、その少しあとに帰った。


二人の帰る時間は重ならなかった。


まだ、それでよかった。


静は先生より先に席を立った。


「先生、お先に」


「気をつけて」


「はい」


先生は結婚式の話をしなかった。


静も、来るかどうかを聞かなかった。


同じROSEを別々に吸い、別々の時間に帰った。


森岡が帰り、ゴトウが帰る。


コーセイは彼女へ頼まれた土産を買うため、閉店前の店を調べながら階段を下りた。


美緒とシナは、次に食べに行く店の話をしながら出ていった。


先生が帰り、最後まで残ったタカダさんも、チェの煙草を一本だけ灰皿へ残して帰った。


満席だった店に、空いた椅子が一つずつ戻ってきた。


客がいなくなると、店は急に広く見えた。


テーブルには、空いたグラス。


使い終えたマウスピース。


灰の落ちた皿。


香りの薄くなった何台ものシーシャ。


煙だけが、まだ天井の近くへ残っていた。


安倍はカウンターへ座り直し、閉じていた帳簿を開いた。


「今日くらい、数字見るんやめたら?」


「今日みたいな日だから見るんだ」


「店、面白かった?」


安倍の手が止まった。


店を始める前、この男は、俺の店が本当に面白いのか見てみたいと言った。


客では失敗したときに口を出せないから、自分も金を出すのだと。


安倍は、空になったソファを見た。


「忙しかった」


「感想、それだけ?」


「少なくとも、空き店舗だった頃より価値はある」


不動産鑑定士らしい答えだった。


俺は笑った。


もし、あの先輩が生きていたら、この夜を見て何と言っただろう。


低い声で、洋画の親父みたいに笑いながら、悪くないと言ったかもしれない。


店を始めろと言った親友にも、いつか見せたいと思った。


ヤクザの息子が店を始めると言えば、笑った人間もいた。


看護師一本で食っていた俺が、夜の人間を集めて何をするのかと聞いた人間もいた。


俺にも、何を作ろうとしているのか、最初から分かっていたわけではない。


ただ、誰が来ても一台を出した。


話したければ聞いた。


話したくなければ、煙だけ置いた。


帰る人間を引き止めず、また来た人間へ席を作った。


その繰り返しが、あの夜の満席になった。


MOSAIC。


モザイクは、色を一つに混ぜるものではない。


違う色の欠片を、違う形のまま隣へ置き、離れたところから一枚の絵にする。


先生とゴトウが、同じ人間になったわけではない。


森岡とシナが、同じ夜を生きてきたわけでもない。


ボッさんとジェーンちゃんは、まだ互いの名前すら知らなかった。


全員が分かり合ったわけではない。


ただ、同じ時間に、同じ店へいただけだった。


乗合バスも、たぶんそれでいい。


別々の場所から乗り、しばらく同じ方向へ揺られ、自分の停留所が来れば降りていく。


隣の人間がどこから来て、どこへ帰るのか、全部知らなくてもかまわない。


問題のない人間は、一人もいなかった。


けれど、その夜、問題を起こした人間も一人もいなかった。


それがOMNIBUSにとって、たぶん一番珍しい夜だった。

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